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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第五十二回 アマとアメ

めでたきは はつぞらあけて あまてらす ひのもとおはす すめのみいつぞ
(愛でたきは初空明けて天照らす日の本御座す天皇の御稜威ぞ)

アマテラスなどの「アマ」の言葉は、漢字語では「天」である。しかし、「天」の大和言葉には、「アマ」以外に、「アメ」もある。そして、「アマ」とも言ひ、「アメ」とも言ふ漢字語には、「天」以外に「雨」もある。


さうしたことから、「アマ」は「アメ」の古語であり、同じ意味だとする見解がある。確かに、天、雨を含む言葉には、アマともアメとも言ふものがあり、さういふ考へにも一理はあるが、どちらが「古語」なのかは必ずしも定かではない。


どちらが古語であるかは、言語学などによつて探求すべきものではあるが、古事記、日本書紀や言語学的基礎の研究してみると、「アマ」は「アメ」の古語であるとする見解(仮説)には大きな疑問が出てくる。

この論考は、このことを踏まへたものであるが、肩の力をすべて抜いて、感性で読み進んでほしい。


まづ、思ふのは、「海」の漢字語については、アマと言ふがアメとは言はない。海に縁のある海人、海士、海女もアマと読んでゐる。もし、「アマ」は「アメ」の古語とすると、天をアマともアメとも読むのであれば、海も同じやうにアマともアメとも読んでもよいはずが、海はアマとしか読まない。

さうすると、大和言葉のアマとアメとは、同じではなく語源が違ふのではないかと素朴の疑問が出てくる。


海は、ウミとも言ふ。古事記には、「宇美」とあることから、ウ(大)ミ(水)なのだとする説もあるが、これもおかしい。「宇」の漢音がウであつて、「大きな屋根」を意味するために、漢字語の「宇」から、和音のウの意味を導くのは誤りである。だから、「ウ」が漢字語の「大」の意味であるとすることできない。

万葉期には、沼、湖、海の漢字語で表せる「みづたまり」(水溜まり)のすべてを「ウミ」と言つたので、水たまりが大きいか小さいかではなく、「ウミ」といふ大和言葉は、生命をウム(生む、産む)ミ(水)が語源ではないかと思ふのである。


漢字語の「天」を意味する大和言葉は「アメ」である。古事記にも天地開闢のときの元始神であるアメノミナカヌシノカミも「アメ」である。もし、アマがアメの古語であれば、これはアマノミナカヌシノカミと呼ばれなければならないはずである。このことからしても、アマがアメの古語であるとする見解は破綻してゐる。


また、デジタル的な「天地」二分論では、天地は「アメツチ」と言ひ、天下は「アメノシタ」であつて、決して「アマツチ」とも「アマノシタ」とも言はない。


さうすると、天も海もアマといふのは、太陽が東の海、浜、山から上り、天空を駆けて西の海、浜、山に沈み、これが永遠に繰り返すことから、太陽の住み成す所がアマと呼ばれるやうになつたのである。


さういふことから、アマ(ama)は、天であり海であり、その同類語として、山(yama)や浜(hama)もアマ(ama)である。

そして、太陽は、日(ヒ)であり火(ヒ)であり、神の霊(ヒ)であつて、霊(ヒ)は霊(タマ)であり玉(タマ)であるから、やはり「tama」であつて、これも「ama」の同類語である。


だからこそ、アマテラス(天照)であつてアメテラスではない。アマツカミ(天津神)であつてアメツカミではない。高天原は、タカマガハラ、タカマノハラであつて、「アマ」であつて「アメ」ではない。


このことからして、アマとアメとは語源的には異なるものと言へる。

「アメ」は、支那、朝鮮、北ユーラシア系のデジタル的な理念に基づくコトノハであり、「アマ」は、海洋系のアナログ的な理念に基づくコトノハであつて、両者は、その発生起源を異にする別のコトノハなのである。


すなはち、アマは、太陽が海山から上り天空へ進み、そして海山に沈んでこれを繰り返すといふ循環無端のアナログの壮大な世界である。太陽は、日没から日の出までの間は、天空の裏側(ヨミノクニ)を通過するのである。つまり、アマは、水平的、循環的、連続的なものである。

アマネシ(遍し)とは、アマに接尾語の付いた言葉で、上下(垂直)、四方八方(水平)の広範さを示すものである。


これに対し、アメは垂直的、二分的、分断的である。天地(アメツチ)の間には何もなく、天(アメ)と天下(アメノシタ)に二分される。天と地は遠く隔絶されて決して交はらない。


ところが、古事記や日本書紀では、アマとアメとが混在し、アマを主として、アメを従とする。アマとアメとは相反する概念ではあるが、これを二分法的に峻別し、アマだけにしなかつたのである。二分法的に峻別するのは、やはりアメの思想である。古事記、日本書紀は、アマの思想であつたから、従たるアメの思想を排除しなかつたのである。ここに古事記、日本書紀の偉大さがある。


世界には、拝外主義や排外主義といふデジタル的な二分法のアメの思想がまかり通つてゐる。我が国と世界における最大の対立は、実のところ、このデジタル的な世界観である「アメ」の思想に、アナログ的な世界観である「アマ」の思想が毒され続けてきたことが原因である。拝外(服従)と排外(対立)は、いづれもデシダル的な世界観である「アメ」の思想であり、その根源は、祭祀を否定する「宗教」の思想でもある。これに対し、アナログ的なアマの思想は、すべてを包摂する「祭祀」の思想の根源である。「アマは祭祀」、「アメは宗教」と集約的に表現することもできる。

アメは暴力的な「革命」を容認するが、アマはこれを認めずにすべてを包摂する。


しかし、アマとアメをデジタル的に対立させて認識することも「アメ」的なデジタル思考である。それゆゑ、アマの思想とは、アメを全否定して排除することなく、アマを主とし、アメを従として統合するものであつて、それが記紀を貫いてゐる理念である。


個々の生命体(個体)はデジタル的であるが、祖先から受け継ぐ命はアナログ的であり、間断がない。このことが「アマ」なのである。それは祭祀(祖先祭祀、自然祭祀、英霊祭祀)によつて日々実感できるはずである。

平成二十五年七月一日記す 南出喜久治


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