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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第三十七回 記紀と祭祀

けふごとに いざなきのきと いざなみの みとをあはせた きみがよいはふ
(今日毎に(毎日) イザナキの「き」と イザナミの 「み」とを合はせた 「君が代」祝ふ)

今年は、現存する最古の歴史書とされる『古事記』(ふることふみ)が和銅五年(712+660)に編纂されてから千三百年目であるとして注目されてゐます。

古事記は、養老四年(720+660)に完成した我が国の正史である『日本書紀』よりも八年前に成立したとされますが、江戸時代中期には、古事記は元明天皇の勅撰を装つた「偽書」であると指摘されたことがあり、今も学問的には決着してゐません。


江戸時代中期といふのは、いはゆる「中世神話」と呼ばれる神話創作時代である平安時代と並び称されるほどの「古典ブーム」の時代でした。実証的な古典研究が極めて盛んであつた時代で、殆どの古典に関する研究が深化し、今に通ずる古典研究学の基礎が完成した時代です。古代語の発音における甲類、乙類の音韻体系の研究、一音一義説や一行一義説などによる意義学や言霊研究、梵語(サンスクリット)や梵字に関する研究(悉曇学、しったんがく)とそれによる五十音図の配列、古語の意義の帰納的研究(古文辞学)、数々の擬古物語の創作といふ文学活動などが隆盛となり、和歌の普及運動と研究活動を通じて、国学や國體思想が深まつた時代なのです。


そして、漢字が流入し、その漢字から仮名が生まれたといふのであれば、我が国の歴史文化伝統の独自性が保てないとの思ひから、漢字伝来以前に神代文字や古代文字が存在したはずだとして、神代文字などを創作しようとする風潮すら生まれました。現に、ハングル文字と同様に、子音要素と母音要素とを合成する文字構造を持つた神代文字や古代文字が存在したなどとして、偽文字までが創作されてゐます。その真偽のことは別としても、文字は生活において広く使用されてこそ歴史的文化的な存在意義が認められるもので、歴史的文化的に広く使用されずに極めて限定された世界での秘事秘伝の類となる文字などは、仮に存在したとしても、伝達手段としての「文字」ではなく、単なる歴史的な「遺物」に過ぎません。


しかし、このやうな偽文字まで創作される風潮は、文字言語を持たないことは文化が低いとする江戸期に芽生えた合理主義に毒されたものと云へます。第四回『祭祀と言霊』でも述べましたが、言霊といふのは、言葉の文字形態ではなく音声(こわいろ、声色)に宿るものです。文字といふ平面的伝達手段は、情報量において立体的伝達手段である音声に劣ります。たとへば、文字としての「あ」は一つだけですが、「あ」の音声は、強弱、高低、長短などによつて無数の声色に変化して、それぞれの意味と感情を伝へます。一定の情報を広く遠くの人に伝へる必要から文字が生まれましたが、近くて濃密な関係においても声色によらず文字に頼ることによつて、徐々に人の感性が低下したのです。つまり、文字のない社会の方がより高い精神性と感受性を維持してゐたはずです。構造主義を提唱したストロースが合理主義の限界に直面したのも、このやうな分析を契機としたはずです。


ともあれ、江戸中期において、古事記を含めさまざまな古典の偽書疑惑が起こりました。まづ血祭りに上げられたのが、蘇我馬子の撰修とされた『先代旧事本紀』です。そして、文献比較研究によつて、これは結果的には平安初期の偽書であるとされました。さらに、偽書疑惑は『古事記』にも及びました。この偽書説も複雑で、全部が偽書だとする見解や、その一部(序文のみ)が偽書だとする見解などがあるやうです。ただ、偽書であることの証明がなされてゐないといふ意味で真書とされ、『日本書紀』とともに「記紀」として一体的に取り扱はれてゐます。


天地剖判(天地開闢)の後に出現した原初の神は、古事記では、天之御中主神を初めとする三柱の神々、そしてさらに二柱の神々(併せて別天神五柱)に続いて、神代七代の神々の初めに国常立神が成り坐せるのですが、日本書紀では、天地剖判の後の原初神が国常立尊です。さらに、古事記で語られる高天原は、日本書紀にはなく、古事記の黄泉の国は、日本書紀では根の国であつたりします。

また、天地剖判において、「くらげなすただよへる」とするアナログ的な宇宙表現の古事記に対して、日本書紀では、「陰陽の区別もつかない」といふやうなデジタル的な宇宙表現がなされてゐます。


このやうに、古事記と日本書紀とでは、その内容の細部において多くの異なる点があり、それが真贋論争の種の一つともなつてゐますが、古事記は国内向けであり、日本書紀は国際向けと解釈すればよいと思ひます。

国内向けの古事記では、漢字訓読みや万葉仮名用法と漢文用法が混在して表記され、「やまとことのは」を多く用ゐましたが、これでは国際向けとして通用しません。対外的には、宇宙誕生の物語よりも、国土生成の中心的な神である国常立尊を重視することは当然です。その他についても、対外的視点から省略したり簡略化したものと捉へられます。また、支那の思想である陰陽論の影響があつたといふやうに消極的、受動的に捉へるよりも、対外的に我が国の正史を伝へるについて、当時の国際語であつた支那の漢文で表記し、支那や韓半島などの国々にも日本を理解できるやうに、支那の思想に擬へて、これに近似した表現を選んだといふ我が国の積極性、独創性を評価すべきでせう。


しかし、このやうな古典の真贋論争について、吉田松陰は、記紀神話は神話としてそのまま認めればよいと語り、合理主義で真贋論争をすることの愚かさを見抜いてゐたことからしても、このやうな真贋論争では完全に欠落してゐる重大なことがらがあります。それは、仮に、偽書、僞伝とされるものであつても、それによつて伝えようとした「とほつおや」や「いにしびと」のこころの探求です。そして、その中でも最も重要なものは、祭祀のあり方とその心、さらにその実践の探求にあります。


そのやうな観点から素直に記紀を読めば、祭祀の姿が見えてくるはずです。祭祀に関する多くのことを指摘する必要がありますがここでは、その主なものとして、次の九つの事柄を祭祀の観点から説明してみます。


一つ目は、国産みの物語です。

祭祀といふのは、祖先から子孫へと連綿とした縦の関係を強く自覚することから始まります。イザナキ、イザナミの二柱の神々による国産みは、修理固成(をさめつくりかためなせ)の御神勅に基づき、オノコロシマ(地球)に天降りまして、天之御柱(あめのみはしら)と八尋殿(やひろどの)を見立てて、その天之御柱を左右から行き廻り逢つてミトノマグハヒがなされます。この天之御柱が祖先から子孫へと縦に延びる関係であり、八尋殿は、家族や親族、部族、民族といふ横への広がりの関係です。そして、この縦と横との交点に自己が存在するといふことを自覚することが祭祀の原点であることを伝へてゐるのです。


二つ目は、人間(人草)は神の末裔であるといふことです。

古事記では、イザナキがイザナミと相見むとおもつて往つた黄泉国(よみのくに)から逃げ還へるとき、「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」とするイザナミに向かつて、「吾一日に千五百の産屋立てむ」とのりたまふとあります。そして、これについて「是を以ちて一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まるるなり。」との意味であると古事記では解説してゐるのです。ここで重要なことは、イザナキが「吾・・産屋立てむ」として、人草はイザナキとイザナミの末裔である点です。祖先を遡れば神々に繋がるといふことです。

決して、人草は、神々と隔絶した異質の土ができたものではなのです。男女は一対として認識され、女(イヴ)は男(アダム)のアバラ骨からできたといふ従属性もありません。我々は神々と隔絶した異質の物から組成されて命を授かつたのではありません。我々は、神々と御先祖の末裔であるとする自信と喜びが祭祀の心であることを伝へてゐるのです。


三つ目は、イザナキの阿波岐原(あはきはら)での禊ぎ祓ひです。

禊ぎ祓ひによつて多くの神々が生れます。そして、その中でも天照大御神(アマテラス)、月読命、建速須佐之男命(スサノヲ)の三貴神が神統の源流となります。禊ぎ祓ひによつて神統皇統が護持されて行くことが宮中祭祀の核心の一つとなつてゐるのです。


四つ目は、宇気比(うけひ、誓約)です。

スサノヲがその「心の清く明き」を示すために、アマテラスとスサノヲとが宇気比にて「子生まむ」としたことが宇気比(うけひ)の始まりです。これにより、スサノヲの「心の清く明き」ことが証明され、スサノヲの宇気比によつてオシホミミノミコトを含む五柱の男神が生まれました。その後、オシホミミノミコトを含むスサノヲの生んだ五柱の男神はアマテラスの子となりましたが、イザナキ、スサノヲ、オシホミミノミコト、ニニギノミコト、ホヲリノミコト、ウガヤフキアヘズノミコト、カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)へと男系男子の神統から男系男子の皇統へと継承されて行くのです。つまり、この宇気比といふ神意を知るための誓ひの祈りは、男系男子の皇統護持と一体となる祭祀の柱となつてゐるのです。


五つ目は、オホクニヌシの国譲りと天之御舍(あめのみあらか)の造営です。

オホクニヌシはスサノヲの子ですが、自らが造つた豊葦原瑞穂の国(皇土)を高天原の求めにより国譲りすることと引き換へに、天之御舍(あめのみあらか)が造営され、天御饗(あめのみあへ、神饌)が献上されます。古事記では天之御舍ですが、日本書紀では天日隅宮(あめのひすみのみや)と呼ばれてゐます。ここでは、皇祖を祀る常設神殿に神饌を献上するといふ宮中祭祀の原型が描かれてゐるのです。


六つ目は、対外的に日本の國體を示した日本書紀における祭祀についての姿勢です。

第二十六回『家産と自給自足』でも述べましたが、聖徳太子が推古天皇十二年四月(604+660)の憲法十七条に、「二に曰はく、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。則ち四生の終帰、万の国の極宗なり。・・・」とあり、このことから、仏教を受容して國體の変更があつたとする見解がありますが、この考へは間違つてゐます。

なぜならは、その三年後の推古天皇十五年二月(607+660)には、推古天皇の御詔勅があり、「・・・今當朕世、祭祀神祇、豈有怠乎。故群臣共爲竭心、宜拜神祇。甲午、皇太子及大臣、率百寮以祭拜神祇。(いまわがよにあたりて、あまつかみくにつかみをいはひまつること、あにおこたることあらむや。かれ、まへつきみたち、ともにためにこころをつくして、あまつかみくにつかみをゐやびまつるべしとのたまふ。きのえうまのひ(十五日)に、ひつぎのみことおほおみと、つかさつかさをゐて、あまつかみくにつかみをいはひゐやぶ。)」として、憲法十七条を作り賜ふた皇太子(聖德太子)にも「祭祀神祇、豈有怠乎(あまつかみくにつかみをいはひまつること、あにおこたることあらむや)」とされたのです。我が国は、祭祀の国であることを世界に宣言してゐるのです。


七つ目は、祭祀と神道との関係です。

「神道」の初見は、『日本書紀』の「用明天皇即位前紀」にあり、聖德太子の父帝である用明天皇は、「佛法を信じ、神道を尊ぶ」とされてゐます。我が国が仏教を受容し律令制を導入することによつて、祭祀は、宗教的に変質することになります。その変質した信仰体系が神道です。見方を変へれば、仏教に対抗して祭祀を守るための信仰体系として編み出されたのが神道であるとも云へます。

しかし、祭祀と神道との決定的な違ひは、神道が自分を基点として、父母から御先祖を遡つて八百万の神々に至るといふ「命の階段」を完全に省略してしまつたことです。自分から神々に至るアナログ的連続としての祭祀の認識ではなく、この「命の階段」をすべて取り払つて、天と地、仏と人といふ相容れない(融合しない)二つのものによつて宇宙は組成されてゐるとする二元論(陰陽論)によつてデジタル化されたものが仏教(宗教)です。祭祀をむりやりデジタル化(省略化)して改造し、律令制の下で仏教と比肩して形式を整へた信仰体系が神道なのです。

「孝徳天皇即位前紀」には「佛法を尊んで、神道を軽んじた」とあり、その神道ですら軽んじられる時代もありましたが、宮中祭祀は連綿として維持され、人々の祖先祭祀、自然祭祀なども今日まで途切れることなく継続してゐます。「人が死ぬと神になる」といふ我が国の素朴な信仰意識は、デジタル化した神道を再びアナログ的な祭祀に近づかせるための先人の智恵によるものです。


八つ目は、オホモノヌシの子孫であるオホタタネコの祖先祭祀です。

崇神天皇の御代に、疫病が大流行して人々が死に絶えるほどになつたことから、崇神天皇が愁ひ嘆かれて、神牀(かむどこ)にて神の託宣を請ふたところ、オホモノヌシが夢に現れて、オホタタネコに祭らせば疫病は治まり国が安らかになると告げられました。オホモノヌシは、古事記ではオホクニヌシの国作りの協力者であり、日本書紀ではオホクニヌシの和魂(ニギミタマ)とされてゐますが、この託宣を受けて、崇神天皇はオホタタネコを探しだし、オホタタネコにその祖であるオホモノヌシを三輪山に祀らせて疫病を鎮めるのです。祖霊を祀るのは、その子孫の固有の務めであることを示すものであり、神は天皇にも祖先祭祀を命じてゐるのです。天皇と雖も國體の下にあり、祖先祭祀が國體(規範國體)であることを示してゐるのです。


最後の九つ目は、記紀には、多くの歌が存在することです。

上巻に八首、中巻に四十三首、下巻に六十首の計百十一首です。日本書紀にも百二十八首があります。歌は、神饌とともに神霊に献ずるもので、祝詞の原型です。古事記上巻には、「布刀詔戸(ふとのりと)とあり、万葉集(巻十七)にも「敷刀能里等其等(ふとのりとごと)」とあります。

「フト」といふのは、壮大であることを意味する言葉で、「ノリ」といふのは、正しい生き方を決める意味の言葉です。「ト」といふのは、「コト」の短縮形で、言葉であり事柄の意味ですから、ノリトとは、ノリコトであり、正しい生き方を決める言葉と行ひといふ意味になります(ノリトゴトは、重ね言葉になります。)。


まさに、これは言霊の世界であり、祝詞は、神に向かつて発せられるだけでなく、本来は神から発せられる双方向の会話だつたのです。延喜式の祝詞ができる以前は、歌が祝詞であり、旋律や音数律の調べに乗せて言霊を振るはせ、神霊と会話して宇気比(うけひ、請け霊)するのです。延喜式の祝詞に拘る必要はありません。歌こそが祭祀に必須のものなのです。


音曲の旋律(メロディー)や、五七調、七五調の音数律による言葉の整序と制約は、言霊を振るはす共鳴箱(共鳴器)の働きをします。そして、三十一文字(みそひともじ)の和歌は、古事記で初めて登場するスサノヲノミコトの「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」です。この和歌については、第二十回『祭祀と和歌』でも述べましたとほり、歌意の言霊もさることながら、三十一文字の数霊(かずたま)を示してゐることが重要です。つまり、(や)八雲立つ (い)出雲八重垣 (つ)妻籠みに (や)八重垣作る (そ)その八重垣を の各句の頭を繋げますと、や(八)・いつ(五)・や(八)・そ(十)の合計で三十一となつてゐることなのです。


このやうに、和歌(やまとうた)は、言霊と数霊によつて織りなされるもので、特に、神歌(かみうた)としての和歌は、祝詞として最も相応しいものです。皆さんも、祖霊に語りかけ祖霊と会話できる和歌を手向けて日々祭祀を勤めてください。自立再生(まほらまと)からすれば、和歌も自給自足を目指してください。自作のものでなくても、心に響くものを選んでください。「君が代」は、和歌ですから、これを祝詞として奏上してもよいのです。「キミ」とは、イザナ「キ」とイザナ「ミ」のことで、千代に八千代に神統皇統が連綿してゐることを言祝ぐ和歌が「君が代」です。また、国歌「君が代」の旋律に乗せて、真摯に自分の思ひを語ることも立派な祭祀の実践なのです。


皆さん、古事記編纂千三百年を契機として、この機会に記紀を原典で読んで見てください。既に読んだ人でも、今一度この機会に読み直して見てはどうでせうか。単に知識を得るためではなく、祭祀の感性を磨きながら日々の祭祀を実践するための糧として通読してほしいものです。

平成二十四年四月一日記す 南出喜久治


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