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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第五十五回 家産と貨幣経済(その一)

かてともの たみがすべてを つくりだす かねはこれらの あはせかがみよ
  (食料と商品、民が全てを作り出す、通貨はこれらの合はせ鏡よ)

これから数回に亘つて、祭祀生活を維持するための基礎となる「家産」を形成して行くためには、現在の貨幣経済を将来においてどう向き合つて行くのか、着地点はどこにあるのかなどについて判りやすく話してみたいと思ひます。専門的には、國體護持総論第六章とその増補版を参照してください。


祭祀の道第四十六回『賽銭箱と貨幣経済』でも貨幣について少し話しましたが、神代には貨幣はありません。「貨幣」とは、権力的作用とは無関係に自然流通するものを総称した言葉であり、そのうち、権力により、貨幣価値の存在とその流通を強制したものを「通貨」と言ひますが、もし、神代に貨幣ないしは通貨が必要であるとすれば、神代の世界は、貨幣経済といふことになります。つまり、今の人間の世界と同様に、貨幣を媒介手段として商品を交換する世界といふことになりますが、そんなものが自己完結で営む神代の世界であるはずがありません。神が全知全能であれば、貨幣を通貨として通用させることを、一体誰が誰に対して命ずるといふのてせせうか。ですから、神の存在と貨幣ないしは通貨の存在とは全く矛盾するのです。


神から退化して地球上に生を承けた人類が、もし、自給自足して生活できる能力がなければ、人類は疾うの昔に滅亡してゐたはずです。ですから、人類は、与へられた本能に従つて修理固成して創意工夫し、種の保存、子孫繁栄のために自己完結的な自給自足生活を維持してきたのです。


つまり、とほつおや(御先祖)は、大家族、氏族、部族といふ重畳的な村落共同社会(ゲマインシャアト)の中で、物を作り、育て、使ひ、その智恵と技能を子孫に伝承して自給自足の生活を営んできました。自給自足の生活を営むことは、自分だけのためではありません。祖先から受け継いたものを子孫へと長く伝承して、代々に亘つて家族を守り続けるためなのです。つまり、家産とは、個人の私有財産ではなく、家族が代々承継して行く共同財産なのです。個人が勝手に処分したりすることができないものです。個人財産はその個人が亡くなれば、別の個人が相続として受け継ぎますが、家産は、親、子、孫と家族の構成が変はつても、代々家族として変はらずに受け継がれるものです。

「相続」といふ概念は、本来は「祭祀の相続」、「家産の継承」を意味するもので、決して、個人の財産を特定の親族の誰かが個人的に受け継ぐといふ意味ではなかつたのです。


このやうにして、御先祖は、家族全体で祭祀と家産を承継してきました。そして、その家族の構成は、近親者から親戚、遠縁に至るまで際限なく広がつて、家産の集合体である部族の村落を形成して大家族となるのです。その村落の人数が増えてくると、自給自足生活をすることに限界が生まれて飽和状態になると、別の場所に新たな家産を求めて新たな村落を作ります。このやうにして、部族が地域的に広がつて行くのです。


そして、大家族、氏族、村落、さらには、同じ部族内では、村落の連合体として自給自足による自己完結的な生活をしてきたのです。大家族の中で自給自足できるものは大家族の中で生産と消費がされます。また、物によつては、もう少し広げて氏族、部族の村落ないしは村落連合体の中であれば自給自足できるものがあり、まるで同心円のやうに自給自足可能な閉鎖的な共同社会の領域が決まります。


そして、その共同社会内において、生産の効率を高め、消費の節約を図らうとする工夫がされます。さうすれば生活が豊かになる潤ひがでてきます。その方法としては、生産面では、個々人による生産技術の熟練化と、一斉に共同作業を行ふことによる効率化です。そして、作業の分担化と専門化です。ここに、分業化が芽生えてきます。


分業化を進めることによつて効率が上がります。同じ部族内であれば、分業化は他の者との共同連携がなされることが大前提になりますので、分業者同士が信頼し合ふことがなければ実現できません。同じ血縁の部族の者同士であるといふことは、揺るぎない信頼の基礎となりますが、血縁のない他の部族との間ではさうは行きません。そのために、他の部族との間で、分業を広げて交易をするには、その他の部族と血縁関係を持つことが条件となります。


他所にある他の部族の村落の家族から嫁を貰ひ、さらには、自分の部族から他所にある他の部族の家族に嫁を出すことにより、他の部族を取り込んで同じ部族として拡大し、その拡大された部族全体として自給自足の自己完結生活を営んできたのです。これは、國體護持総論第一章で述べたとほり、ストロースの云ふ「女性の交換」による部族の拡大なのです。


このやうに、他の部族を同じ部族として取り込むといふのは、「血縁」といふ信頼があるためです。血縁による信頼とは、共通の祖先が存在するといふ安心感であり、祭祀を共にするといふ連帯感です。この安心感と連帯感は、文書による約束事といふやうなものでは得られないものです。文書での約束といふのは、相手を信頼できないから行ふものです。つまり、不信の裏返しが文書化の本質です。夫婦や親子といつた血縁的な間柄では、文書による約束といふのは矛盾したものなのです。


血縁といふ信頼関係の中では、部族内での「分担」によつて得られる財物を「贈答的交換」によつて実現してきました。ある家族が、その特技を生かして作つた物を、それを必要とし、それを求めてゐる家族に与へます。そのときに、与へられた家族が与へた家族の必要とする物を持つてゐれば、物々交換することになりますが、交換する物がなければ、それを有り難く頂戴するだけです。物々交換は、交換する相互の物が同時に存在することが条件となります。季節的な時差があれば成り立たないのです。しかし、直ぐに見返りがないからと言つて、物を与へないのではありません。必要としてくれる家族が喜んでくれることを幸せと感じるので、すぐにその見返りを求めません。いつかまた見返りがあるだらうとの信用によるものです。


本能原理からしても、与へられた家族は、いつか与へてくれた家族に、御礼がしたいと思ひます。そして、何とかして、与へてくれた家族が求めてゐる物を作つてお返ししようと思ひ、それを作るのです。そして、それを与へてくれた家族に与へます。これは感謝の気持ち、御礼の気持ちですから、直ぐには見返りを求めません。このやうにして、お互ひに満足し合ふのです。これが「贈答的交換」といふものです。


この慣習は今も続いてゐます。それは、季節的には、お中元やお歳暮があり、それ以外にも不定期に行はれます。親しい者同士が、お互ひに相手が好む物を贈り合ふのです。決して相互に送つた物を物々交換してゐる気持ちではないのです。気に掛けてわざわざ戴いた心が嬉しくて、そのお返しをしたいといふ心によるものです。ところが、現在では、儀礼的、形式的になつて、社会現象としては、望みもしない物々交換となつてしまつてゐることは寂しい限りです。


このやうに、信頼関係が儀礼的なものとなり希薄になつて行き、同族の部族の数が多くなつて、血縁関係の濃淡が激しくなつてくると、血縁の有無やその濃淡を直ぐに判断することが出来なくなります。

さうすると、血縁に代はる信頼の根拠を求めるやうになるのは必然的なことです。


さうして、血縁に代はる「信頼」の根拠が生まれることによつて、これまでの同一部族といふ自己完結的な「共同社会」(ゲマインシャフト)が崩壊して行くのです。そして、その限りない延長線上に現代社会があるといふことです。「血縁」による贈答的交換を支へる「信頼」は、「財貨」といふ誰も否定できない「物の価値」に置き換へられ、「共同社会」は「利益社会」(ゲゼルシャフト)へと変質するのです。「血縁」による信頼から「財貨」そのものの信頼へと変質するのです。


思ふに、「生産効率」を上げることは、人の暮らしと営みを向上させることは間違ひありません。しかし、そのことが人の暮らしにとつて至上の価値があるのでせうか。確かに、同じ作業をするのに効率がよい方法と悪い方法とが選択できるとしたら、効率のよい方法を選ぶのは当然です。しかし、それは「分業」とか「分担」といふものに限りません。自己完結型の自給自足社会において、効率を高める方法には、それぞれの人が「熟練」することによつて達成するのです。

人には得手不得手がありますので、効率を高めるには、物を作り、育て、使ふそれぞれの作業に得意な人が受け持つて、その人によつてさらに熟練することが必要になります。すると、当然に、作業の「分担」が生まれます。祭祀の道第三十一回『五穀と護国』で述べましたが、部民制がその原型となります。


では、この「分担」と現代における「分業」とどう違ふのでせうか。これには、決定的な違ひがあります。それは、「分担」は、血縁を根拠とした部族共同社会の「維持」に向けられたものですが、「分業」は、部族共同社会の「解体」に向けられたものであるといふ点です。


「分担」は、必ずしも効率的ではありません。なぜならば、分担する人も自己完結的な共同社会における自給自足の生活を自ら営む人だからです。これに対し、「分業」とは、自給自足生活を放棄して共同社会を崩壊させ、利益社会に移住して、その住人になつてしまふことなのです。


自己完結的な自給自足によつて物を作るといふ営みは、人の営みにおいて最も神聖なものであり、祭祀そのものであつたのですが、いつの間にか、生産至上主義による「分業」といふ思想によつて、祭祀共同社会を悉く崩壊させて、利益社会へと変質させ現代に至つてゐます。


その分業体制による「信頼」の根拠は、「通貨」といふ、強制通用力のある貨幣に物の価値と同じ価値があるといふ幻想なのであるといふについて、次回以降に詳しく説明したいと思ひます。

平成二十五年十月一日記す 南出喜久治


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