自立再生政策提言

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第二十回 自由と民主

あきなひと まつりごととを わけへだつ しくみのきしむ おとぞきこゆる
(商売(経済)と政治とを分け隔つ仕組み(構造)の軋む音ぞ聞こゆる)


「自由」といふ言葉は、古くは後漢書に出てくる言葉で、当初は勝手気ままの意味で用ゐられ、後には「自在」と同じで、心のままであることを意味しました。これに対し、「民主」は、「君主」に対比される言葉で、民が主人である意味とされます。

それぞれ、これらに「principle」の訳語である「主義」を付けて、「自由主義」、「民主主義」とし、さらに、これらを外国語の訳語に対応させて、リベラリズム(liberalism)、デモクラシー(democracy)と名付けることによつて、何となく解つたやうな気がする人が多いやうです。


しかし、実のところ、これでは何も理解できてゐないのです。原因も症状も定かでない病気に、「〇〇症候群」と名付けるだけで、現実には何の理解も深まつてゐないし、解明もできてゐないのに、何となくその病気が解つたやうな気分になるのと同じです。


そこで、自由主義と民主主義の理解について、個別的にその概念の「内包」と「外延」とを探求したところで、定義がまちまちであれば収拾がつきませんので、ここでは、一般に考へられてゐる自由主義と民主主義との概念に従つて、両者の「関係性」について考へてみます。


一般には、自由主義と民主主義とは、究極的には相反する概念として理解されてゐます。そして、どの点が相反するのかと言へば、自由主義とは、民主主義の多数決原理によつて少数者の自由が侵害されない原理であるのに対し、民主主義とは、多数決原理によつて少数者の自由を侵害する原理であるとする点なのです。少数者の自由を守るか守らないか、多数決によつて決することができるかできないか、それが分水嶺なのです。


この区別によれば、自由主義と民主主義とは、水と油の関係になり、その守備範囲と支配領域を異にして棲み分けられることになりますので、ひとつの事柄について、原則として双方が競合して適用されることはないことになります。


例へば、表現の自由などは、多数決原理によつて否定されないものです。民主主義の多数決によつて表現の自由を奪ふことはできません。

表現の自由は、伝統的に政治変革を生むものです。圧政に立ち向かふのは表現の自由であり、圧政を打倒するのも表現の自由から始まります。表現の自由は、様々な形態があり、文字、絵画、音声など五感の作用に訴へるものです。


フランス革命において、識字率の低い「第三身分」に向けて風刺画を活用してブルボン王朝の失政を批判的に伝へたことによつて、第三身分が革命の主体となつたのです。風刺画がフランス革命を成功させたと言つても過言ではないのです。

ですから、伝統的にフランスでは風刺画こそが表現の自由のシンボルとなり、異常なまでに風刺画に拘る伝統があります。ところが、そのことによつて、いまでは「風刺画」による表現がテロを誘発する現実に直面してゐます。そして、そのことによつて、表現の自由だけでなく様々な多くの自由の規制がなされ始めるといふ本末転倒の現象が起こつてゐるのです。

圧政に立ち向かつた「風刺画」の伝統が、今度は圧政を招く「風刺画」の現実を招いてしまつたのです。ここに表現の自由といふものの危うさと矛盾があります。


ともあれ、このやうな「自由」の領域における事柄とは異なり、「民主」の領域では、これとは別の原理が作用します。

たとへば、国家の公用言語は統一されてゐないとすべての国家作用に支障を来しますので、多数決原理によつて決めなければなりません。生活言語については別ですが、公用言語としてどのやうな言語を用ゐてもよいとするやうな公用言語の自由なるものは認められません。専ら慣習やそれを追認する多数決によつて統一言語が決められるのです。


ところで、表現の自由に関する事項のすべてについて多数決原理が排除されるといふ訳ではありません。表現の自由を保障するために必要となる公平かつ平等な環境整備をすることについては多数決原理で決めなければなりません。

「自由」と「民主」とが基本的には水と油の関係だからこそ、両者間の均衡と抑制が生まれて相互に補完し合ふのです。


つまり、誰でもが政治的意見などを表明できる公平かつ平等な「場」を提供することや、これにアクセスできる公平かつ平等な「方法」などを決めるには、多数決原理によらざるをえません。現代社会では、商業的なマス・メディアに言論界が支配され、特定の思想を持つた特定の言論人だけに「表現の自由」が保障されてゐるといふ極めて異常な状態になつてゐますが、これが当たり前だと刷り込まれてしまつて、これが異常だと思ふ素朴な感性が失はれてゐます。


一般人がマス・メディアに投稿したり意見を述べても、それが採用され報道されるか否かは、その商業メディアが「編集権」を盾に恣意的に決めてゐます。マス・メディアは、「知る権利」なるものを私物化し、掲載あるいは報道された特定の言論に対して、これに反対する者の「反論権」を認めません。マス・メディアには経営の自由があり編集権があるとして、言論空間を閉鎖的なものにする方向で既得権を主張し続けます。


マス・メディアは、すべての人に表現の自由があるのだから、編集の方針に異議があるのであれば別の方法で表現することは保障されてをり、決して表現の自由を侵害したことにはならないと主張します。しかし、一般の人は、これと同程度の発進力で表現できる媒体で表現する方法はないのです。


このやうな主張は、たとへば、「富者も貧者もすべての者は橋の下で生活してはならない」といふ法律が「平等」であるとするやうなものです。富者が橋の下で生活する必要はありません。しかし、貧者は橋の下で生活する必要があるのです。確かにこれはすべての人に平等に適用される法律ですが、決して「公平」ではありません。「形式的平等」は「不公平」を招くのです。


ですから、「自由主義」が保障されるためには、公平な言論環境の整備が不可欠であり、それを実現するために「民主主義」が必要となつてきます。このやうにして始めて、自由主義と民主主義とが共生するのです。


そのためには、既存の商業メディアを表現の自由に関はらない活動範囲に限定するか、あるいは、特定の言論人の既得権益を否定して、一般人のアクセスを公平に保障するための制度で運営させることなどを「民主主義」で決めることが必要になります。

本来であれば、政府が、その趣旨に沿つた公平な公営メディアを作ることです。テレビ、ラジオ、新聞などの既存の媒体ではなく、インターネットを活用した新たなマス・メディアを作ることも視野に入れる必要があります。


つまり、いまのNHK(日本放送協会)ではダメなのです。NHKは、特定の思想、特定の言論人による世論誘導を行ふことにおいて、商業メディアと同じ路線を採つてゐるからです。


放送法第87条には、NHKの解散については別に法律で定めるとの規定がありますが、未だにこの法律は制定されてゐません。これを立法化する方向の審議をすることがメディア改革の第一歩になると思ひます。


ところで、政治の意思形成に必要な表現の自由の公平さを著しく阻害してゐるのが、既存の商業主義的なマス・メディアであるのと同じやうに、経済の世界においても同じやうなことがあります。


自由主義と民主主義の関係は、政治の世界だけではなく、経済の世界にも等しく適用されるものです。しかし、現在においては、経済の世界では、「私有財産制度」と「資本主義」いふ「自由主義」だけが突出し、民主主義が入り込む余地が殆どありません。

つまり、政治と経済とは別の世界であるとして分け隔ててきたのが、これまでの歴史でした。経済の面で民主主義が適用される場面としては、証券取引所、商品取引所、為替取引などでの賭博経済の活動を促進させるための市場の運営と取引を規制するルールなど、様々な産業活動に関する規制だけでした。


「第八回 義理と人情」で述べたやうに、不条理なレントシーキング(rent-seeking)の活動によつて一部の者による富の収奪がなされ、さらには、これに加へて、トリクルダウン理論といふ経済理論による経済政策を推し進めて、格差が不可逆的なことろまで拡大してきたことを、政治が積極的に推進してきたのですが、これを是正して原状回復させようとすることは完全にタブーとなつてゐます。


「自由」と「民主」の均衡と抑制が必要なのは政治の世界だけで、経済の世界は、資本主義といふ「自由」がすべてで、「民主」は資本主義の発展を支へるためのルール作りのためだけのものとする「政経分離」の思想が支配してきました。


そして、これに異議を唱へたのが共産主義思想でした。しかし、経済の世界における「自由」を排除して「民主」だけで制度設計したために、政治もまた経済と同じやうに「自由」を否定したことによつて、政経バランスが壊れ、破綻することを余儀なくされました。


ですから、これからは、「自由」と「民主」との均衡と抑制の原理を政治の世界だけではなく、経済の世界にも統一した原理として導入する必要があります。


まづ、やらなければならないのは、家族が「家産」(家族財産)を保有して代々豊かに生活ができる程度を超える過剰な財産を国家に還元させ再配分をさせることです。これは、一言で言へば、財閥の解体です。産業としてのコングロマリットの解体ではなく、過剰な私有財産の保有に制限を設けることです。


家族主義を復活させ、家族が代々生活の糧を得るために保有する家産に対しては、相続税を含めて課税しません。このやうな家産制度などについては、『國體護持総論』の第六章について述べてゐますので一読してみてください。


ここで一番言ひたかつたのは、「第十六回 制限選挙」で述べたとほり、経済面での致命的な格差を無視して、政治面での平等を主張しても全く無意味であるといふことです。「一票の格差」を是正するといふ皮相な政治主張ではなく、経済面における「一生の格差」を是正することこそが重要なのです。政治と経済とを「経世済民」として統一的に再構築し、「自由」と「民主」の均衡と抑制の統一原理によつて、格差の少ない均衡社会を実現させることなのです。

南出喜久治(平成27年2月01日記す)


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