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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第十六回 祭祀と生命

あがいのち くすしみたまの むたいきて たゞしきつたへ のこしまつらむ (吾が命 奇すし御魂(と共に)生きて 正しき伝へ(伝統)残し奉らん)


川づつみに腰を掛けて水面(みなも)を眺めてゐると、いろんなことを思ひ出したり考へたりします。昔のこと、今のこと、将来のこと、そして様々なことです。そのとき、川の流れに目をやると、いつも同じやうに川は流れてをり、川は泰然自若して悠久なのに、どうして自分だけはこんなことに悩んだりしてゐるのか、と思ひ直して発憤することもあります。

しかし、唯物論者はさうは考へません。「川は流れてゐない。水が流れてゐるのだ。」と。確かにさうです。昔、鴨長明のいふ人は、『方丈記』で、「行く川のながれは絶へずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」と達観しました。これは決して唯物論者の言葉ではなく、河川の悠久さと流れる水を人生に置き換へた我が国に古來からある無常観、生命観を示したものですが、唯物論者は、さらにもつと淡泊に受け止めます。それは、この流れてゐる水にどのやうな価値があるのか、といふことです。農業用水、工業用水、生活用水として使ふことができるか、などといふ経済に関するものが主なものです。川であらうか、人口の水路であらうが、浄水に利用できる水は皆同じとするのです。余分な感傷は無用なのです。


これは極端な例ですが、唯物論者は、少なくともこのやうな認識をすることに変はりはありません。実のところ、唯物論者といふのは、初めから筋金入りの人も居ますが、その多くの人は、昔は熱心な一神教信者でした。それが一神教に幻滅して、それ以外の宗教でも同じだとして、宗教自体をすべて嫌悪するやうになつた人です。一神教では、誰が救はれるかどうかは、神のみぞ知るところであり、信者が志願して神父や僧侶で決められるものでも、信者の多数決で決められるものでもありません。いくら善行を積んでも救はれない人は救はれません。「信じる者は救はれる」といふことは成り立たない世界です。ましてや、旧約聖書の「ヨブ記」には、その信心への意欲をなくさせてしまふことが書いてあります。正しく敬虔な信者であつても、財産や子孫、そして健康まで奪はれるといふ想像を絶する試練が与へられ、その反面において、罪人と悪人が幸福を得て、善人との戦ひで勝利する喜びに酔ふことがあります。そして、どうして敬虔な信者がそのやうな過酷な試練を受けるのかについて神に問ふても答へてくれないといふ出口の見えない試練と、さらなる悔ひ改めによる神への絶対服従を経て、最後にはやつと繁栄を回復しますが、過去の栄光と繁栄には到底及ばないといふ物語です。


これほどまでの「奴隷道徳」を受け入れて絶対服従をしなければ救はれないことは恐怖の極みです。ましてや、初めに敬虔な信者であつた者がどん底にまで落とされなければならなかつた理由は全く理解できません。全知全能の絶対神が居るのに、どうしてサタンが居るのか、どうしてサタンをなくせないのか、信心もなく罪を犯す者や悪人が敬虔な信者よりも幸福になるのはどうしてなのか、などなどと疑問は尽きないのです。そのやうなことから、一神教に対する信心を捨てて無神論者となり、そして、既存の価値や秩序、権威などのすべてを否定するニヒリズム(虚無主義)に到達します。あるいは、さらに、そんな神は要らないので、もつと自分自身に都合によい、もつと物分かりのよい神を自分たちで造ればよいではないかと考へて、創造主を自分たちが造り出して獲得したのです。これが「主権論」です。「主(神)の権利」だから「主権」なのです。罪刑法定主義を唱へたフォイエルバッハの子、ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハは、マルクス、エンゲルス、シュトラウス、 ニーチェなどに後世多大な影響を與へた『キリスト教の本質』を著しましたが、彼はその中で、「人間の唯一の神とは、いまや人間それ自身である。」、「人間が神をつくった。」と述べてゐるのです。まさに、「国民主権論」といふのは、新たな一神教のことです。そして、その思想的源流は、秘密結社イルミナティを創設したアダム・ヴァイスハウプトであることに間違ひはありません。


しかし、国民主権論者は、自分のことを一神教信者とは考へてゐない人が多いのです。なぜかといふと、自分は合理主義者であり宗教人ではないとするからです。ところが、合理主義といふのが「理性絶対教」といふ一神教なのです。このことも自覚がないので始末に悪いのです。そして、この国民主権論も合理主義も、唯物論と近くなります。それが合理主義に基づき科学的な理論と信じてゐるからです。


ところが、この唯物論を崩壊させる出来事が二つ起こりました。ひとつは、ルドルフ・シェーンハイマーの発見です。彼は、昭和十二年に、生命科学の世界において偉大な功績を殘してゐます。ネズミを使つた実験によつて、生命の固体を構成する脳その他一切の細胞とそのDNAから、これらをさらに構成する分子に至るまで、全て間断なく連続して物質代謝がなされてゐることを発見したのです。生命は、「身体構成成分の動的な状態」にあるとし、それでも平衡を保つてゐるとするのです。まさに「動的平衡」といふものです。唯物論からすれば、人の身体が短期間のうちに食物摂取と呼吸などにより全身の物質代謝が完了して全身の細胞を構成する分子が全て入れ替はれば、物質的には前の固体とは全く別の固体となり、もはや別人格となるはずです。しかし、それでも「人格の同一性」が保たれてゐます。このことを唯物論では説明不可能なのです。人体細胞も一年半程度で全て新しい細胞に再生し、しかも、その細胞の成分も新しい成分で構成されるといふことになると、このシェーンハイマーの発見は、唯物論では生命科学を到底解明できないことが決定した瞬間でもありました。


そして、二番目の事件は、皆さんご存じのとほり、共産主義革命理論の基礎となつた唯物論が昭和十三年の原子核分裂の発見によつて崩壊したことです。原子核分裂は、原子を「物」の最小単位として、これ以上壊れないものとして信じられてゐた仮説でしたが、それが崩壊したことは、その仮説に基づいて構築された唯物論や労働価値説の前提を覆つたのであります。

原子核分裂とそれによつてもたらされる巨大なエネルギーの存在は、静止的な宇宙観による唯物論にとつては致命的なものでしたが、ここで忘れてはならないのは、やはりシェーンハイマーの発見です。なぜかと言ふと、宇宙物理学や量子力学などの飛躍的な発達によつて、宇宙創世や太陽系誕生の謎とともに、生命の起源も深く探求されてきましたが、そこで今も信じられてゐるのが、ウォーレスとダーウィンの唱へた進化論(自然淘汰説、自然選択説)なのです。共産主義は、唯物論と進化論で構築されたものですから、唯物論が破綻しても、進化論による片肺呼吸で生存を続けてゐるのです。


 進化論といふのは、「ウォーレス線」として名を残したウォーレスが進化論に関する論文を『種の起源』を執筆中のダーウィンに送り、そのダーウィンによつて完成した仮説ですが、二人の唱へた進化論もまた唯物論であり理性論です。当時はこの理論の斬新さに幻惑されて世界を席捲し、今もその影響下にあります。しかし、もし、地球上で自然現象によつて初めて原生動物が誕生し、それが進化して人類に至つたするのであれば、その原生動物の遺伝子に、その後の生活学習と環境変化に伴つて継起的に進化を遂げ、最終的にはその進化の連続の彼方に人類が誕生するといふ、ありとあらゆる事態に対応した膨大なプログラムが組み込まれてゐなければなりません。仮に、いづれか進化の過程において、そのやうなプログラムが成立したとすれば、そのプログラム自体の「進化」が何ゆゑに起こつたのかも説明できません。「念ずれば花ひらく」として、固体がその子孫を進化させたいとの願望を抱けば進化できるのでせうか。原生動物とそれから連続して進化したとする動植物自身に、子孫を進化させたいとの意思が備はつてゐたのでせうか。また、それが備はつてゐるとすれば、その「意思」を抱く能力は誰からどうして得られたのでせうか。進化論は、これらの疑問に唯物論的に全く答へられないのです。


いま、生命の誕生に関して、こんな仮説が提示されてゐます。今から約四十億年前、光の届かない暗い海底で、高温高圧の熱水がいたるところから噴出してゐたとのことです。その熱水噴出孔から吹き上げられた熱水が周囲の海水によつて冷やされ、熱水に含まれてゐた様々な物質が熱水噴出孔周辺に付着します。そこは無酸素状態であり、硫化水素やメタンなどで満たされ、そこで地球最初の生命が誕生したとするのです。そして、その原初的生命は、遺伝情報を保存するDNAが細胞の中に無防備にむき出しされた原核生物であるので、そこに酸素が触れるとDNAは酸素と結合して簡単に破壊されてしまふので、この原初的生命は、嫌気性バクテリア(細菌)であるとしてゐます。現在の熱水噴出孔の周辺にもこのやうなバクテリアが生息し、それから栄養をもらつて食物連鎖により生き続けてゐる生物がゐることを根拠の一つとしてゐます。それから後になると、浅い海で光合成をするバクテリア(シアノバクテリア)が生まれたり、酸素を食べるミトコンドリアや酸素を放出するシアノバクテリアを取り込んだりして、真核生物から多細胞生物へ進化したといふのです。


ざつとこんなふうですが、どうですか。こんなこと直感的に受け入れられないと思ひますが、それもそのはずです。これには大きな嘘とごまかしがあります。そもそも、原初的生命がなせこの場所でどのやうな条件があつたから誕生したのかが解らないのに、こんなことを断定的に書いてゐるのです。また、酸素に触れると死ぬ原初的生命が、どうして酸素を食べるミトコンドリアや酸素を放出するシアノバクテリアを取り込んだりできますか。取り込んだ途端に、酸素に触れて死滅するはずです。さらに、どうして、それでも取り込もうといふ意思が出てきたのですか。それはDNAの指示に基づくものですか。そんな指示が組み込まれてゐるとしたら、原初的生命は、地球や海洋の将来の変化や生命進化のプロセスを知つてゐたことになります。その情報はDNAによるものですから、そんなすごい緻密なDNAが初めからあつたといふことになるのですか。そして、そんなDNAを誰が造つたのですか。そのことを仮説でもよいので説明してからでないと、こんな解説書を発行してはいけないのです。


マーシャル・マクルーハンが好きな言葉に、「誰が水を発見したのかは分からないが、それは魚ではないだらう。」といふのがありますが、同じやうに言ふのであれば、「誰が原初的生命のDNAを造つたのかは分からないが、それはその原初的生命ではないたらう。」といふことになります。  さらに、類人猿からホモ・サピエンス(ヒト)へと進化したとする場合のミッシング・リンクについて、今ではヒトは類人猿の直系子孫ではないとされてゐても、広い意味ではヒトは類人猿の子孫に他ならないとするのであつて、一体どのやうにしてそれから進化ないしは出現したのかについて、進化論は沈黙したままです。

このやうに、進化論は、類人猿を人類の祖先とすることであり、敬神崇祖によつて培はれてきた人類の特性を否定する思想です。人は、猿を祖先と崇めて特性を高めることができません。進化論がこんな程度のものであれば、むしろ、人は、「猿から進化」したのではなく、「神から退化」したものと信じなければ、特性の高い理想世界に到達できません。ですから、こんな進化論に惑はされずに、懸命に祭祀に励んでください。




平成二十二年四月二日記す 南出喜久治


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