各種論文
トップページ > 各種論文目次 > H14.11.28 皇道忠臣蔵

各種論文

前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ

皇道忠臣蔵

一 はじめに

元禄十四年(西暦一七〇一年)三月十四日、勅使、院使の江戸下向の折、その饗応役の赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が江戸城・松の廊下において高家筆頭(肝煎)吉良上野介義央に対し刃傷に及び、その結果、浅野内匠頭は即日切腹、赤穂浅野家断絶となるも、吉良上野介には一切お咎めなしとの将軍徳川綱吉の裁断が下った。その後、赤穂浅野家城代家老大石内蔵助良雄ら赤穂浅野家旧臣ら(以下、「赤穂旧臣」という。)は、赤穂城を無血開城し、赤穂浅野家の再興に尽力するも叶わず、遂に、元禄十五年(西暦一七〇二年)十二月十四日、吉良邸に討入って吉良上野介を討ち果たし、亡君浅野内匠頭の遺恨を晴らした。これが、世に言う、「赤穂事件」と呼ばれているものである。

赤穂旧臣が吉良邸討入りの際に掲げた「浅野内匠頭家来口上」によれば、浅野内匠頭の刃傷を「喧嘩」と断定し、もののふのみち(士道)と喧嘩両成敗の在り方を満天下に問いつつも、幕府の政道及び幕藩体制そのものをあからさまに批判しなかった。しかし、幕府は、庶民の喝采と幕閣の嘆願に驚愕して、赤穂旧臣を罪人として打ち首とはせずに、かろうじて武士として処遇し切腹をさせたものの、よすがの人々を罪人として扱い、その遺族や末裔に対しても仕打ちを与えた。

ところが、この、亡君の仇討ちに似せた巧妙でしたたかな口上による義挙は、幕府はおろか、江戸のみならず全国の士農工商あらゆる階層に大きな衝撃を与え、この事件は、歌舞伎の假名手本忠臣蔵など、演劇、文芸、絵画など様々な分野にわたり、今もなおあらゆる方面において長く語りつがれている。

二 皇道と士道

では、なぜ、それほどまでにこの事件は日本人の心を捉えて離さず、我々の魂をゆさぶって心身を熱くさせるのか。従来、これについて多くの検討と解説が試みられたが、いずれも納得のいくものではなかった。本稿では、今まであまり語られていなかった視点から、この事件の実像に迫ってみたい。

それは、先ず、「皇道」と「士道」という視点である。そこで、その手掛かりを見出すために、「楠木正成」と「真田幸村」とを比較してみる。両者とも、その忠義の有り様が至純である点で同じであるが、忠義の対象を異にする。これを王覇の弁え、すなわち、権威と権力、王者と覇者、王道と覇道とに区分して捉えれば、各々の忠義の道は、王者への忠義と覇者への忠義に分類される。前者は、尊皇の道、すなわち「皇道」であり、後者は、武士の道、すなわち「士道」である。この分類であれば、赤穂旧臣は、真田幸村と同じ士道であり、決して、楠木正成の皇道と同じではない。

思うに、「皇道は公道なり。士道は私道なり。」とは至言である。したがって、士道は、国家変革を起すだけの起爆剤とはなりえず、皇道のみがその役割を果たすことは、明治維新などを見ても明らかである。それゆえ、この二つの道は全く異なる。皇道に反する士道もありうるからである。しかし、ともに「死ぬことと見つけたり」とする身の処し方と至誠において一致する。それゆえ、士道は、皇道の相似象、つまり「雛形」としての性質と役割を果たしてきたのである。

ところが、真田幸村と赤穂旧臣とは、ともに士道でありながら、その評価が著しく異なるのはどうしてなのか。さらに言うならば、真田幸村は、豊臣家の家臣であり、豊臣家の家臣として戦い、そして散っていったのに対し、赤穂旧臣は、あくまで赤穂浅野家の旧臣であって、旧臣として義挙し、旧臣として果てた。赤穂旧臣の場合は、君主なき士道であって、士道の本道とはいえない。

また、吉良上野介を打ち果たせなかったという亡君の無念を赤穂旧臣の立場で晴らしたまでであって、いわゆる仇討ちとか、意趣返しというものでもない。斬りつけられたのは吉良上野介の方だからである。浅野内匠頭が切腹となり、赤穂浅野家が取り潰され、その赤穂旧臣が流浪に身を置かざるを得なくなったのは、幕府の裁断によるものであり、吉良上野介の仕業ではない。その意味では、赤穂旧臣全員の切腹をさせるに至った荻生徂徠の見識のとおりである。

この裁断に異議を唱えるならば、大塩平八郎のように、幕府に弓を引かなければならなくなる。亡君が仕えた武家の宗家(棟梁)に弓を引くことは、幕藩体制における武士としての大義名分が成り立たない。幕府の政道を糺すための義挙というのは、士道からは導けない。士道の自己矛盾となるからである。しかし、赤穂旧臣とはいえども亡君への忠義と節操を貫き、何としてでも亡君の無念を晴らしたい。このように、二律背反の相克に陥った場合、士道は武士に何を求めるか。それは諌死である。士道は、公憤の義挙を否定し、私憤の領域である諌死を求める。つまり、赤穂城明け渡しに際して、亡君の後を追って切腹して果てることが本来の武士の姿である。このことは、後世になって、長州藩の山鹿流軍学を引き継いだ吉田松陰も鍋島藩に伝わる『葉隠(聞書)』における山本常朝もこれを指摘するところではあるが、赤穂旧臣は、それをせずに、吉良上野介に矛先を変えた。かといって、これは義挙ではあるが、幕府の政道を直接的に糺すという公憤の名目ではなく、仇討ちに似た私憤の名目を掲げている。これは、どうも、本来の士道ではない。したがって、純粋に士道の観点だけからすれば、真 田幸村の方が赤穂旧臣よりも高い評価が与えられて然るべきである。

しかし、赤穂旧臣の示した忠義の方が真田幸村の忠義よりも、どういうわけか現代に至るまで根強く我々に感動を与え続けるのは、この赤穂事件には、士道だけでは説明のつかない何かがあるからである。おそらく、赤穂事件の深層に、士道を超えた、日本人の思考と行動における本質的な何かが宿っているためであろう。それは、赤穂旧臣は、「士道」の名の下に、隠された「皇道」に殉じた側面が存在したからに他ならない。そして、我々は、無意識のうちに、あるいは民族本能的に、この事件の背後に隠されている皇道の実践を感得して熱狂し続けるのであろう。

では、一体、その皇道とは、どのようなものであろうか。何があったというのであろうか。それを明らかにしようとするのが本稿の目的である。

三 赤穂事件の背景

吉良家は高家の肝煎(筆頭)であり、その高家の役割とは、表向きは有職故実に精通して皇室と徳川宗家(幕府)との橋渡しを司ることにあったが、その実は、幕府の使者として、皇室・皇族を監視し、幕府の意のままに皇室を支配することにあった。

すなわち、幕府による皇室不敬の所業は厳酷を極め、元和元年(西暦一六一五年)、禁中并公家諸法度により、行幸禁止、拝謁禁止を断行した。つまり、世俗な表現を用いるならば、幕府は、天皇を、京都御所から一歩も出さず、公家以外は誰にも会わせないという軟禁状態に置いたということである。これは、たとえば、諸大名が参勤交代の途中、京都の天皇に拝謁する慣例を認めるとなれば、それがいずれは討幕の火種となることを幕府は恐れたからに他ならない。現に、寛政六年(西暦一七九四年)、光格天皇により、尊皇討幕の綸旨が、四民平等、天朝御直の民に下されるまで約百八十年の歳月を要し、文久三年(西暦一八六三年)に孝明天皇による攘夷祈願行幸で行幸が復活するまで、約二百五十年の長きにわたって幕府の皇室軽視は続いたのである。

ところで、後水尾天皇(慶長十六年・西暦一六一一年~寛永六年・西暦一六二九年)は、幕府が仕掛けた、徳川秀忠の子和子の入内問題、宮廷風紀問題、紫衣事件などに抵抗され、中宮和子による家光の乳母・斎藤福に「春日局」の局号を与えたことに抗議して退位された。

そして、明正天皇(和子の子、興子内親王、七歳)が即位されることになるが、その陰には吉良家などの高家の暗躍があり、その他の女官の皇子は悉く堕胎や殺害されたと伝えられている。以後は、後水尾上皇が院政を行われて幕府と対峙され、その後の後光明天皇、後西天皇、霊元天皇はいずれも後水尾上皇の皇子である。

承応三年(西暦一六五四年)には、後西天皇が即位されたが、それと前後して、国内では、突風、豪雪、大火、凶作、飢饉、大地震、暴風雨、津波、火山噴火、堤防決壊など異常気象による自然災害や、何者かの放火とみられる伊勢神宮内宮の火災、京都御所の火災(万治四年・西暦一六六一年)などの大きな人為災害が次々と起こった。そこで、幕府(四代将軍・家綱)は、これに藉口し、これらの凶変の原因は後西天皇の不行跡、帝徳の不足にあるとして退位を迫ったのである。その手順と隠謀を仕組んだのは、高家筆頭の吉良若狭守義冬、吉良上野介義央の父子である。

そして、これらの凶変のうち、少なくとも京都御所の火災は、幕府側(高家側)の放火によるとの説が有力である。

一方、赤穂浅野家は尊皇篤志が極めて深い家柄であり、吉良家などの高家とは完全に対極の立場にあった。幕府は、討幕の火種となりうる尊皇派勢力を排除することが政権安泰の要諦であることを歴史から学んでいる。そこで、製塩事業で藩財政が豊かである赤穂浅野家などの尊皇派大名の財力を削ぐことを目的として、京都御所の放火を企て、あるいはその火災を奇貨として、禁裏造営の助役(資金と人夫の供出)に浅野内匠頭長直(長矩の祖父)を任じたのである。これにより、赤穂浅野家は、その後莫大な資金投入を余儀なくされるが、これを尊皇実践の名誉と受け止め、赤穂城の天守閣を建てられないほど藩財政が著しく逼迫することも厭わず、見事なまでに禁裏造営の大任を果たすのである。

しかし、御所落成を機に、寛文三年(西暦一六六三年)、後西天皇は遂に退位され、霊元天皇が即位された。幕府は、その際、禁裏御所御定八箇条を定め、皇室に対し、見ざる言わざる聞かざるの政策をさらに徹底することになる。そして、この禁裏御所御定八箇条の発案は、まさに吉良上野介によるものであった。

四 赤穂事件の真相

浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだ原因は、いろいろと取り沙汰されているが、浅野内匠頭は、「この間の遺恨、覚えたるか」と告げて吉良上野介に刃傷に及んでいることから、遺恨説が有力とされている。しかし、この遺恨は、私憤ではなく公憤である。前に述べたような、尊皇派の赤穂浅野家と高家筆頭の吉良家との積年の確執が存在し、これがこの事件の遠因となっていることは否定できない。

山鹿素行の薫陶を受け、尊皇の志篤い浅野内匠頭長矩が、劇作で語られるような、子供のイジメにも似た他愛もない吉良上野介の仕打ちに、家名断絶を覚悟してまで逆上して刃傷に及ぶという乱心説で説明できるものではない。

また、吉良上野介も、赤穂浅野家の背後に朝廷の存在を意識したことは確実である。勅使、院使も、尊皇篤志の浅野内匠頭が饗応役を務めることだけで安堵され満足されたことであろう。それが吉良上野介には手に取るように感じていた。まさに、この刃傷事件が、勅使、院使の江戸下向の際に起こったことを考え併せれば、浅野内匠頭が隠忍しえない将軍家並びに吉良上野介の皇室に対する度重なる不敬の所業があったはずである。それゆえ、この刃傷事件は、「朝敵」吉良上野介に「天誅」を加えて成敗するための義挙であり、浅野内匠頭は、その本意が漏れてこれにより朝廷へ禍いが及ぶことを避け、刃傷に及んだ原因を一言も語らず、しかもきっぱりと「乱心にあらず」とし、宿意と遺恨をもって刃傷に及んだと弁明をするのみで、その内容を申し開きせず黙って切腹した浅野内匠頭長矩は、まことにあっぱれな天朝御直の民であり、皇道の実践者であった。しかし、その死は、朝敵吉良上野介を討ち果たせなかった無念の死であり、その辞世の句は、信念を背負って黙って散った男の凄さを物語っている。駄洒落を云うつもりではないが、假名手本忠臣蔵などの演劇や映画などをこのような思いで見ていると、浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ場面で、梶川与惣兵衛が「殿中でござる」と制止する言葉は、「天誅でござる」との浅野内匠頭の心の叫びに聞こえてならないのである。

いずれにせよ、この刃傷が公憤によるものであったことを裏付ける理由として、先ず第一に挙げられるのは、前掲の「浅野内匠頭家来口上」には、「高家御歴々へ対し家来ども鬱憤をはさみ候段」(原文は漢文調)とあるからである。吉良家だけでなく、高家御歴々への公憤であることをこれは示しているからである。「浅野内匠頭家来口上」は、四十七士の署名のある、いわば、義士たちの命の叫びであり、これに嘘偽りがあるはずはない。

第二に、刃傷事件から間もない三月十九日、京都御所の東山天皇の下に、刃傷事件の第一報が届けられたが、この時点では吉良上野介の生死については不明であるにもかかわらず、関白・近衛基熈によれば、東山天皇は「御喜悦の旨仰せ下し了んぬ」(『基熈公記』)というご様子であり、その後、公家の東園基量は、「吉良死門に赴かず、浅野内匠頭存念を達せず、不便々々」と語っていることから、皇室の高家に対する評価がどのようなものであったかがうかがわれる。また、これらのことが皇室で長く語り続けられ、明治天皇は、明治元年(西暦一八六八年)十一月五日、「朕深ク嘉賞ス」との御勅書を泉岳寺に命達されている。したがって、この刃傷事件やその後の討入り事件が単なる私憤によるものではありえないことを意味していることが明らかである。

ところで、大石内蔵助は、討入りの準備において、わざわざ京都山科に家屋敷を取得するのであるが、これについては、なぜ京都山科の地が選ばれたのかについて納得のいく説明に未だかつて接しない。しかし、これには深い意味がある。この家屋敷の取得については、大石内蔵助の親族である進藤源四郎の世話によることは明らかであって、この進藤源四郎とは、近衛家の諸大夫・進藤筑後守のことであり、大石内蔵助は、この進藤源四郎を通じて、関白・近衛基熈との接触していたはずである。また、山科は、朝廷の御料であり、大石内蔵助は、山科の御民となって朝廷にお仕えし、皇道を貫く決意の現われであったとみるべきである。

大石家やその他赤穂浅野家の主だった家臣もまた、尊皇の家柄であり、山鹿素行が浅野長直の招聘で禄千石の客分として赤穂藩江戸屋敷で十年間にわたり藩士に講義を行い、堀部弥兵衛、吉田忠三衛門などが門人となったことは有名な話である。山鹿素行は、『聖教要録』において官学朱子学を否定し、それが反幕府思想であるとされた筆禍により、寛文六年(西暦一六六六年)に赤穂へ配流の処分を受けた。赤穂藩は、これを天恵として素行を受入れ、大石内蔵助も八歳から十六歳までの間、素行の薫陶を受けている。

そのような大石内蔵助が、山科を拠点として関白・近衛基熈とその側近に接触し、幕府や吉良家などに関する情報を収集して、江戸での情報収集人脈を密かに築いていったことは想像に難くない。現に、元禄十五年(西暦一七〇二年)十二月十四日、討入決行の契機となった吉良邸で茶会が行われるという情報は、吉良邸に出入りしている茶人・山田宗の弟子・中島五郎作からもたらされたが、この中島五郎作と京都伏見稲荷神社の神職・羽倉斎(後の荷田春満)とはいずれも知己であり、吉良家家老・松原多仲は羽倉斎の国学の弟子という関係であった。

このような人脈から、用意周到に情報を収集して討入りを決行したのであって、決して芝居や映画のように、江戸に入ってから泥縄式で偶然に得られた情報ではありえない。吉良邸の茶会は、討入りを成功させるために、むしろこれらの人々の協力によって催されたものと推測できる余地もある。このように、討入りの計画は、現代でも通じるような綿密な情報収集と巧妙な情報操作による情報戦争の様相を呈していたのである。

五 むすび

以上は、史料を基礎として若干の推測を加えて構成したものであるが、当たらずといえども遠からずであろう。

そうであれば、幕府が、刃傷事件により赤穂浅野家を断絶させたうえ、吉良家をお咎めなしとし、その後、赤穂浅野家の度重なるお家再興の願いも聞き届けなかったのは、単なる幕府の片手落ちではなく、尊皇派の排除を実現し、かつその復興を阻止するとともに、佐幕派の保護という一石三鳥の深謀と受け止めることもできる。そして、幕府が赤穂旧臣討入りを真剣に阻止せず放任し、むしろこれを暗に奨励したのは、赤穂旧臣の義挙が皇道を旗印にすることなく、士道を名目とする以上、幕藩体制を支える士道倫理の強化をもたらすと考えたとしても不思議ではない。喧嘩両成敗を事後に実現して公正さを維持するためには、吉良家を断絶させることになるが、高家は吉良家だけではなく、皇室に余りにも憎まれ続けた吉良家はその役割を既に果たしているから無用の存在となっていた。

このように、幕府は、唐突に起こった刃傷事件と討ち入り事件を巧みに利用して、尊皇派を封じ込め、幕藩体制を強固にしたということもできる。

このように、この事件とその背景には、様々な権謀術数が渦巻いている事情があるとしても、赤穂尊皇派からみれば、「消えざるものはただ誠」の一文字で貫かれている

それゆえ、この事件を、浅野内匠頭の刃傷から大石内蔵助ら赤穂旧臣が吉良邸討入りまでの一年八ヶ月だけの「元禄赤穂事件」として限定的に捉えてはならない。そのように捉えてしまうと、討入りによって変則的な士道を実践しただけの矮小化した物語になってしまうからである。したがって、少なくとも、この事件は、万治四年の京都御所の火災から元禄十五年の吉良邸討入りまでの約四十年の間、赤穂浅野家とその家臣らが代々一丸となって皇道を貫き、身を殺して仁を成したという一連の長い物語として新たな解釈がなされるべきである。

そして、士道が皇道の雛形であり、この事件には、士道の名の下に皇道を実践したという側面があることを認識すれば、この事件を、「皇道忠臣蔵」と言っても過言ではない。「忠臣蔵」の「蔵」は、内蔵助の蔵を意味するので、もっと広く赤穂藩全体の皇道を指し示す意味の言葉を用いたいのであれば、これを「赤穂藩の尊皇運動」と呼んでも差し支えない。

「歴史とは、文字によって描かれた物語なのであり、文字によって掬い取ることができた限りにおいて歴史であり、人間の思想なのである。」(村上兵衛)とすれば、我々は、この赤穂事件を尊皇物語として捉え直してみてもよいのではないかと考えている。

誤解を恐れずに言えば、士道の名の下に皇道を実践したこの事件は、皇道の名の下に似て非なる方向へ向かった二・二六事件とは雲泥の違いがあり、我々にとって今なすべきことは、これらの事件を己の教訓として、皇道の至誠を貫くにおいて範とすべきものは何であるのか、そして、不惜身命に何をなすべきか、ということをもう一度問い直してみることなのである。

平成14年11月28日記す 南出喜久治

前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ