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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第四十一回 モーセと祭祀

くにつふみ いとつばらかに かたるひと あらましごとの しるやすくなし (國つ史 いと委曲かに 語る人 あらまし事(將來豫測)の 知るや少なし)

モーセ(モーゼ)は、偉大な民族指導者であり英雄です。なぜならば、モーセは、民族意識を確立させて、祭祀の復活により自立再生社会の実現を目指したからです。
 モーセの実像は、決して、現在、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教において、宗教的に語られるモーセの姿とは相当に異なります。そのことを今回は説明しようと思ひます。

モーセと言へば、紀元前十三世紀ころのイスラエル民族(ヘブライ民族)の指導者で、旧約聖書の創世記から申命記までのモーセ五書(トーラー)、あるいはヨシュア記までの六書の著者であり、神の啓示により、エジプトの奴隷となつてゐたイスラエル民族を率ゐてエジプトから脱出し、神との契約とされる「十戒」を授けられ、艱難辛苦の後に約束の地カナンに到達したものの、ヨルダン川を渡れずに亡くなつた英雄です。

当時の奴隷といふのは、今では想像を絶するものです。百年前におけるアメリカの奴隷は、エジプトの奴隷と比べたら、より人間的な扱ひがされてゐました。ただし、アメリカ奴隷でもさうでしたが、奴隷は「人」ではありません。欧米でいふ「人権」とは、奴隷にはありません。奴隷は家畜と同じです。


家畜と同じですから、欧米の婦人は、奴隷の前でも平気で着替へしたり裸になります。皆さんも家畜の前で裸になつても、羞恥心は感じないでせう。それと同じです。会田雄次氏の『アーロン収容所』に書かれてゐますが、イギリス人は、日本人などの有色人種を猿人とみなして人間と思つてゐなかつたので、イギリス人の婦人は、日本人捕虜の前で、平気で裸になつて着替へをしたさうです。つまり、日本人捕虜は奴隷扱ひだつたのです。約七十年前でもそんな状況でしたので、今から約三千二百年前のエジプトでのヘブライ人奴隷の扱ひは、それとは比べものにならないほど過酷な扱ひがなされてゐたわけです。


また、家畜だと、親子兄弟の区別もありません。親子間でも兄弟間でも交尾させて子供を作らせます。子供も大きくなれば奴隷になりますので、大切な「財産」ですから、誰に生ませても、誰に作らせても同じだからです。親奴隷が病気になつて働けなくなれば、子奴隷に親奴隷の「殺処分」をさせます。その逆もあります。
 家畜では、主人の人間に必要な身の回りの世話をさせることができませんが、人間の奴隷だと、それが可能になつて便利です。奴隷と家畜は、その役割分担を異にするたけで、「人畜」として一括りされる存在だつたのです。


 そんな奴隷として、へブライ人の多くがエジプトに拘束されてゐました。民族全体が奴隷となつてゐたのであり、そのことは、民族そのものが家畜化して消滅したのも同じでした。そのヘブライ民族をまとめて脱出させるだけでなく、民族の誇りを甦らせ、約束の地で民族固有の社会生活を再生させることは並大抵の努力ではできません。私たちの今に置き換へてみれば、このときのモーセの苦難と努力が、如何に途方もないことであつたことが容易に想像できるはずです。
 この絶望的な状況から民族の再生を実現させたことは、紅海が割れたことや、「マナ」の恵みよりも、もつと大きな奇跡と言へます。


そして、その民族再生のための掟として示されたものが「十戒」です。十戒には、神と人との関係と、人と人に関する項目があると分類されてゐます。このうち、人と人に関する項目の中で、まづ定められてゐる中心の項目が「「汝、父母を敬へ」です。

どうしてこれがあるのか。
 それは、奴隷には「奴隷道徳」しかなく、前に述べたとほり、親子の秩序関係は完全に破壊されてゐたからです。奴隷道徳とは、奴隷が従ふ掟であり、主人に対する絶対的服従のことです。主命であれば、親殺し、子殺し、兄弟殺しなど何でもします。親子の情愛を捨て去ることが奴隷に求められる奴隷道徳です。
 奴隷は家族を持つことができません。奴隷の中には、例外的に恵まれた者が居て、家族を持つ者も居ましたが、それは、主人にとつて、その方が財産的価値が保てると判断した場合に限ります。それは人として備はるべき温情によるものではありません。本当に温情があれば奴隷を売り買ひして勝手に処分することはできません。家族を持たせて不都合なことが起これば、すぐに売り飛ばしたり交換して家族を破壊させるのです。ですから、比較的恵まれた奴隷の中には、エジプト脱出後も、慣れ親しんだファラオの神を崇めるといふ悲しい習性を捨てきれなかつたのです。そのためにも、モーセの十戒は必要なものだつたのです。


このやうな主体性のない信仰の習性は、言ふならば「抑圧された奴隷の個人主義」です。親も子もなく兄弟の序列や秩序もなく、すべて平等で同じ奴隷といふ立場であることは、「個人主義」の基礎条件を満たしてゐるからです。家族の観念も情愛も無慈悲に否定しなければ、奴隷として生きて行けません。奴隷には、家族がなく、例外的に家族ができても、いつでも壊される運命にあります。ですから、個人個人がばらばらに生きていくことしかありません。だからこそ「奴隷道徳」は、家族主義ではなく個人主義に似てゐるのです。

そんな歪んだ奴隷道徳に浸りきつたヘブライ人に、民族の起源と民族祭祀の重要性をいきなり説いても誰も理解できません。ですから、モーセは、まづは奴隷道徳から解放するために、まづは「父母を敬ふ」といふ祭祀の出発点をまづ植ゑ付けたのです。


「抑圧された奴隷の個人主義」に浸り続けたヘブライ人に、単に抑圧を除去し、奴隷から解放されれば、全く歯止めの利かない「個人主義」に陥ります。それは、奴隷からの解放であると同時に、民族の崩壊を意味します。家族を否定された生活をしてきた奴隷が、奴隷でなくなれば、家族否定の完全な個人主義になつてしまひます。このやうな個人主義を一人歩きさせることは絶対に避けなければならなかつたのです。そこにモーセの腐心がありました。


そこで、歯止めの利かない個人主義を押さへ込み、「ちちははと とほつおやから すめみおや やほよろづへの くにからのみち」といふ、祖先祭祀、自然祭祀、英霊祭祀などの「祭祀の道」に民族を誘ふには、まづは父母を敬ふことから始め、また、個人主義の暴走に歯止めを利かすために、「神の道」を説いたのです。


この「神の道」は、一神教ではありません。ヘブライ人には、ヘブライ人の神があるといふことです。それは、エジプト王家(ファラオ)が崇める神でも、主人(主家)の崇める神でもない、ヘブライ人にはヘブライ人の神があるといふことです。奴隷のヘブライ人には、民族の神を崇める自由はありませんでした。他民族の神とは異なるヘブライ民族独自の神があることを強調することによつて民族の自立を目指すものでしたが、いつの間にか、長い間の苦難を経て一神教の傲慢さが染みついてしまつたのです。「選民思想」とは、本来は民族の自決を自覚させる思想であり、父母から祖先を通じた民族の「カミ」があること意味したのです。


仏教にも、モーセの十戒を模した「十戒」がありますが、これには、「父母を敬ふ」といふ徳目がありません。仏教伝来地域にはエジプト奴隷のやうなものが存在しません。家族主義の社会が仏教伝来地域であつたことからして、その地域では家族主義が当然であるとされたため、その徳目が書かれなかつたとも言へます。

 しかし、それが書かれていないことが、いつの間にか一人歩きして、仏教伝来社会もだんだんと個人主義に陥つて行きます。

我が国でも、日本霊異記には、「不孝の衆生は必ず地獄に落ち、父母に孝養すれば浄土に往生す」とあつたものが、親鸞の時代になると、「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念佛申したること、いまだ候はず」と「歎異抄」で誇らしげに語つたやうに、父母への孝養が否定されてしまひます。


もちろん、モーセの十戒における父母の孝養も、イエスが「福音書」で説いた父母の孝養も、その後の宗教世界では、神との関係を絶対視するために、徳目としては希薄となり否定される傾向があることはご承知のとほりです。


ところで、旧約聖書を経典とする宗教は、すべて一神教となつてゐますが、そもそも旧約聖書は、一神教の経典であると決めつけることに大きな疑問があります。
 それは、「God」の起源は、旧約聖書の原典のへブライ語のエロヒム(「Eloheim」又は「Elohim」)であり、「im」は複数形を表すからです。ヘブライ語原典の聖書には、数へ切れないほど「エロヒム」が出てきます。単数形は、「Eloh」(エロハ)ですが、エロハはではなく、すべてエロヒムです。このエロヒムといふ言葉は、「天空から降りてきた人々」といふ意味です。複数の人間なのです。竹内文献などで語られる「宇宙人飛来説」を想像しうる記載なのです。「God」を「神」と訳するのは最大の誤訳ですが、仮に、これを神と訳したとしても、「神々」と複数形になるのです。


ですから、明治初年の廃仏毀釈運動や神仏分離令などは、祭祀の道の復活を願ふ者にとつては謬論であり愚策の極地であつて、最悪の事態であると云へます。神仏混淆や神仏習合は、長い目で見れば、神社神道と仏教の堕落と矛盾を明らかにし、祭祀復興の光明となるものであつて、大いに望ましい方向なのです。


もつとも、申命記には、「主は私たちの神(Elohim)。主はただひとりである。」と書かれてゐますが、複数であると同時に、それが単数に収斂するといふのは、決して矛盾するものではなく、祭祀の道を極めれば理解することが容易です。


モーセの「十戒」では、初めに、神と人との関係が説かれてゐます。しかし、この「神」は複数形なのです。つまり、モーセの信仰世界であつたエロヒムといふ認識は、八百万の神々に近かつたはずですし、その遙か彼方に、国常立神、天之御中主神を想起して、「ちちははと とほつおやから すめみおや やほよろづへの くにからのみち」といふ「祭祀の道」を確信してゐたに相違ありません。


そして、モーセは、ヘブライの民がシンの荒野で飢ゑたとき、神に祈つて天から「マナ」を降らせますが、これによつて40年間に亘つて飢ゑを凌いだことからして、神が作つた超自然的なものであるとされてゐます。しかし、これは、モーセの指導によつてヘブライ人が他民族に頼らずに自らの食料を40年間に亘つて自給自足する自立再生社会を実現したことを寓意してゐることに他なりません。ところが、その後に起こる戦ひの連続と自然環境の変化、そしてモーセの死によつて、ヘブライ人の自立再生社会がついに崩壊してしまつたことを意味してゐるのです。


このやうに、旧約聖書に別の視点から光を当てれば、旧約聖書は、祭祀の道と自立再生社会とが一体であることをモーセの生涯を通じて語つてゐるものと解釈できるのです。


今、我々は、賭博経済の拝金主義といふ奴隷制度に埋もれてゐると言つても過言ではありません。その奴隷世界から脱出し、約束の地である自立再生社会の「まほらまと」に到着して安住するためには、一人ひとりがモーセの志と勇気を持つて実践することなのです。私たちは、改めてモーセの偉大さを再認識して顕彰し、すべての同祖論の彼方には世界のスメラミコトが御座しますことを確信して、天皇祭祀の雛形となる祭祀の道をそれぞれが実践しつつ自立再生社会を目指すことが今最も求められてゐるのです。


平成二十四年八月一日記す 南出喜久治


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