自立再生政策提言

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

二十一回 多数決

よのなかに おほくあるもの ねぢけびと すくなかりしは こころばせびと
(世の中に多くあるもの拗け人少なかりしは心ばせ人)


「多数決の原理」と言ふ言葉がありますが、「多数決」はどういふ意味において「原理」なのでせうか。


この場合の原理とは、科学的な真理の法則を意味する場合ではありません。ここでの意味は、取り決めといふか、ルールのことです。しかも、これによつて正しい結論や真実を発見することができるルールといふ意味でもありません。

これは、「最大多数の最大幸福」(ベンサム)といふ、功利主義による倫理観の帰結であり、真実発見の法則ではないのです。


多数者と少数者とが対立して実力闘争の事態となれば、戦闘の方法や武器の種類と人数に比例した数量などの条件が同じといふ前提の下では、一般には多数者の方が勝つであらうといふ経験則があります。

といふわけで、多数者が反対者の頭を叩き割るよりも、反対者の頭の数を数へて決着を付ける方が簡単であるといふ考へが多数決の原理の根底にあります。


どうしてそんなルールが一般的になつたかといふと、それは結局のところ「多数決」で決めたからなのです。自分自身が自分のことを正しい存在であるとした自画自賛のルールが、この多数決の原理なのです。


そして、この多数決の原理が正しいといふ、自己弁護的に勿体振つた理屈としては、多数の者が考へた結論は、少数の者の考へた結論よりも正しい可能性があるといふ仮説です。「量の多さは質の高さを推認させる」と言ひたいのでせうが、本来は質の問題と量の問題とは全く関係のない話です。


ですから、これは、歴史的にみても、決して帰納法的に証明されたものではありません。もし、多数決の原理が正しいのであれば、ずつと多数決を行つたきたこれまでの政治は、時代とともにより理想的なものに近づいて素晴らしい社会になつてゐるはずですが、今の政治が混乱の渦の中で喘ぎ、さらなる問題を増幅させてゐることからすると、むしろこの原理は間違つてゐたと言つても過言ではありません。


そのことは、我々の直感を働かせばすぐに判ることなのです。多数であることは、それが健全であつたり正しい状態であるとは限らないことを我々は経験的に知つてゐます。


たとへば、宗教の教祖は、初めから教祖として多数に認められて受け入れられたのではありません。むしろ、当初は、多数の者からの迫害に耐えてきた例が多いのです。教祖の教へに基づく宗教が大教団を形成することになるのは、教祖が死んでからといふ例は、世界でも国内でも多くあります。

「真実を語り始める者は常に少数である。」と言はれます。これは、自然科学や法律学、政治学、経済学など様々な学問の事象においてよく見られる真実なのです。


また、現代は、健康な人よりも不健康な人や病気の人の方が多い病人社会です。医療費が年々増大することは、現代医療が進歩してゐないためですが、それでも現代医療が正しいと思つてゐる多数の人によつてこれが支持されてゐます。多いことが正しいことであるのであれば、不健康な人が正常(健康)であるといふパラドックスに陥つてしまひます。


さらに、虫歯の話についても同じです。今はどうか知りませんが、私の小学校時代では、虫歯の処置歯もなく、しかも、虫歯が一本もない児童が全校で表彰されました。勿論、表彰される児童は僅かです。ほとんどは一本以上の虫歯、処置歯を持っている児童だったのです

もし、これも、多数である者が正しいのであれば、虫歯がある人の方が正常といふことになります。


虫歯は、蔗糖などの酸産生食品の摂取などの食生活全般やその人の歯質などが原因となるもので、歯磨きをするかしないかが決定的なものではありませんが、虫歯がない児童が表彰されたのは、児童に歯磨き習慣を身に付けさせるために、虫歯予防=歯磨きといふ健康政策の広告塔として利用されたからです。しかし、その当時でも、歯質のせいかも知れませんが、歯磨きを一度もしたことがないのに一本の虫歯もない子供も居たのです。


少し調べれば判ることですが、野生動物は、勿論のこと歯磨きをしてゐないのに虫歯は少ないのです。しかし、動物園に居て野生の生活を失つて人間の作つた食べ物で飼育されてゐる動物や、サハァリパークや野生動物保護区の動物、そして、家庭で飼はれてゐるペットなどは、虫歯が結構多いのが現実です。


このやうに見てくると、たとへ同じ事柄でも、状況によつて、あるいは時代の変化によつて、多数のものが少数になつたり、少数のものが多数になつたり変動するもので、永遠に「多数」であり続けることはできません。


政治の世界で政権交代が起こるのも、多数と少数とが変動する現象です。ついこの前まで多数であり正しいとされてゐたのに、今度はそれが逆転して少数となつて間違ひだとされます。


多数がずつと多数のままで居られることも少なく、また、多数の間でも二つ以上の派閥に分かれ、その多数派の中のまた多数派、さらにその内の多数派といふやうに、段々と相対的多数派が勝ち抜き的に抽出され、究極的には一人の者に権力が集中します。

このことを「少数支配の法則」と言ひますが、この政治現象は、どのやうな政治形態でも起こることであり、多数決原理が適用されてゐる否かとは無関係です。


そして、少数支配の形態には「独裁」がありますので、多数決の原理は、民主主義を信奉する人々が著しい嫌悪感や違和感を抱かずに独裁を生み出すことのできる政治システムだといふことです。たとへば、ワイマール体制が崩壊してナチズムの支配が確立し、ヒトラーの独裁を生んだのも民主主義の多数決原理からでした。まさにこの民主主義による多数決原理によつて独裁は生まれたのです。


いはゆる安保騒動のとき、このやうな民主主義の機能と独裁の形成過程を知つてか知らずか、「民主か独裁か」といふスローガンを絶叫して安保反対を唱へるデマゴークが多く居ましたが、今ではこのことを多くの人が信じ込んでしまひ、それがその後の政治的風潮を色づけ、独裁と対決し、そして、独裁を生まない政治制度が民主だと錯覚してゐる人が多くなりました。


嘘も百回言へば、本当になるといふか、多数の者が本当のやうに信じてしまふのです。世論調査の結果といふのは、その洗脳の成績表にすぎません。大勢で声を大きくして叫べば、多くの人が嘘も本当のやうに信じることになるのは、今でも歴史問題などで国内や海外において起こつてゐます。こんなポピュリズムもまた多数決原理の所産なのです。


多数決は、多数者の意見に少数者を従はせることになりますので、多数決で決着しても少数者との対立を生みます。少数者は、多数者から自分たちの頭数を数へられただけで、頭まで割られてゐないので、いつか反転攻勢できる機会を狙ひます。つまり、多数決は、事後において対立を潜在化させ長期化させます。


では、多数決を止めて、反対に「少数決」してはどうでせうか。

実際にそんな制度があります。たとへば、国連における常任理事国の「拒否権」がさうです。拒否権といふのは、国連の安全保障理事会での決議を行ふことを拒否して決議をできなくする権利のことです。つまり、これは、少数者によつて、ある事項について決議をさせない「決議」をする権利のことですから、「少数者の否決権」です。


これに対しては、常任理事国の特権を剥奪し、常任理事国のエゴを許すべきではないとの意見があり、これは国連が成立した沿革からして一理あります。つまり、少数者のエゴは許さないといふ主張です。しかし、国連の創業者である常任理事国は、国連総会がその方向に決議しようとしても、この既得権益を放棄することはないでせう。


もし、このやうに少数者が既得権益を振りかざしてエゴを主張するのであれば、これと反対に、多数者が多数決原理といふ既得権益を振りかざしてエゴを主張することが許されるのでせうか。多数者であつても、少数者であつても、エゴはエゴです。多数決といふのは、ある事項について「可決」の決議をさせる権利ですから、「多数者の可決権」のことです。


「少数者の否決権」が少数者のエゴであると批判する人は、多数者のエゴである「多数者の可決権」も批判しなければ一貫性がありません。多数者のエゴは許されるけれども、少数者のエゴは許されないといふことを主張すると、結局は、それは多数決の原理そのものです。目くそ鼻くその議論のやうに、どちらのエゴが本当のエゴであるのかを多数決で決めてみたところで、真理の探究からはかけ離れたものとなります。


それでは、対立も生まず、しかも、正しい選択をするには、どうしたらよいでせうか。その方法があるのかについては、人類の長い歴史において、未だ誰も具体的に提案してゐませんが、実はその方法があるのです。


ただ、そのことを述べる前に、そのヒントになるのは、古事記に出てくる、神々が天の安の川で会議した方法、つまり、全会一致の方法です。

多数決や、少数決では、必ず事後に対立を引き摺ります。これを生まない方法として全会一致の方法があります。しかし、神々の場合ならいざ知らず、人間の場合は、内閣の閣議決定のやうに少人数であれば可能であつても、多数の間での全会一致はなかなか難しいものです。


尤も、国会において、児童福祉とか、児童虐待防止など、言葉を聞いただけで思考停止に陥つてその運用実態の弊害に見向きもしない勉強不足の国会議員が全会一致で可決した法案はいくつもありますが、このやうなことは頻繁に起こるものではありません。

これは、あくまでも多数決原理の国会で、たまたま全会一致になつただけのことで、全会一致のルールで決議されたものではないのです。


全会一致では、確かに表面的な対立の構図はなくなります。ところが、全会一致のルールで行はれる閣議決定の場合は、反対すれば首相からは罷免されるために、首相の説得によつて反対して罷免されることを回避するために賛成する場合もありますし、多数決では抗しえないので、仕方なしに賛成するといふやうに、妥協と保身による場合もあるのです。


このやうな全会一致は、形式的なもので、結局は首相による独裁形態による決定を合議体の決定といふ形式にしてゐるだけのことです。


ですから、多数決であらうが、少数決であらうが、あるいは全会一致であろうが、言へることは、決議に至るまでの時間と内容において審議が充分に尽くされることが必要であり、天の安の川で会議が示唆してゐる点も、そのことです。


しかし、国会でも、法案審議や予算審議において、政治スキャンダルの暴露とその弁明に汲々として、そんな政争のために殆どの時間が費やされ、まともな審議をすることなく、ついには時間切れで多数決をするのは、「数こそ力なり」とする強権政治以外の何者でもありません。


また、選挙においても、現在の小選挙区制の選挙制度は、一つの選挙区で当選者が一人ですので、いはば「比較多数得票者一人勝ち制」であり、多数決制ではありません。ですから、多くの死票が出て、落選者に投票した死票の合計の方が多数者となり、当選者の得票数の方が少数者となる「変則的な少数決」の選挙制度なのです。このやうな選挙制度では、多数決原理に慣れ親しんでゐる国民が満足するはずがなく、自分の投票行動が死票となる不愉快さのためも益々棄権する者が増えてくるのです。


むしろ、昔の中選挙区制のやうに、一つの選挙区で複数の当選者を出す場合は、「比較多数得票者複数人勝ち制」ですから、当選者の得票総数は、落選者の得票総数を上回る設計の選挙制度であり、これは「変則的な多数決」なので、国民の不満は小選挙区制よりも少なかつたはずです。


このやうに、多数決、少数決、全会一致、そして、変則的な少数決、変則的な多数決、そのいづれも満足できないものですが、真に満足できる方法が一つだけあります。

それは「効用均衡理論」による政治制度なのです。これについては、『國體護持総論』の第五章及び第六章で述べてゐますが、次回以降では、徐々にこれを踏まへた具体的な話をして行くことにします。

南出喜久治(平成27年2月15日記す)


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