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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第四十七回 合咲只和

あはさりて はなをさかせば それだけで こころなごみて まるくをさまる(内歌)
(合はさりて花を咲かせば(成功すれば)それだけ(只)で心和みて丸く治まる)
ひとくさが ひとてまづつに かかはりて やそあまりやの いねをくちにす(外歌)
(人草が一手間づつに關はりて八十余り八(八十八)の稻(米)を口にす)

京都に、虎の子渡しの石庭で有名な臨済宗妙心寺派の観光寺院である龍安寺に、「吾唯足知」(吾唯足を知る)といふ、水戸光圀公の寄進との伝承がある石の蹲踞(つくばひ)の複製が置かれてゐます。

その中央の四角ゐ穴があり、上から見ると「口」の字です。その上に「五」、右に「隹」、下に「疋」、左に「矢」と口の周りを右回りに刻字され、それぞれ「口」と合はせた漢字として読むと「吾唯足知」になります。

この意味は、「足を知る者は富む」(老子)の言葉を連想させるものです。


これらの言葉の精神環境は、外来思想によるものなので、せめてこれに似たもので他に何か我が国古来の類似したものがないかと思ひました。漢字語は外来のものですが、せめてその意味だけでも和風のものはないかと探してみましたが見当たりませんでした。そこで、自分で作つてみました。それが冒頭の歌です。

「吾唯足知」の要領で、「合咲只和」を作りました。これを「ゴウセウシワ」と読んでも「合ひ咲きて只だ和む」も読んでも、また、別の読み方をしても結構です。

この「合咲只和」を図案化し、全体を丸で囲まれたものを示しましたので参考にしてください。


内歌といふのは、「口」を含んだもので、外歌といふのは、口を除外したものです。ですから、内歌といふのは、「合咲只和」そのままで、外歌といふのは、「合咲只和」の口の周りの「人」「一」、「关」、「八」、「禾」です。「关」といふのは、「關」(関)の簡體字で、「禾」は「稻」の略記です。

また、「口」偏に「关」の旁(作り)で「咲」ですが、本当は、「咲」の字は、「口」偏に旁が「笑」の字が本当で、それが「关」に誤用された俗字とされてゐます。つまり、口をすぼめて、ほほと笑ふこと。それが「咲」の意味ださうです。「鳥は鳴き、花は笑ふ」。花が笑ふことが「咲く」の意味になつたのです。さうだとすると、「關(関)はりて」が「微笑んで」となり、さらに歌意が高まることになります。  このやうなことに興ずるのは、歌会などでの楽しみ方の一つです。意外なことに気付いたり歌心が深まつたりしますので、皆さんも気分転換で興じてみてください。




さて、ここでも冒頭の歌にも出てきた「米」のことですが、これを「コメ」と呼ぶときと「ヨネ」と呼ぶときがあります。契沖によると、脱穀したものがコメ、精米したものがヨネだと言つてゐますが、名字や地名の場合は「ヨネ」と読むのが比較的多いこともあつて、コメは実用的なとき、ヨネは文学的なときに使ふといふ分類もあり、その区別は定かではありません。区別しなければならないものかも判りません。いづれにしても米が生活と一体になつてゐることを示してゐます。


そして、「米」の字を分解すると、「八十八」になることから、八十八歳の祝ひを米寿(よねの祝ひ)とする習慣も根付いてゐます。また、米は、それが出来て口にするまでに八十八の作業を経るとか、八十八人もの手間が掛けられて出来たものであるとして、決して粗末にしてはならないと昔の人は教へてきました。お米の一粒一粒に仏様が御座すとして、お茶碗の米粒を一粒たりとも残してはならないとして、残せばひどく叱られたものです。道元禅師は、「コメ」と決して呼び捨てにせず、「おヨネさま」と呼んでゐました。

また、米の字を、八と木の二つに分解して「八木」(はちぼく)と呼びこともあります。これを「ヤギ」と訓読みする名字や地名の由来も多くはこの八木から来てゐます。


このやうに、コメとかヨネとかと直接に呼ばず、八十八とか八木と呼ぶのは、諱(いみな)の習慣によるものです。諱とは、高貴な人の実名のことで、それをそのまま呼ぶのは畏れ多いとして、贈り名で呼ぶのです。忌み名とか戒名とか、死後にその人を尊んで付けた称号の場合は、諱ではなく諡(いみな)と言ふ字を書くことが多いですが、これも、実名を呼ぶことを畏れ多いといふことから来てゐます。

そのやうなことから、米もコメとかヨネといふ実名を避けて、「おヨネさま」と呼んだり、八十八とか八木と呼んだりするのも、米を尊ぶことから来てゐます。それほど米は我が国では特別なものなのです。


そして、この米は、食料として認識されるときの名称で、稲の種子のことです。ですから、稲は植物、米は食料として区別されます。植物名の稲から食料名の米へと劇的に名前を変へるのは、主要食糧の中では稲(米)だけです。麦などの他の主要食糧では、植物名と食料名とは同じです。これは、その変化などに祭祀の深奥を見ることができます。


祭祀の道第十二回「自然祭祀」の冒頭歌は、

  かみほとけ ひとがかみしも さだめても かみはかみなり ほとけはほとけ
(神佛人が上下定めても神は上なり佛は穗外毛)

でした。これは、稻穗の構造から、カミとホトケの区別をしたものです。稲穂の実である「日の実」(カミ、米)と、その外花穎の先端から出る剛毛状の突起(芒、禾)である穗外毛(ホトケ)からなるのが稲穂の構造を意味してゐます。そして、稲作発祥の地とされる支那の雲南省や貴州省などの山岳地帯に暮らすハニ族、タイ族、ミャオ族などの少数民族には、初穂に稲魂が宿り、それと祖霊とが一つとなるとの信仰、いはゆる稲魂信仰があり、我が国と同様に、その地にも仏教が伝来したのですが、稻魂信仰は生き残りました。つまり、稲魂は釈迦よりも上に位置する存在と理解されたことの話をしました。


穗外毛(ホトケ)がどうして芒(ノギ)といふ名前なのかについては、「禾」とも示されてゐるとほり、これを分解すると「ノ」と「木」で「ノギ」だからです。つまり、前に、稲の偏である「禾」は「稻」の略記ですと言ひましたが、稲の旁の方は、「ヨウ(エウ)」と読み、爪と臼とて出来た字ですから、爪を立ててかき回し臼の中から物を取り出す様子です。つまり、米搗きのことです。稲は、米搗きをして米になるのです。


このやうに、様々な内容を培つた稲作文化は、我が国の文化伝統の原点であり、それが祭祀の基軸となつてゐます。ですから、もう一度、祭祀の基軸となる稲作文化を見つめ直す必要があります。

米の一粒一粒にホトケが宿るので、粗末にしてはならないといふ教へも我が国の精神文化を高めてきたことに間違ひありません。しかし、御先祖の汗と涙の結晶として我々子孫に伝へていただいた稲作文化と一体となつて育まれた祭祀の観点からすると、やはり、御先祖の御霊(カミ)が稲穂に宿り、その外側にホトケが居ると直感したことに何らの抵抗もないはずです。


ところで、「アメリカ」のことを「米国」と呼ぶのは、「亜米利加」とか「阿米利加」と当て字したり、「メリケン」を「米利堅」とか「米利幹」としたことに由来します。他にも「亜墨利加」とも当て字したので、「墨国」といふ案もありました。

我が国では、黒船来航以来、アメリカを殊更に脅威と感じることの反動により、虚勢を張つて見くびる気持ちから、日本人がいつも口にする米のやうに「いつでも喰つてしまつてやる」といふ心意気で「米」の字になつたのです。他には、尊敬と敬愛の念から、「亜美利加」と当て字したこともあり、「美国」とする考へもありましたが、結局は「米国」になりました。


ちなみに、支那や韓国ではアメリカを「美国」と表記してゐますが、日本ほどアメリカ従属の意識が強くはなく対米自立志向や敵対志向の強い支那や韓国では抵抗のある表記かも知れません。そのことからすると、安倍晋三氏が数年前に『美しい国、日本』といふ本を上梓しましたが、これは米国従属路線の安倍氏らしい題名です。「美しい国(美国=アメリカ)の属国日本」といふことを暗示してゐると連想されます。


ともあれ、「いつでも喰つてしまつてやる」といふ心意気は、戊辰戦争で最後まで戦つた尊皇無比の会津魂にもありました。「薩摩、長州なにするものぞ」との思ひから、薩摩藩はサツマイモ、長州藩(萩藩)をオハギ(ボタモチ)に見立てて、イモもオハギも全部喰つてやると歌つて戦つたのです。

ところが、結局は薩摩と長州に滅ぼされてしまひました。これと同じやうに、我が国も大東亜戦争でアメリカに喰はれてしまつたのです。占領憲法の全否定をしなければ、「戦後レジームからの脱却」はできません。これを認めた上で「改正」することは決してしてはならないのです。これこそ、「ならぬことはならぬものです」。しかも、今ではアメリカ産の「米」まで輸入圧力を受ける事態になつてゐます。これは見くびることが油断と隙を生むことの教訓でもあります。


戊辰戦争と大東亜戦争とは、いづれもその「戦後」の状況において似たところがあります。戊辰戦争は、薩長と会津(奥羽越列藩)との戦ひであり、その「戦後」は、敗者の奥羽越が薩長への遺恨を潜在化させることによつて、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の如く、我が国の基軸であるべき「祭祀」そのものを否定する「合理主義」に陥つてしまふ者が多く出ました。これは、薩長土肥の中でも政治的な反主流派がその政治的主流派(薩長政権)以上に合理主義を徹底させることによつて思想的主流派の地位を手に入れ、急進的な自由民権運動や共産主義運動、キリスト教運動を指導した者が多く出たのと同じです。このことは、大東亜戦争の「戦後」も同じで、敗者の日本は、戦前では『國體の本義』で徹底した合理主義批判をしてゐたにもかかはらず、敗戦後は、勝者のGHQの上を行くかの如く、さらに一段と徹底した合理主義思想を貫く者が政治的、学問的な主流を占めることになつたのです。

つまり、「祭祀の否定」と「合理主義の徹底」。これが共通した「戦後」の傾向だつたのです。


今年のNHKの大河ドラマ『八重の桜』は、尊皇と祭祀の志操堅固な会津出身者が祭祀否定のキリスト教主義者となつて薩長への「恨」を教育事業で晴らすといふもので、まさに「敗戦後における敗者の劇的な変節による功名」を正当化することを目的としたものです。これによつて、これの雛形となつてゐる大東亜戦争敗戦後においても、徹底した合理主義(傀儡天皇、祭祀否定、国民主権、占領典憲の肯定)へと我が国政府が劇的に「変節」したことを正当化する「洗脳ドラマ」と評価できるものです。

八重は八重でも、祭祀の実が生らない「八重の山吹」であつて、潔く散つて実を結ぶ「八重の桜」ではないのです。

付言しますと、功名を峻拒して正攻法の密航で失敗し刑死した吉田松陰と、徹底した功利主義による奇計で密航に成功して功名を得た新島襄とは、対極にあります。これは、命懸けで親孝行を実践した中江藤樹と、功名のために平然と親不孝をした野口英世との違ひでもあります。こんな「功名主義」が称讃されるやうでは、日本の再生は望めません。


閑話休題。このやうなことを前提にすると、やはり、「戦後レジームからの脱却」をしなければなりません。コミンテルン史観や東京裁判史観からの脱却は勿論のこと、その前提として、薩長史観からの脱却も当然に果たさねばなりません。そして、そのための第一歩として、外国の略称を見直した方が良いのです。イギリスは「英吉利」で「英」、フランスは「仏蘭西」で「仏」、ドイツは「独逸」で「独」、ロシアは「露西亜」で「露」ですが、みなしご(独)だとか露と消えるといふ侮蔑や、英とか仏とかの尊敬との両極端が入り乱れてゐます。これでは、魏志倭人伝の「邪馬台国」とか「卑弥呼」といふ侮辱名称を拒否することもできません。中華思想に毒されたために、征夷大将軍とか南蛮といふ言葉が我が国において歴史的事実として使はれたことについては、歴史は歴史として無修正で受け止める必要がありますが、せめて、これからの外交関係を直視するためには、偏見のある外国の略称を見直す姿勢があつてもよいと思ひます。


孔子は、「必也正名乎」(必ずや名を正さんか)として、名(言葉)と実(内容)とを一致させることが必要と説きました。『論語』の「子路編」で、「名不正則言不順、言不順則事不成」(名正しからざれば則ち言したがはず、言したがはざれば則ち事成らず)と述べてゐます。このことからしても、外国の呼称は偏見に左右されるものであつてはならないのです。


呼称変更には先例があります。帝政ロシアから共産ロシア、そして共和制ロシアとロシアは変遷しましたが、帝政ロシアと共産ロシアでは「露」の字が使はれて、まさしく露の如く消え去りましたが、現在の共和制ロシアでは「露」の字は使はず、カタカナの「ロ」の字が使はれることになつたことを嚆矢とすべきです。そして、最終的には、アメリカを「米」とすることを止めて、もつと別の相応しい名称にすることです。祭祀の基軸となる「米」を重んずるためにも、外国にこの名前を付けるべきではないのです。ロシアを「ロ」と表記するのであれば、アメリカは「ア」にすることで充分です。慣習的に漢字一字を使ふなら、ペルーの黒船の蒸気船の「蒸」とか、合衆国の「合」か「衆」などが候補として考へられますが、清水寺で一年を象徴する漢字選びをしてゐるやうに、この要領で公募することがよいと思ひます。そして、一日も早く、「米国からの脱却」を果たしたいものです。国名表記といふやうな、こんな身近な話題からも、祭祀のことに思ひを馳せる機会が得られれば幸ひです。

平成二十五年二月一日記す 南出喜久治


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