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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第四十三回 ウチとソト

ちへももへ かさねあはせの ひひなから よろづのかたち しめしけるかも (千重百重 重ね合はせの 雛形 萬物の形 示しけるかも)

福は「ウチ」、鬼は「ソト」。

節分の豆まき行事で唱へられる言葉ですが、このウチといふ言葉が、「内」(ウチ)なのか「家」(ウチ)なのかについては、一般には「内」とされてゐます。


「内」といふ漢字は、「冂」(囲ひ)に「入」れることを示すので、単なる方向性を意味するだけです。これに対し、「家」といふ漢字は、「宀」(家、屋根)の中に「豕」(豚)が居ることを示すもので、場所的な意味があります。豚は祭祀に用ゐられる神聖な動物とされてをり、それを家の中で飼つたり祭つたりするもので、この「豕」とは祭祀のことを意味します。つまり、家とは、「生活の場所」であると同時に「祭祀の場所」であることを示した字なのです。


ところで、この節分は、立春の前日ですので、立春を一年の始まりである元旦とする見解(立春元旦説)によれば、節分行事は、大晦日(おほつごもり)に大祓(おほはらへ)をする祭祀の儀式になります。

さうすると、このウチとは、祭祀と関係することになりますから、「内」といふ方向性ではなく、場所的な意味である「家」であることになります。家族、同族、部族、民族、国家、世界といふ重層的、段階的な構造における様々な「内」を意味し、ソトとは、それから外れるものとなりますので、結果的には、ソトとは地球を離れた宇宙空間になります。ですから、節分の儀式における口上で、「鬼はウチ」と言つたり、「福はウチ」としか言はなかつたりする風習が一部の地方で見られるのも、それなりに納得できます。


このやうに考へてくると、ウチとソトとは、デジタル的に区別が明確であると思はれがちですが、実はさうでもないのです。

たとへば、日本建築における縁側の機能は、軒下のすだれを降ろして雨戸と障子を開ければウチとなり、すだれを納めて雨戸と障子を閉めればソトになります。縁側とは、ウチにもなりソトにもなる空間なのです。


さらに、例を挙げると、竹輪(ちくわ)があります。おでん(カントダキ)が恋しくなる季節になりましたが、その具(ネタ)として無くてはならない竹輪(ちくわ)に関する話です。この竹輪の穴(中空の部分)は、ウチなのかソトなのかといふ世界的(?)な哲学的課題があるのです。マカロニの中空部分も同じことが言へますが、竹輪の穴は、竹輪の内側にあるのでウチであるとも言へますが、穴の部分は外気に触れる部分であることからすると、焼きが施された外側と同じやうに、ソトであるとも言へます。


皆さんに、もし、「竹輪の穴は食べられるか。」と質問すると、バカにするなといふ回答といふか、罵声が聞こえてきそうです。しかし、少なくとも、竹輪の穴は美味しいのです。竹輪に穴がなく、全部詰まつてゐるとしたら、その食感は全く違ひます。穴があるからこそ絶妙の歯触りや歯ごたへがあり、それが竹輪の食感を支へます。ですから、竹輪の穴は美味しいのです。中身がないのに美味しい。美味しいけれど中身がない。かうして「空」(くう)と「色」(しき)の世界を体感するのです。般若心経の「色即是空、空即是色」とはまさにこのことです。

実は、この竹輪の構造は、人体を簡略化した模型なのです。人体は、口から始まり、食道、胃、十二指腸、小腸、大腸、肛門へと繋がる中空の連続部分があるのです。口から肛門へと連続する消化器官は、模型的には竹輪の上端から下端に至る竹輪の穴と同じです。口から食べ物を「体内」に取り入れたと思つてゐても、それは、竹輪の穴を通過してゐるだけで、これは「体外」とも言へます。消化して分子構造的に体内細胞に取り入れたときに、初めて「体内」に取り入れたことになるのです。

さうすると、「体内」と「体外」といふウチとソトの区別も単純には決められなくなつてきます。


このやうに、「ウチとソト」の区別も厳密に考へると簡単ではないやうに、二者択一的、二元論的に区別出来そうなものが、実際には、さう単純明快には出来ないものが世の中には沢山あります。

「デジタルとアナログ」、「ストックとフロー」、「直線と曲線」、「理性と本能」、「静と動」、「表と裏」、「前と後」、「ハレ(晴)とケ(穢)」、「聖と俗」、「精神と物質」、「雄と雌」などです。


こんなことがどうして起こるのかについては、論理学で説明ができます。ウチとソトの例で言ふと、ソトは、ウチの反対概念(反対事象)ではあつても否定概念(否定事象)ではありません。「反対」と「否定」とは違ふのです。論理学では、「ウチであるもの」の概念を定めれば、その否定概念である「ウチではないもの」は自づと定まります。そのため、「ウチであるもの」であり、かつ、「ウチでないもの」といふものが存在しません。決して両立することはないのです。これが「否定概念」です。

ところが、「反対概念」といふのは、「否定概念」と同じではありません。「ウチ」と対立、相対する対極的な位置にある概念であり、「ソト」といふのは「ウチ」を「否定」する概念ではないからです。そのために、「ウチ」と「ソト」との中間的な概念、ウチであつてソトであるもの、ウチでもソトでもないものが生まれます。それが「太極」です。太極は対極とは意味が違ふのです。前に挙げた対極同志となる一対の概念についても同じことが言へるのです。


このことは、『般若心経』における「空」と「色」の関係と同じです。空であり色であるもの、空でも色でもないものがあり得るのです。空は色の反対概念であつて否定概念ではないのです。しかし、全部と言つてよいほど、この解釈に関しては、空は色の否定概念として二元論的に捉へてゐます。そこに論理学的な致命的な誤りがあり、スコラ哲学の破綻にも似た矛盾が出てくるのです。そのことを気付かせてくれるのが竹輪の穴です。竹輪の穴が世界的な哲学的課題であるとする所以はまさにここにあるのです。


ですから、ウチとソトとが完全に分離して交はらないものでない性質のものであることが哲学的混乱を生んだ原因です。そして、このやうに、対極する概念や事象が、一部で重なり合つたり相互に乗り入れしたりするのは、これらが未分離であつた原始の世界に由来することなのです。


『古事記』には、久羅下那洲多陀用幣流(クラゲナスタダヨヘル)状態から、オノコロジマといふ地球が誕生し、さらには、海と陸ができて行くといふやうに、段階的、重層的、連続的に世界が誕生しました。極小のものから極大のものまで連続してフラクタルな構造を作つてゐます。

クラゲナスタダヨヘルといふ状態は、天地陰陽が定まらない状態のことであり、別の言葉では「太極」と言ひます。振り子で言へば、振り子が止まつてゐる状態から両極に振れる状態に変化すると、振り子が往復する際に、常に振り子が静止してゐた位置を瞬間に通過します。この通過する地点を太極と言ひます。静止した振り子の場合と太極の位置にある振り子とは、同じ位置であつても、静と動の違ひがあります。


これらの対比と相違は、先ほど述べたとほり、万物が重層の雛形構造になつてゐるためであり、その一つ一つについて微視的に見るだけではなく、巨視的な観察や直観も必要になつてきます。

宮本武蔵は、『五輪書』で、「見る」と「観る」とを使ひ分けて区別してゐました。「見る」とは、近くて狭い観察し凝視することであり、「観る」とは、遠くて広い観察し俯瞰することです。凝視は理性の働きであり、俯瞰は本能の働きです。この双方の均衡が必要であり、二天一流(円明流)とは、直感的にこのことを意味するはずです。


また、本居宣長が、『古事記伝』の第一巻総説に『直毘霊』(なほびのみたま)といふ神道國體観を説きましたが、同時に、万葉仮名で『玉鉾百首』(たまほこのももうた)といふ直観世界の和歌を詠んだことによつて、本能と理性の均衡を保つたのです。

武士のたしなみとされた文武両道(文武二道)といふのは、文事と兵事の均衡のことです。さらに、文事における学問の世界における論理(理性)と、和歌の世界における感性(本能)との均衡が求められ、さらに、兵事における兵学といふ論理(理性)の習熟と、武芸を磨く感性と胆力(本能)とを均衡させることによつて、武士は全人調和の完成を目指したのです。ここにも本能と理性の均衡における重畳的な関係が見られます。


さらに、南方熊楠も、精神世界と物質世界との関係において、興味深いことを語つてゐます。それは、ココロ(心)とモノ(物)を区別し、これを分離したものと捉へずに、これらが重なり合ふ部分(心と物の積集合)をコト(事)と考へたのです。コトの語源は、言(言葉)であり事(事柄)です。そして、モノの語源は、物(物質)であり者(他者)です。そして、ココロの語源は、凝る(コゴル)であり、カラダの中にあるモヤモヤしたものが凝り固まつたものを意味します。万葉東国方言では、ココロはココリとなつてゐますが、これもコゴル(凝る)が変化したものです。このやうにして、たとへば、ココロザシ(志)とは、心と指し、つまり、ココロが向かふところといふ意味となつて、ココロに関する言葉が多く生まれました。


南方熊楠は、この「心」は「事」(言)によつて現れるとし、「事」(言)を離れて「心」を察することはできないとします。ヨハネによる福音書にも、「初めに言葉ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神であった。」とあるやうに、言葉と心とは不即不離であり、それが言霊の世界なのです。言霊こそ神なのです。言霊には、その言葉の内容を実現する力があります。それは、マートンの説く「自己実現予言」と同じ働きです。


ですから、コト(言葉)こそ、精神世界と物質世界とを結びつける太極であり、動と静との接点であり、その言霊の力によつて、必ず世界を変へることができるのです。家族を守り、民族を守り、国家を守つて、世界平和を実現させるための善き言葉を唱へ、併せて、国賊を膺懲する鋭い剣の言葉を唱へれば、その言霊の力によつて、祖国に仇なす敵を滅して祖国を再生できます。多くの人々が日々これを怠らずにこの想ひで祭祀を実践すれば、國體護持と祖国の再生、そして世界平和が必ず実現できるのです。

平成二十四年十月一日記す 南出喜久治


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