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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第十一回 刑罰と体罰

つみとがを おかせしものを みそぎにて しおきしてこそ みだれととのふ
(罪咎を犯せし者を禊にて仕置きしてこそ秩序乱れ整ふ)

【体罰の定義】


そもそも体罰とは何か。暴行や虐待とどう違ふのか。このことについて誰も触れずに、世間では「体罰は悪、体罰反対」と大騒ぎしてゐます。

しかし、体罰とは何かについて明確に定義しなさいと尋ねても、誰も答へないのです。つまり、マスコミも付和雷同的な浮き草世論も、体罰の定義をせずに批判してゐます。


体罰について定義すれば、それは「進歩を目的とする有形力の行使」であり、本能行動に分類されるのです。

有形力の行使には、「許されるもの」と「許されないもの」とがあり、それは目的の正当性と効果の妥当性によつて区分されます。もちろん、体罰は許された有形力の行使であつて、それ以外のものとは区別されます。


行為の目的の有無といふのは重要です。医師による医療行為の中で、たとへば外科手術が許されるのは、それが医療行為といふ正当な目的があるからです。外科手術においてメスなどを使つて患者の身体を切り裂いて執刀したが、医師の過失で患者を死に至られしめたとき、その罪名は業務上過失致死罪であり、決して殺人罪とか傷害致死罪といふことにはなりません。正当な目的があつたか否かによつて罪名まで異なるといふことです。


診察のため泣き叫ぶ子供を親が押さへ付けて医師が診察する行為は、平成12年の児童虐待防止法の「虐待」に該当するのかについて定義が定かではありません。これが勿論違ふといふのであれば、有形力の行使における「目的」によつて合法行為か違法行為かを区別すべきですが、同法にはこの定義が明確ではないのです。


また、教育の現場においても、炎天下などの状況で教師による体育指導によつて不注意にも生徒に怪我や疾病が生じたときでも、教育といふ正当行為によるものであれば、業務上過失傷害罪であつて、決して傷害罪にはなりません。ところが、桜宮高校事件のやうに、体罰とは異質の単なる「暴行罪」「傷害罪」についても、これを「体罰」だと一括りにして、体罰=暴行としてゐます。「許された行為」か「許されない行為」かについて、目的、程度、効果などによる区分をしない「無定義」で「無制限」の体罰が一人歩きしてゐるのです。



【戸塚ヨットスクール事件】


昔、戸塚ヨッスクール事件といふ、教育界における初めての「国策捜査」によつて事件が作り出されました。800人を超える情緒障害児の教育的矯正に成功した戸塚ヨットスクール校長の戸塚宏氏のこれまでの実績に嫉妬と怨嗟した教育界が、自己の教育理論の誤りを指摘されたことを逆恨みして、自己保身のために捏ち上げた事件です。

この事件は、事案の事実関係や報道のあり方もさることながら、罪名に本質的な問題がありました。


罪名は、傷害致死、監禁致死であり、業務上過失致死傷ではなかつたのです。つまり、戸塚ヨットスクールは、親から委託されて親権に属する懲戒権(体罰を含む)を代理行使してきたのでり、学校教育法の定める学校ではないので、第11条但書の体罰禁止条項の適用は受けず、その教育的矯正には正当な目的があつたのに、これを全否定したのです。戸塚校長らの行つてきたことは「教育ではない」として断罪しました。


しかし、結果的には、生徒が死んでゐます。もし、それに過失があれば業務上過失致死傷として裁かれることは当然であつて、さういふ罪名であれば戸塚校長らは甘んじてこの事件処理を受け入れたはずです。

戸塚弘長の教育の全否定は、全人格否定に等しいのです。前例で言へば、外科医の手術が障害致死罪や殺人罪に問はれ、教師が傷害罪に問はれたのと同じです。もし、そんな事件処理があれば、世間は大騒ぎしたのに、戸塚ヨットスクール事件は、メディアの情報統制によつて、この問題提起は全くなされずに、専ら事実関係の争点を指摘するだけにして、事件の本質が隠蔽されてしまつたのです。



【学校体罰と家庭体罰】


学校における体罰は、教師の懲戒権であることは認めるものの、これを行使してはならないとしてゐます(学校教育法11但書)。一般には、懲戒権としての体罰は認められるのですが、体罰に限つて教師がこれを行使することはできないとするのです。だから「但書」となつてゐるのです。「権利はあるが行使はできない」。どこかで聞いたやうな議論です。これに対し、家庭での親権者らによる体罰は認められます(民法822条)。

つまり、学校体罰は否定されますが、家庭体罰は肯定されることいふ二重基準になつてゐるのです。


しかし、素人(親権者)は許されて専門家(教師)は許されないとする科学的根拠はありません。戦前にも同様の規定がありましたが、「軍事教練」などにおける体罰は黙認され、体罰禁止の実効性はありませんでした。団体統一行動を習熟させる学校での「軍事教練」はわが国の潜在的戦闘能力を高めてきたものと分析したGHQは、わが国の弱体化のために、体罰禁止を実効性のある法律として制定させ、軍事目的は勿論のこと「教練」それ自体を禁止したのです。そして、教育委員会制度、PTA制度による教師の行動を集団で監視する制度が確立させ、教師による体罰は、父兄や生徒らからの垂れ込みを奨励して教育界からは完全に排除しようとすることになりました。まさに、「教育界における武装解除条項」が、学校教育法第11条但書なのです。


かくして、占領憲法第9条の武装解除条項で拘束されるわが国が近隣諸国から侮られ続けてゐるやうに、体罰を禁止された教師に対して、生徒がそのことを逆手に取つて暴行を振るひ、教師を追ひかけ回すやうな事態が起こり、生徒の乱暴狼藉に対して、有形力を行使して制止することを萎縮してしまふ教師ばかりとなり、学校の秩序は崩壊し続けたのです。昔は、「鞭をを振り振りチイパッパ」の「すずめの学校」でしたが、いまでは、「誰が生徒か先生か」判らない「メダカの学校」になつて、学校の秩序が崩壊したのです。



【体罰容認の科学的根拠と体罰禁止の非科学性】


前回でも述べましたが、コンラート・ローレンツは、種内攻撃が善(本能適合性)であることを、遅くとも彼がノーベル賞を受賞した昭和48年までに科学的に証明しましたが、それでも我が国においては、体罰を否定した学校教育法の体罰禁止がそのまま何らの検討もされずに漫然と現在に至るまで存続されてきました。これは、教育界の利権構造に支配された国会や政府の著しい怠慢であり、立法不作為、行政不作為による違法な状態であることが明らかです。

非科学的なものに固執することは、普遍性のない宗教その他特殊な思想に基づくものと云はざるをえないのですが、国会や政府は、その特殊で異様な新興宗教のおぞましい教義を守り続けてきたといふことになります。


そして、そのことにとどまらず、さらに、平成12年に児童虐待防止法を制定して、「虐待」を禁止しました。「虐待」は違法行為ですから禁止するのは当然といふは、そもそも刑法などで禁止されてゐるのです。ですから、この法律の目的は別のところにあつたのです。その「虐待」の概念から、「躾け」や「体罰」を除外して、これと「虐待」とを区別することをしなかつたのです。そのことによつて、「学校体罰」のみならず、本来的に許容されてゐた「家庭体罰」も「虐待」として禁止する方向で運用されることになつてしまひました。


しかし、体罰が本能原理として科学的に肯定されることは、それ以後も根拠が示されてきました。たとへば、2010年1月3日『サンディタイムズ』(英)「A smacked child is a successful child 」(叩かれた子供は成功する子供)には、親に叩かれた子共は一度も叩かれなかつた子供より、幸せで成功した人生が送れるやうになるといふことについて、ミシガン州グランドラピッズのカルバン大学のマージョリー・カンノエ心理学教授の研究が発表されましたし、脳科学者・澤口俊之のオフィシャルブログ『脳科学者はかく稽ふ』の「09/9/07 体罰の脳科学論」にも、身体の痛みなくして心の痛みの神経回路を発達させられず、心の痛みなくして協調性や同情・共感の神経回路を発達させられないことから、限定的ながらも体罰の有用性を説いてゐます。


また、ニュージーランドは、児童虐待件数が先進国中でも多かったことから、平成19年に体罰禁止法が成立し、刑法も改正され、同時に警察には些細な事例は訴追しない裁量権も与へました。ところが、平成21年8月21日の選挙管理委員会の発表によると、国民投票の結果(7/31~8/21郵送投票、投票率54%)では、体罰を容認すべきだとの意見が87.6%に上りました。多くの人の健全な感性は、まさに本能原理から生ずるものなのです。



【最高裁判所第三小法廷平成21年4月28日判決】


児童に対する有形力の行使が、教育的進歩を目的とし、かつ、家族内秩序ないしは学校内秩序を形成し維持する効果が伴なふもので、その手段と方法が相当である場合は、法的に許容された行為ものです。これには、非違行為が行はれた後において、再発防止のための制裁として課すことを本人に告知してなされる「狭義の体罰」と、非違行為を制止するためにリアルタイムで行はれる「教育的指導」を含む「広義の体罰」とがあります。


ところが、有形力の行使について、それが合法か違法の区別をすることなく、有形力の行使の一切を何でもかんでも「体罰」だと喧伝するマスコミによる洗脳の嵐が吹きすさんでをり、これまで「体罰」事件だとして報道された事件の殆どは、体罰ではなく単なる「傷害」事件でした。合理主義の思想によつて本能を悪だと決めつけ、体罰=傷害=悪といふ図式を完成させるためには、本能原理に基づく体罰の全面否定することが必要であり、これによつて合理主義の完全勝利による思想支配が確立できるからです。


体罰とは、何らかの非違行為に均衡した事後的制裁ですから、国家に刑罰があるのと同様なのです。学校でも家庭でも、これは国家の「雛形」であり、「部分社会」ですから、これらの秩序を維持するために有形力を伴ふ体罰や指導が認められなければなりません。ところが、これを全否定するのが合理主義思想ですので、体罰の行使が禁止されてゐる教師が、有形力を伴ふ教育的指導を行ふことも禁止しようとする動きが出てくるのは当然です。そして、有形力を伴ふ教師の教育的指導も禁止されてゐる体罰であると主張した訴訟が提起されましたが、これについて最高裁判所は、教師の教育的指導としての有形力の行使が認められることを次のとほり説示したのです。


「B(児童)は、休み時間に、ただだをこねる他の児童をなだめていたA(教員)の背中に覆いかぶさるようにしてその肩をもむなどしていたが、通り掛かった女子数人を他の男子と共に蹴るという悪ふざけをした上、これを注意して職員室に向かおうとしたAのでん部付近を2回にわたって蹴って逃げ出した。そこで、Aは、Bを追い掛けて捕まえ、その胸元を右手でつかんで壁に押し当て、大声で「もう、すんなよ。」と叱った(本件行為)というのである。そうすると、Aの本件行為は、児童の身体に対する有形力の行使ではあるが、他人を蹴るというBの一連の悪ふざけについて、これからはそのような悪ふざけをしないようにBを指導するために行われたものであり、悪ふざけの罰としてBに肉体的苦痛を与えるために行われたものではないことが明らかである。Aは、自分自身もBによる悪ふざけの対象となったことに立腹して本件行為を行っており、本件行為にやや穏当を欠くところがなかったとはいえないとしても、本件行為は、その目的、態様、継続時間等から判断して、教員が児童に対して行うことが許される教育的指導の範囲を逸脱するものではなく、学校教育法11条ただし書にいう体罰に該当するものではないというべきである。したがって、Aのした本件行為に違法性は認められない。」



【部分社会の法理】

部分社会の法理といふ理論があります。これは、大学や政党などのやうに独自の規範を持つ団体の内部紛争等を解決するには、その団体の自主的な判断を尊重すべきであり、裁判所が判断すべきではないといふ理論で、その判例も存在します。

この理論は、裁判所がどこまで介入して判断できるかといふことについてですが、その背景には、社会構造が重層的なもので雛形の構造になつてゐることの認識があります。家庭、社会、国家などの構造が同質であれば、国家の秩序維持に有形力の行使としての刑罰や強制力のある様々な行為が必要になつてゐるのと同様に、学校でも家庭でも秩序維持のための一定限度の有形力の行使は必要になつてきます。

有形力の行使であつても、許される行為と許されない行為があることは当然のことであり、国家による刑罰は、まさに許された有形力の行使であることに違和感を感じないのであれば、家庭や学校での体罰についても同様です。刑罰は許されて体罰を許されないと思ふのは、合理主義による二重基準の矛盾に気づかないからです。



【体罰の具体的態様】


これまで、体罰が認められるといふことを説明したのは、体罰を積極的に奨励しようとすることではありません。これは、軍備の場合と同様で、どんなことに対しても軍事力を発動することを積極的に奨励することと、軍備の必要性を説くこととは全く違ふのと同じです。これまで、構造論(ハードウエア)としての体罰が肯定できることは理解できても、これとは別に技術論(ソフトウエア)としての体罰について考へることまで議論が進みませんでした。


体罰は、年齢、性別、攻撃部位、方法、態様、時間などの一般要件と対象者の体質などの個別的要件によつて決まります。これを精緻に検討する必要があるのです。ところが、体罰の技術を最も習熟しなければならない教師について、体罰を全面禁止するために、その研究は全くされて来なかつのです。そのために、「なんとかに刃物」といふやうに、教師も体罰については素人であるために、体罰として称して単なる暴力を振るふことが起こり、世間を騒がせてゐるのです。


「狂人とは理性を失った人のことではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。」(チェスタトン)といふ言葉は重く受け止める必要があります。


親も教師も子供も、合理主義に犯されて本能が「劣化」して、本能原理による体罰の仕方が判らないのです。手加減や方法も無視して、体罰と称して行ふ単なる暴行、傷害が横行し、これが体罰なのだとしてマスコミは「反体罰キャンペーン」を展開します。

社会全体が合理主義の波に飲み込まれ、危険な場所に一切子供を近寄らせないといふやうな過保護の施策を講じてゐることから、子供は、危険とは何か、それを回避して身を守るためにはどうすればよいのかなどといふことについてトレーニングする機会がないために益々「本能の劣化」が進行します。



【むすび】

では、どうすればよいのでせうか。これを一言で言ふのは難しいですが、まづは、教師に体罰の技術の研修を一斉に行つて体罰の技術を習得させた上で、学校教育法第11条但書(体罰禁止)を削除することです。


体罰の技術について一言で言ふことはできませんが、ヒントと指針を示すことはできます。ビンタをするときは、なるべく大きな音を立て、頬に感じる痛みとともに子供に驚愕させることが必要ですが、決して痣が残らないやうにすることががコツなのです。体罰は後に残らない一過性のものでなければならないからです。


これは、禅宗の座禅における「警策」の要領です。警策とは、修行者の肩ないし背中を打つための棒を指しますが、曹洞宗では「きやうさく」、臨済宗では「けいさく」と言ひます。警策で打つことも有形力の行使ですが、誰もこれを咎めることはしません。これは、システム化された修行を目的とする有形力の行使であり、大きな音を立てて痛みを感じさせ、脳科学的に「体罰」の目的と効果を実現する方法なのです。このやうな体罰技術の類型化、マニュアル化が必要なのです。


平成二十六年九月十五日記す 南出喜久治


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