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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第六十回 家産と貨幣経済(その六)

かくのごと こづちはただの まがひもの はやくうちでの はまにしづめよ
  (斯くの如小槌は徒の擬物早く打出の浜に沈めよ)

デフレからの脱却、インフレへの誘導が望ましいことだといふ原理主義的な掛け声(呪術)を用ゐて、通貨量を過剰に供給し続けるといふ政策を実施し、呪術のとほりの状態が生まれるのだといふマインド・コントロール(集団催眠)の効果によつて、急激な円安を招き、産業の基盤となる石油やLPGの輸入量の増大と輸入原価が高騰によつて貿易収支は大きな赤字となり、経常収支も赤字になりました。円安になれば輸出が増大して経済を牽引するといふ予測は、大きなタイムラグの壁の前で破綻したといふことです。


自由主義経済と言ひながら、実のところ、財政と金融に関しては、ケインズ経済政策を嚆矢とする「計画経済政策」を当然のごとく受け入れて、これでも「自由経済」なのだとして、何らの疑問も抱かない空気が世相を支配してゐますが、こんな状態は、自由主義経済社会からは程遠い姿なのに、それを自由な状態だと信じ込んでゐるのですから、慣れとは恐ろしいものです。自由ではないのに自由であると信じ込むことの大きな矛盾を抱へ込んだまま、世界はこれから一体どこへ向かつて行くのでせうか。


もし、自由主義経済には限界があつて修正を余儀なくされる欠陥原理なのだといふのであれば、そのやうに説明して国民の納得を得るべきなのです。そして、自由主義経済には限界があり修正を余儀なくされるのであれば、この重要な要素である自由貿易にも限界があり、修正しなければならないと説明して、これを世界共通の認識とすべきなのですが、自由貿易は正しいのだといふリカードなどの原理主義が未だに世界を支配してゐて、TPP、FTAなどによつてさらに自由貿易を広げようとしてゐます。偽りを続けることは、輝かしい世界の将来を望むことはできません。この矛盾と偽りを続ける限り、世界はこれからも混乱し続けるのです。


そもそも、自由主義経済を支へうる政府といふのは、「小さな政府」でなければなりません。政府の関与は、国防(軍隊)や治安(警察、消防)などの必要最小限度の公共事業に限定され、経済活動などの、それ以外のことはすべて民間の活動に委ねられることになります。


これに対し、「大きな政府」とは、福祉や文化などに対してまで積極的な国家関与を容認した国家観ですが、この国家観を肯定したラサールが、この自由放任主義による「小さな政府」の国家観を揶揄して「夜警国家」と名付けたことは有名ですが、ケインズ経済に代表される「大きな政府」は、いまや世界的に広がりを見せてをり、「大きな政府」の大きさの程度の違ひはあつても、いまや世界には「小さな政府」は存在しなくなりました。


つまり、厳密に言へば、自由主義経済社会であつた時代は過去に一度もなかつたのであり、近年にあつては、財政と金融について政府が主導的に行う「修正資本主義」によつて支配された世界だつたのです。修正資本主義といふのは、資本主義による弊害を除去して、富の再配分と雇用の拡大を実現する福祉主義として、国家による積極的な関与を肯定する「大きな政府」の思想なのです。


この国家による財政と金融の政策が効果をもたらすためには、これを実施する政府に「信用」がなければなりません。その信用において最も重要なものとしては、中央銀行の発行する「通貨」に対する信用なのです。


最近において、これが崩れたのは、EUの信用危機の先駆けとなつたキプロスにおける信用不安を招いたキプロス危機です。

キプロスでは、平成24年6月、ギリシャの財政危機の影響で、ギリシャ国債を多く保有する国内金融機関の経営が悪化したため、EU(ヨーロッパ連合)に金融支援を要請しましたが、その支援の条件として預金課税の提案を受けたのでした。このことから、預金に一律課税して預金の一部を強制的に取り上げようとするのではないかとのキプロス国家に対する不信による騒動がキプロス危機と呼ばれるものです。


そして、このキプロス危機を契機として、世界では「通貨」に関する設計主義運動が大きく展開しました。それが平成20年ころから始まつたビットコイン(Bitcoin)といふ仮装通貨です。コンピュータやスマートフォンで、専用アプリを導入すれば誰でも買へる「通貨もどき」で、この5年間で80か国以上に拡大し、数百万人が利用し、取引通貨総量は1兆円を超えてゐると言はれてゐます。

送金は金融機関を経ずに個人で直接に送金できるし、交換所もあつて、各国の中央銀行からは解放されてゐます。投機対象ともなつて、平成25年1月から12月までの1年でその価値が100倍に高騰しました。


このビットコインの構想は、平成20年に、Satoshi Nakamotoの名で何者かがネット上に公開した論文が嚆矢となつたもので、「国家から独立した通貨」といふコンセプトで多くのプログラマーによつて創造された仮装通貨として、このビットコインが生まれました。

ビットコインは、匿名で入手できるもので、その発行量には上限(2100万円)があつて一定の制約はあるものの、麻薬取引などの闇取引やマネーロンダリングに使はれた実例もあることから、これを阻止するための各国の対応は様々です。


ドイツ、シンガポールは、ビットコインを「金融商品」として承認して、これに課税するといふ「容認」の方向ですが、アメリカやフランスは、これによる取引リスクはあくまでも自己責任であるとして「警告」してゐますし、自国通貨を発行する中央銀行に信用不安の懸念がある中国、インド、タイなどはこれを「禁止」してゐます。日本では、その対応を「検討中」といふことです。


平成25年12月5日に、中国中央銀行が禁止措置を発表したところ、その時の相場は1ビットコインが10万円以上の高値であつたものが、2日後の12月7日には5万円程度に半減したものの、その後は再び急騰しました。このことによつて、ビットコインは、その目的とした「国家から独立した通貨」であることの実績を得たことになり、その後は「金融商品」としての世界的な地位を確立したと言へます。


しかし、ビットコインが「国家から独立した通貨」といふのは偽りです。ビットコインは、各国の通貨との交換によつて成り立つてゐる「寄生的な金融商品」だからです。国家がなくなればビットコインもなくなるのですから、独立した通貨ではありません。羊頭狗肉の金融商品であり、強いて言へば「寄生通貨」なのです。


ともあれ、人々がビットコインに群がるのは、現代における「通貨」の本質を端的に示したものと言へます。それは、「通貨」として認識されて流通するのは、それ自体に信用の担保となる通貨発行の財源と実物価値が確保されてゐるか否かなどによつて決定されるのではなく、「みんなが通貨と信じたものが通貨となる」といふことなのです。これは、まさに「パブロフの条件反射」であり、「通貨宗教」といふ通貨信仰のみによつて支へられた虚構の産物なのです。


ところで、この原稿を書いてゐる最中に、ビットコインの世界最大級の取引所の一つである「マウントゴックス」(東京)のサイト上に「全ての取引を当面停止する」との声明が2月26日までに掲示されたとのニュースが報じられました。そして、これに対応して、世界のビットコイン取引所など6社が同日までに出した共同声明によると、「マウントゴックスは利用者の信頼を裏切つたのに、これは1社の問題」であると 強調してゐますが、この現象は、確実に通貨信仰の崩壊を招くことになるでせう。


ビットコインで濡れ手で粟を掴んだ人々は、株式その他の債券又は金融派生商品で大儲けした人と性根は同じであり、いづれも賭博経済の勝ち組です。このやうな賭博経済がまかり通る世界では、生産労働と収益との均衡、労働価値と通貨量との均衡、通貨発行権の本質と限界について、誰も本気で耳を傾けることはありません。


マルクスが描いた共産主義といふ設計社会の実験は完全に破綻しましたが、労働価値説といふのは、ある一面において正しい方向を示唆してゐました。それは、価値の創造とは人間の営みによるもので、それには一定の限界があり、打ち出の小槌を振つて際限なく安易に価値が造られることはないといふ視点でした。マルクスは、通貨は宗教のやうなものだとふやうなことを言つてゐたのです。もし、その視点を得体の知れない「通貨」の価値の創造といふ点に向けれてゐれば、通貨の本質を解明することができる可能性があつたのですが、それが全くできなかつたのです。

つまり、通貨が富の蓄積と偏在を生み格差を広げる元凶であるとしたのであれば、通貨発行権の本質と帰属について考察しなければならないのに、それが最後までできなかつたのです。


そして、レーニンは、マルクスの思想を忠実に実行して一旦は通貨を廃止したのですが、マルクスと同様に通貨発行権の本質を理解できなかつたために、1年足らずで通貨を復活せざるをませんでした。その原因が何であるかを探求すれば、マルクス主義の否定に至つたはずですが、それをしないまま見せかけの革命を追行して巨大権力を暴走させたことから、その後に人類史上特筆すべき凄惨な虐殺の悲劇を生むことになりました。


虐殺と言へば、毛沢東やスターリンが思ひ出されますが、カンボジアのクメール・ルージュ(ポル・ポト派)も忘れることができません。ポル・ポトは、毛沢東の残虐さの足下に及ばないとしても、毛沢東思想を熱烈に信奉し、対ベトナム自立と武装闘争路線に傾斜したため、不信の連鎖によつておびただしい数の国民の生命を奪つたことは、いかなる意味においても肯定できるものではありません。


しかし、ポル・ポトが掲げた政策を冷静に分析したとき、現代社会の経済制度に問ひかける反面教師の役割を果たしたものと理解することができます。これによつて、現代の経済制度や通貨制度の病巣があぶり出されてくるのです。

昔も今もカンボジアは農業国ですが、ポル・ポトは徹底した農本主義的な共産主義を唱へ、「反都市」、「反貨幣経済」、「反知識人」の路線を掲げました。もちろん、共産主義ですから、家族制度の解体を標榜したため、多くの国民には到底受け入れがたいものでした。


ポル・ポト派は貨幣経済を否定し、通貨の流通を停止して銀行を解体させ、食料生産を担ふ農村の共同体を国家の基本に据へて、食料生産力を持たずに消費するだけの都市住民や食料生産者を見下して生産に貢献しない知識人は、農村を収奪して疲弊させる「寄生虫」とみなして強制的に帰農させたのです。そして、これに逆らふ者には悉く死を与へたのでした。


このうち、「反都市」と「反知識人」といふのは、五・一五事件で最高刑の無期懲役に処せられた橘孝三郎の思想と形式的には近似しますが、明らかに似て非なるものです。ポル・ポト派は、「家族」を解体し、個人主義や合理主義による根無し草の村落共同体を夢想したために、このやうな村落共同体といふのは長続きしませんでした。ポル・ポト派の失敗は、家族を単位共同体の構成要素としない抽象的な村落共同体といふものが成り立たないことを証明したのです。ポル・ポトと橘孝三郎との決定的な違ひは、拙稿『同工異曲の原発問題と安保問題』を参照してみてください。


また、「反貨幣経済」といふのは、レーニンの当初の路線を引き継いだものですが、ここには、やはり、通貨に絶対的な価値を認めないといふ考へが根強く横たはつてゐます。通貨といふものは、バーチャル(仮想的、虚像的)なものであることを直感で理解してゐたのです。


現在の通貨制度に疑念も持ち、その根本を否定して改めようとする考へに対しては、とんでもないことだと言つて語気荒く批判する人や、一笑に付してこれを無視する人が殆どです。しかし、その人たちの判断は、自分の頭で世の中のことを真剣に考へたものではないはずです。人の受け売りか、「常識」といふ名の「思考停止」の産物なのです。


これまで、6回に亘つて『家産と貨幣経済』で、通貨の本質、とりわけ通貨発行権の本質についての理論経済学的考察をしてきましたので、拙稿の読者なら、現在の通貨制度が極めて危ふいものであることを感じてゐるはずです。

そのやうには感じないのは、賭博経済に心身ともに委ねてゐる人ですから無駄でせうが、もし、そのやうに少しでも感じられたのであれば、是非とも拙稿の『國體護持総論』第六章の「増補版」を通読されることをお勧めして、この稿を了することとします。


平成二十六年三月一日記す 南出喜久治


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