國體護持總論
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著書紹介

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經濟學の迷走

そもそも、「經濟」の語源は、「經國濟民」、「經世濟民」であり、國を治め民の苦しみを救ふといふ意味であつて、本來は「政治」の意味であつた。つまり、「政治」の概念の中から、現在使用されてゐる「經濟」の概念が分離してきたものであつて、本來は「政治」の概念に統一して一體のものと捉へても不自然ではないはずである。

しかし、「經濟」といふ概念が、明治後期から、財貨(サービスを含む)の生産、流通、消費とその構造を意味する言葉に變化して今日に至つたことから、「經濟の目的」とは、生活に必要な財貨の生産・配分と捉へ、經濟學は「財貨の配分」に關する學問となり、その資源配分の最適な状態を實現するためのものとなつた。

資源や財貨の有限性を認識すれば、消費者が消費する財貨から受ける滿足(效用 utility)を全てについて完全に滿たすことはできない。また、ある財貨による效用を高めるために、その生産量を增大させるとすれば、他の財貨の生産量を減少させなければならないといふ状態、つまり「パレート最適(Pareto Optimum)」又は「パレート效率性(Pareto efficient)」の社會状態にあることから、經濟學は、まさにこの財貨の配分のための技術的な學問となつたのである。しかし、配分の公平性が實現しなければ、政治とは無縁の學問となる。そこで、「最適配分」を實現するための「經濟思想」が生まれた。それは、「見えざる手」(アダム・スミス)によつて自然的に秩序が形成され調和するとする「放任主義」と、共産主義などのやうな「統制主義」である。これまでは、非共産主義の各國は、自國の經濟政策といふ「統制」と、國民の自由競爭といふ「放任」との折衷的な運用がなされてきた。それは、放任によつて生ずる矛盾を放置すれば、統制への反動を生むことになり、それが政治思想の共産主義へと大きく傾斜することを恐れたためである。ところが、ソ連や東歐の統制主義が濃厚な國家群が崩壞し、東歐における冷戰構造が終焉を迎へると、放任の矛盾から生じる統制への反動を支へる共産主義への脅威がなくなり、世界は露骨に放任主義の方向へ振れた。そして、その結果、いまや經濟全體が「新自由主義(市場原理主義、市場萬能主義)」といふ「欲望の怪物」(欲望經濟學)に支配されて食ひ荒らされてゐるのである。經濟學は、各部門毎に瑣末に細分化されて極度に技術的・專門的になるだけで、配分の公平性を實現しうる全體像の理論や政策を編み出せず、本來の經濟學は死滅した。といふよりも、「經濟學には正義がない」とされて久しい。「お金がお金を生んでいく經濟」といふ不道德を助長し、額に汗をして働くことを「經濟的でない」とまで言ひ切つて蔑むやうな堕落をしてしまつたからである。つまり、經濟學者(エコノミスト)とか分析家(アナリスト)と稱する者などは、市場原理主義による「賭博經濟」によつて生ずる經濟動向の亂高下の豫測を生業とする「豫想屋」と成り果て、證券取引所や商品取引所などの「博打場」に出入りする相場師などの博打打ちに情報を提供するだけとなつたのである。

いまや、「經濟的」といふ言葉は、「政治的」とか「文化的」とかの言葉と比較して、その意味の貧困さが顯著となつてゐる。單に、採算效率性があるといふ程度であつて、それ以上の深みがない輕薄なものであることが、經濟學の迷走を表してゐる。

平成十年にノーベル經濟學賞を受賞したインドのアマーティア・セン(米ハーバード大學教授)は、「弱い立場の人々の悲しみ、怒り、喜びに触れることができなければ、それは経済学ではない。」(平成二十一年二月二十四日、朝日新聞朝刊「市場依存 危機生んだ」インタビュー記事)と語り、經濟學の迷走には氣づいてはゐるものの、現在の經濟學は、その悲しみと怒りを解決し喜びを創造しうる具體的な經濟構造を世界に向かつて提示できないでゐる。

水が出なければ、それは井戸ではなく單なる竪穴である。安定した人類の福利が實現できなければ經濟學ではなく單なる豫想屋學である。經濟といふ生身の生活のことが、無機質な學問で解明できるはずがなく、今や經濟學は有害無益な學問となつた。しかし、經濟學者(エコノミスト)とか分析家(アナリスト)たちは、そのことが發覚して自己の虚名なる地位と權威を失ふことを恐れ、もつと深く複雜に穴を掘れば水が出てくるとばかりに、賢しらく統計學、數學などを驅使して、素人には絶對に解らないやうな金融工學などの手法によつて人々を騙し續けるだけである。そして、學問的權威に弱い素人は、それが正しいと盲信的に追随する。彼らの思ふ壺である。

現在、内閣府が經濟規模と經濟成長などを數値化して發表してゐる世界的基準に則つた國民經濟計算(SNA)のうち、たとへば、國内で生産された財貨、サービスの付加價値の合計額とされる國内總生産(GDP)において、これに數値的に反映されるのは「市場取引」によるものに限定され、家事勞働や奉仕活動などはこれに含まれてゐない。技術的な問題があるとしても、これも根源的な意味において市場原理主義に支配されてゐることが解る。すなはち、市場取引においては、財貨の破壞や燒失など社會的價値の絶對的消滅についても、それを負(財貨の減少)として認識するのではなく、結果的には、正(財貨の增大)と認識してしまふ點に重大な缺陷があるからである。具體的に言へば、ある人の所有する自宅が火事や震災によつて燒失全壞し、自宅に居た家族も燒死し、價値ある多くの家財道具も燒失した例を考へると、これは、まさしく人材の喪失、資源と財貨の減少と滅失であり、社會的にも經濟的にも「絶對的な損失」であることを誰も疑はないであらう。ところが、市場取引からするとさうではない。自宅や家財道具には火災保險、地震保險などが掛けられてをり、家族にも生命保險などが掛けられてゐると、當然に被害者や遺族に保險金が支拂はれる。また、それが何者かの仕業であれば、その者に對し、損害賠償を請求して賠償金を支拂はせる。すると、これらは市場におけるサービスの提供の增大となつて、これらの保險金などは國内總生産の數値に組み入れられる。こんな事故が起こらないときは、國内總生産に數値化されないのに、事故が起きると、多額の保險金や損害賠償金等に相當する數値が國内總生産に數値化される。これは日常頻繁に起こつてゐる交通事故の場合も同樣である。いはば、自宅が燒失し家族が死ぬなどといふ極めて不幸な事故が起これば起こるほど國内總生産が增大し、これが「經濟成長」の指標とされるのである。不幸の增大は、經濟の發展として認識されるのである。

さらに、過剰生産と過剰消費がなされ、大量投棄がなされればなされるほど國内總生産が增大し、健全な社會道德と離反した情況になればなるほど「經濟成長」したとして歡迎する背德の學問體系が現在の經濟學なのである。

人間は、個體においても一定年齡に達したときに成長が止まる。いつまでも成長し續けて山よりも高い巨人になり續けるのではない。山(地球)より大きい猪(人類)は居ないのである。人間は、個體の成長が止まつてから、より一層德性を高めることに專念するものである。成長期には、榮養を多く攝取しても、成長が止まれば、榮養過多は健康を害する。ところが、いつまでも唯物論的に經濟が成長し續けると未だに爲政者や經濟人は信じてゐるのである。飽和絶滅する危機が迫つてゐるほど圖體が大きくなつた現在でも、まだ成長が足りないとの強迫觀念に苛まれてゐる。成長が止まることが危機と捉へ、經濟成長率が高いことが幸福であると單純に盲信する。成長が止まることが、德性を高める轉機であるとは考へない。しかし、多くの人々は、これが誤りであることを健全な本能の作用によつて解つてゐるはずである。

この點に氣付いたマルサスとその繼承者は、飽和絶滅の危機を認識し、それを回避するためには、飢餓、貧困、戰爭などによる人口抑制原理を受け入れた。そして、その上で、このやうな悲劇の繰り返しを回避するために、道德的抑制や政策的な産兒制限などを主張した。實は、このことは大きな問題提起を投げかけてゐる。それは、飢餓、貧困、戰爭を人類の生存にとつて「善」と認識しうるか否かといふことである。これを既存の倫理道德や合理主義に基づく人權思想で否定することはたやすい。ところが、これを否定しつつも、合理主義と進化論に基づく優生思想によれば、医學的な人口抑制を肯定しうるのである。これは、明らかな矛盾である。軍事的に殺戮することを否定しながら、醫學的に殺戮することを肯定するからである。そして、いま、温室效果ガスの排出制限だけを熱心に議論する者は、飢餓、貧困、戰爭を「惡」とし、さらに優生思想も「惡」とする「人道思想」に基づいてゐる點において共通するが、そんな僞善者たちの小田原評定の果てには飽和絶滅しかない。しかも、それは、人口問題の對策を疎かにしたことにより、飽和絶滅を察知した人類の自己保存本能の行動によつて訪れる飢餓と戰爭で世界が崩壞するのである。まさに「愚によつて滅ぶ」人類の姿である。

人類は、決して自然災害や異常氣象だけでは滅亡しない。むしろ、それを契機とした政治的要因によつて滅亡するのである。前出のアマーティア・センの『飢餓と公共の役割』に關する研究によれば、「貧困とは自由の缺如である」とし、全ての飢餓や貧困は、たとへ自然災害を契機とする場合であつても、終局的には不平等と自由の缺如といふ政治的要因に全て起因するとした。さらに敷衍して説明すれば、人類は、天變地異が多發すると、食料などの確保に不安を抱き生存の危機を感じることによつて保存本能が作動し、異變に適應しうる少數の強者が自己生存をはかるために食料等を獨占することにより、飢餓と貧困が加速して人口抑制がなされ、これに對抗して適者生存競爭に參加する者との爭奪によつて戰爭が誘發されるといふことである。

では、マルサスのやうに、飢餓、貧困、戰爭を「善」として諦觀するだけでよいのか。確かに、本能は、生存を維持するための指令であり、この「性善説」からしても飽和絶滅を回避するための本能行動によつて起こりうることは、究極の生存を維持するためのものとして受け入れざるを得ない。

しかし、人類は、そのやうな極限状況における生存の維持だけを本能の指令としてきたのではない。それを回避し、そして、その危機感から誘發される飢餓、貧困、戰爭もまた事前に回避して繁榮を保つことも本能の指令なのである。

それゆゑ、マルサス派が主張する、道德と政策による人口抑制といふ方向性は正しいとしても、現状のままでは實效性に乏しい。それは、人の營みと社會構造を變革せずして、現状のままを維持する限り實現は不可能であることを意味する。そのために、唯物論と進化論、そして、これと不可分一體となつた優生思想と合理主義が忍び込んでくる隙を與へてしまつてゐるのである。

經濟學は、このやうな經濟における本質的な問題に全く沈黙し、むしろこれらの問題を解決しうる新たな經濟思想を提示しないことを本分と錯覺して死學に成り果てた。いまや、經濟思想を主張する熱き經濟學者は一人も存在せず、現在の經濟動向を解説する經濟評論家(豫想屋)しか存在しないのである。

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