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トップページ > 各種論文目次 > H14.05.25 自 衛 官 諸 君 へ

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自 衛 官 諸 君 へ

諸君には一旦緩急あれば義勇公に報ずる気概があるか。

 

自衛隊法の第三条には、「自衛隊は、わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対しわが国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当るものとする。」とあり、また、第五十二条には、「隊員は、わが国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳繰を養い、人格を尊重し、心身をきたえ、技能をみがき、強い責任感をもつて専心その職務の遂行にあたり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に努め、もつて国民の負託にこたえることを期するものとする。」とあるので、諸君には祖国防衛の気概を持つことを「法律上は」求められてゐる。

しかし、高度情報社会の現代において、祖国防衛に必要なものは、軍事固有の人的組織と物的装備はもとより、軍事情報を含む広範な情報を収集するための組織と装備の充実が不可欠なことは今更云ふまでもないが、それが全く不完全な自衛隊の現状は、あたかも「目隠しをした有能な射撃手」にも等しい。そのことを認識すればするほど憂鬱にならざるを得ないが、まづは、諸君に祖国防衛の気概すらないのであれば、自衛隊は敵を目前に怯懦し国民を楯に逃げ回る自己防御の武装集団となる可能性があるからである。

ところで、これまで有事関連法案の国会審議が小田原評定の如く延々と続けられ、いまなほその途中にあるが、仮に、これらが全て可決成立したとしても、軍事に無知な官僚が作成した法制の下では、自衛隊は国家・国民を守りきれないことを専門家である諸君は知悉してゐるはずである。

そもそも国家緊急時に際しては、期間と権限事項などを限定した「委任的独裁」(カール・シュミットの用語)を許容しなければ、国家は存立し続けることができない。それは、君主制国家であらうが、共和制国家であらうが共通した課題である。むしろ、共和制国家ないしは民主制国家こそ、この限定的な「独裁」が国家緊急時には必要なのである。いはゆる六十年安保のとき、反対運動側で「民主か独裁か」といふ馬鹿げたスローガンが用ひられたが、民主と独裁とは両立する。否、民主から独裁は生まれるのである。古代ローマのカエサル(シーザー)、フランス革命後のナポレオン、ドイツ・ワイマール憲法下のヒトラーなどは、いづれも民主制(共和制)の中から合法的に生まれた「独裁者」であることを忘れてはならない。非常時に備へて、平時とは別個の法体系(帝國憲法下の例では戒厳大権、緊急勅令大権、非常大権などの規定)を構築せず、平時の法体系だけで非常時に対処できるとする愚かな認識では国家は衰亡する。そもそも、平時と非常時とでは、価値体系、価値の優先順位を異にする。平時では言論により「話せば解る」と信じて説得できたものが、非常時には「問答無用」として命を奪はれる結果にもなる。戦争や内乱や大災害は、「民主的」に起こるものではなく、表現の自由や集会・結社の自由などは、平時において最大の尊重を必要とするのは当然のことであるが、命が奪はれるか否かのときに、これらの自由の主張は虚しく無力であり、内乱勢力の表現の自由や集会・結社の自由などの保障は、国民の生命、財産の喪失と直結するものであつて、価値体系が平時の場合と非常時の場合とでは異なるのである。

法体系といふものは、法的保護に値する価値の体系に基づいて構築されるものであつて、平時における価値体系と非常時における価値体系がそれぞれ異なるのであれば、自ずとそれぞれの法体系をも異にするのは当然のことである。また、非常時においては、民主制の原理で慎重な審議を経て決議するといふ手法では機を逸する事態となり得るのであつて、決議とその実施には迅速性と機動性が要求される。

ここに、民主制、立憲制の根本体制を維持・擁護するためのものとして、その権限の範囲及び事項並びに期間等を限定した「委任的独裁」が、その必要性の所産として登場するのである。

それゆゑ、自衛隊法が非常時の場合である防衛出動時の公共の秩序の維持のための権限(第92条)や治安出動時の権限(第89条)においても、平時にのみ通用すべき警察官職務執行法の適用を求めるのは、「羮に懲りて膾を吹く」が如き愚かさがある。

 

いづれにせよ、諸君は、自衛隊法は非常時に実効的に機能し得ない法律であり、しかも国民を守るための法律ではなく、専ら自衛官を守るための法律であると云つても過言でないことも見抜いてゐるだらう。諸君に課せられてゐる義務は、自衛官としての内部組織的な服務義務であつて、国防の義務ではない。仮に、これを国防の義務と捉へたとしても、それは法律上の義務に過ぎず、現行憲法上の義務ではない。もちろん、国民にも国防の義務が憲法上も課せられてゐない。そのくせ、たとへ国が滅び行くとも現行憲法だけは守れ(第九十九条)と定める自家撞着の規範が現行憲法なのである。もし、諸君が防衛出動に際して利敵行為を行ひ、その他服務義務に違反して、国民を見殺しにし逃げまどひながら生き長らへたとしても、七年以下の懲役又は禁錮となるだけである(第百二十二条)。国民の命は保障されないが、諸君の命は保障される。国民を守るためにするやうに見せかけて、その実は国民を棄民して自衛官を守るためのものであるといふのは、まさに「お為ごかし」を絵に描いたやうなものではないか。それが自衛隊法の本質である(ただし、その保障は、あくまでも諸君の敵前逃亡にもかかはらず、我が国が存続し続けるといふ極めて稀な場合の限定的保障ではあるが・・・)。

冷戦時代、ソ連を仮想敵国として想定した北海道有事の研究において、北海道にソ連が侵攻した際、部隊をどのやうに北海道その他の防衛上の要所に集結させるかについて検討されたものの、防衛出動(第七十六条)及び防衛出動待機命令(第七十七条)の下命前においては、「訓練」出動といふ姑息な方法で部隊を移動させて北海道その他の防衛上の要所に集結させることしか方法がないとの結論に達したのではなかつたか。そして、もし、その移動中に敵国と意を通じた武装難民、国内ゲリラ、あるいはその混乱に乗じて国家転覆を狙ふ武装組織などが諸君の部隊を襲つた場合、それに対する反撃は、防衛出動でも治安出動(第七十八条)でもなく、仮に、速やかに内閣総理大臣からその下命があつたとしても、前述のとほり、それは治安出動時の権限(第八十九条)又は防衛出動時の公共の秩序の維持のための権限(第九十二条)の範囲内、つまり、警察官職務執行法の規定に拘束され、正当防衛でなければ武器を使用することができない。武器の使用は、対外的(直接侵略)には「必要性」の基準、国内的(間接侵略)には「補充性」の基準といふ二重基準が採られるため、防衛出動の対象となる「外部からの武力攻撃」(第七十六条)に該当しない武装集団の間接攻撃に対しては全く無力である。

その上、自衛隊は「軍隊」ではないし、現行憲法第九条第二項後段で「交戦権」が否定されてゐるので、戦時国際法規による保護は与へられない。戦時国際法規には、ヘーグ条約(明治四十年)などの敵対行為(戦闘行為)を規律したものと、ジュネーブ条約(昭和二十四年)などの捕虜の処遇等を規律したものに大別されるが、いづれの条約による保護も与へられないのである。といふよりも、交戦権を放棄することによつて、その保護を自ら放棄したのであるから、自衛隊には臨検、拿捕などの権限もなく、ましてや諸君には捕虜として処遇されることを求める権利もない。捕虜の資格すらないので、問答無用で殺戮されてもそれが直ちに国際的に違法であるといふことにはならない。

ところが、現行憲法第九十八条第二項により、戦時国際法規による義務だけは遵守しなければならない。つまり、権利はないが義務だけは負ふのである。

従つて、自衛官は捕虜として処遇されないが、敵国の正規軍将兵については捕虜として処遇しなければならない。また、ゲリラや武装集団に対しては、警察の権限しかなく、ゲリラや武装集団は我が国の刑法、刑事訴訟法などの法制度の下で篤く保護される。優柔武断な我が国政府であれば、自衛隊は「合憲」であると甘やしてくれるだらうが、戦勝国はそんな馬鹿げた判断はしない。戦勝国は、現行憲法第9条を「素直に」解釈して、諸君の存在は紛れもなく憲法違反であると認定し、その確信犯的な憲法違反行為を厳しく断罪するだらう。

我が国は犯罪国家であり、我が国が軍隊を持たず、我が国から戦争を仕掛けさへなければ世界は恒久に平和であるとの認識こそが、GHQによる全面的直接軍事占領下の「非独立」の我が国で制定された現行憲法といふ「謝罪憲法」の掲げる「崇高」な精神なのである。その第九条第二項の戦力不保持と交戦権否認の規定は、我が軍の完全武装解除と無条件降伏を求めたポツダム宣言をそのまま反映して規定されたのであつて、ここから集団的自衛権はおろか、個別的自衛権すら認められないことは自明のことではないか。ゲリラや武装集団による間接侵略に対して、警察官職務執行法の権限の範囲でしか対処できないこと自体、現実には個別的自衛権すら否定されてゐる証左であると考へないのか。

こんなハンディキャップを背負つたままで果たして外国の侵略とそれに呼応した国内ゲリラや武装集団との戦闘に立ち向かひ、凱歌を奏することができるのか。諸君は、これでは勝ち目がないことを知つてゐる。そのために、諸君は、国民を見捨てて敵前逃亡し、自己防御(部隊防御)に走つてしまふ極限的状況に陥る可能性が極めて高くなることを予測してゐるはずである。

しかし、このやうな不利な状況であつても、薄れる気概を奮ひ起こして果敢に反撃せねばならないと決意する諸君もゐるだらう。だが、独自の判断で敵対行為(戦闘行為)を諸君の一部の者が行つたとすれば、それは、部隊を勝手に指揮したとして刑罰(第百二十二条)に服するのである。超法規的行動として認められるのは、やはり警察官職務執行法や刑法の正当防衛又は緊急避難として認められる範囲に限られ、敵兵やゲリラや武装集団に対して行き過ぎがあればこれもまた当然に処罰される。原則として、ゲリラや武装集団に対しては先制攻撃はできず、応射するのが限界である。進むは地獄、退くは極楽。

諸君はそれでもなほ気概を持つて戦つてみせると誓ふことができるのか。

 

このやうな絶望的な環境においてもなほ、我々は諸君にその気概があることを信じようとしたが、そのことに決定的な疑問を抱いたのは、平成七年の阪神大震災のときであつた。

敵が全くゐない状況で、しかも、多くの被災地住民が死の淵からの救済を求めてゐる状況を諸君は誰よりも早く察知してゐたにもかかはらず、ひたすら兵庫県知事らの災害派遣要請を待つだけで、第八十三条第二項但書(天災地変その他の災害に際し、その事態に照らし特に緊急を要し、前項の要請を待ついとまがないと認められるときは、同項の要請を待たないで、部隊等を派遣することができる。)及び第八十三条第三項(庁舎、営舎その他の防衛庁の施設又はこれらの近傍に火災その他の災害が発生した場合においては、部隊等の長は、部隊等を派遣することができる。)との規定に基づき、派遣要請がなくも独自の判断で部隊を迅速に派遣をすることができたはずであるが、これを怠つて多くの住民を見殺しにしたではないか。

派遣要請を待たずして直ちに出動してゐれば、何人の被災地住民を救済できたかといふ単なる量的なことを議論してゐるのではない。まさに気概の欠如を問題にしてゐる。気概は行動に現れる。怖じ気付いた保身の者に言い訳は無用である。否、有害である。

阪神大地震は、「その事態に照らし特に緊急を要し、前項の要請を待ついとまがないと認められるとき」であつたはずである。仮に、後日、さうでないと政府や国会から判断されて非難されたとしても、誰か胸を張つてその責を受け止める者はゐなかつたのか。国民は必ず諸君の行動を熱烈に支持したはずである。

だが、諸君は自発的に行動しなかつた。

何故か。それは、自衛隊が差し出がましいことを勝手にすれば、庇護者である政府や政党などの機嫌を損ねて、自衛隊を擁護してもらへず、防衛庁から防衛省へと昇格ができないことになつては一大事であると打算的なことを考へてゐたのではなかつたか。自己の立身出世と保身、組織防衛のために、未曾有の災害を前に沈黙した。諸君にとつては、国民を救うことよりも政府などの顔色を気にすることの方が最も重大な関心事だつたのである。

しかし、現行憲法を有効とすれば、自衛隊はそもそも「違憲」の存在ではないのか。政府や政党の一部が「合憲」と言つてくれるので、その気になつてゐる「裸の王様」に過ぎない。「違憲」の存在である自衛隊が、些末な部分の「合法性」の解釈を気にして何になる。違憲の存在であるにもかかはらず、厳格な意味で合法的に振る舞はうとする。律儀ではあるが滑稽ではないか。昔、社会党が「違憲合法論」を唱へたが、それを真に受けてゐるのか。その姿は、国連憲章では敵国条項の対象とされてゐる我が国が、その条項の削除を求めることなく、国連における常任理事国の地位を目指して懇願してゐる姿と似てゐるではないか。

今から三十二年前、三島由紀夫らは、次の檄文(抜粋)を残し、自衛隊に対して割腹諫死した。

『・・・法理論的には自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来ているのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけてきた。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。

・・・憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。

・・・憲法改正がもはや議会制度化ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となって命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来てはじめて軍隊の出動によって國體が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。日本の軍隊の建軍の本義とは
「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」
ことにしか存在しないのである。

・・・しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起こったか。総理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終わった。その状況を新宿で見て、私は「これで憲法は変わらない」と痛恨した。その日に何が起こったか、政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢えて「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不要になった。政府は政体護持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬っかぶりをつづける自信を得た。これで左派勢力には憲法護持のアメ玉をしゃぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて実をとる!政治家にとってはそれでよからう。しかし自衛隊にとっては致命傷であることに政治家は気づかない筈はない。そこで、ふたたび前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。銘記せよ!実はこの昭和四十五年(注、四十四年の誤記か)十月二十一日といふ日は、自衛隊にとっては悲劇の日だった。創立以来二十年に亘って憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとって、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だった。論理的に正に、この日を境にして、それまで憲法の私生児であった自衛隊は「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みていたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残っているならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。

・・・しかし自衛隊のどこからも「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する男子の声はきこえてはこなかった。

・・・われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐ったのか。武士の魂はどこへ行ったのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこへ行かうとするのか。

・・・あと二年の内に自主権を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであらう。われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけにはいかぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起って義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に、戻してそこで死ぬのだ、生命尊重のみで魂は死んでもよいのか、生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇ることを熱望するあまり、この挙に出たのである。』と。

今、三島由紀夫らの憲法理論や方法論を論ふつもりは全くない。ただ、この憂国の至情とその行動の精神こそ真摯に受け止めなければならない。

 

現行憲法を有効とする限り、自衛隊は、その法論理において永久に認知されることはない。自己の存在根拠を否定する現行憲法をなにゆゑに擁護するのか。もし、建軍の動機と経過が不純なものであるとき、陽明学による説明によらずとも、必ずやその邪悪な心と矛盾に押し潰されて自ら崩壊する。

自衛隊の建軍の本旨と精神は、我が国の再軍備の正当性を根拠付ける帝國憲法にこそ求められるべきであり、現行憲法無効論こそ、我が國體から導かれる合法性と正統性を共に満たす唯一の理論であることを銘記せよ。

 

諸君は、誰のために血を流さうとするのか。己を虚しくする現行憲法とその国家組織のためか。それとも、国民を守れない自衛隊法の不備を口実に保身に徹するのか。あるいは、諸君が退官するまでの間は非常事態は起こらないし政府も自衛隊を合憲であると言ひ続けてくれると高をくくつてゐるのか。

そんな志を失つた牽強付会の防人が一体どこへ行くといふのか。

心ある自衛官諸君よ、目覚めよ。

「憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死なう」 といふ志ある多くの者と共に現行憲法無効論で理論武装し、

「自らを否定するものを否定せよ。」

平成14年5月25日記す 南出喜久治

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