自立再生政策提言

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第二十二回 平等と公平

おのおのに あゆみとくらゐ たがふよは たひらかよりも やすらかなれや
(各々に歩み(経歴)と位(身分)違ふ世は平か(平等)よりも靖か(安穏)なれや)


野蛮で残酷なフランス革命(寛政元年、1789+660)は、後に「自由、平等、博愛」といふ後付けの理屈で粉飾されましたが、このスローガンには空々しいものがあります。「フラテルニテ」を「博愛(友愛)」の意味であると誤訳してゐますが、これは、宗教勢力を打倒して政教分離を実現した上で、民主主義によつて形成されたルールの下で共存する意味ですので、意訳的には「民主」と理解した方がよさそうです。フランス革命は、そのそも「博愛(友愛)」とは真逆の残酷極まりない事件であつたからです。


このやうな、着飾つた理念とは正反対の蛮行が起こつたことには、それなりの理由があります。フランス革命が起こる前年(天明9年、1788+660)までに、フランスでは大凶作と飢饉が続きました。つまり、食料難、食料危機が背景にあつたからです。


その大凶作が長く続いた遠因は、地球規模の原因によるもので、それは、我が国で起こつた天明の浅間焼けと呼ばれた浅間山大噴火(天明3年、1783+660)の噴煙が上空に舞ひ上がつて地球を巡つたことによる「日傘効果」にあつたとされてゐます。つまり、わが国で起こつた自然災害によつて、わが国のみならずフランスまで災難を及ぼしたといふことです。


確かに、フランス革命が起こつた背景事情としては、一般には、ブルボン王朝が国家財政赤字の処理の失敗など積年の失政、啓蒙思想の普及、そして第三身分(平民)の台頭などを挙げてゐますが、大凶作と飢饉が一番影響したのです。

フランス革命前の旧制度(アンシャン・レジーム)における僧侶(第一身分)と貴族(第二身分)よりも、平民(商人、職人、農民など、第三身分)が大凶作と飢饉の影響を被り、その中でも最下層に属する都市の貧困層や貧困農民などは、生活の不安と飢餓死への不安といふ最大の危機に見舞はれました。


フランスの国民の98%を占める第三身分に属する人々に、この大凶作と飢饉による人々の生活の不安を引き起こし、社会全体が不穏な状況に陥つたのです。そして、最も切実な不安と危機感のある都市の貧困層らが、翌年の7月14日に、窮鼠猫を噛むが如く、バスティーユの牢獄を襲撃し、それが全国に飛び火して暴動が拡散し、それが原因で革命が始まつたのです。


最下層の都市生活者や農民の貧困層からすれば、所得水準がそもそも低いので、貧民層間では余りあまり格差がないため、フランス革命で掲げた「平等」の意味は、専ら第三身分のうちの富裕層(都市ブルジョワジー)と貧民層との格差をなくす意味で大きな説得力がありましたが、第一身分と第二身分を引きずり下ろした富裕層(都市ブルジョワジー)からすれば、そんな思想は大迷惑な話で、それは既得権の放棄を意味するからです。

ですから、「平等」とは、階層間の対立を前提として、財産などの経済面には適用せず、政治的な「平等」を意味することとし、革命前の「三部会」の第三部に代表を出した富裕層の都市ブルジョワジーのみがその既得権を確保する「国民主権」の主体となり、貧困層を含めた「人民主権」を排除することに成功したのです。


「理屈と膏薬はどこにへでも付く」といふやうに、フランス革命に至つた表向きの理由や大義名分を美辞麗句で飾れば飾るほど、その結果の残酷さとおぞましさとのギャップが出てきます。所詮、不安に駆られた大衆が暴徒と化したことが引き金になつたもので、わが国で起こつた「打ち壊し暴動」と類似するものです。

ですから、マラーによる九月虐殺やジャコバンによる恐怖政治がフランス革命の原点と本質を投影するもので、不安にかられて起きる暴動とそれによる不信の連鎖が虐殺を生むことを示してゐるのです。


これは、わが国での百姓一揆のやうな目的を持つた組織的反抗や、非暴力的な「ええじゃないか」運動とは対極にある現象です。フランスにおける「打ち壊し暴動」が全国規模となつて破壊の限りを尽くし、そこから、大層な理屈で粉飾されて、結局は王政が打倒されたものに過ぎません。フランスが、あの邪悪なフランス革命を「パリ祭」として祝ふのも不思議ですが、もし、それを続けるのなら、その遠因となつた浅間山大噴火に思ひを馳せ、浅間詣でをすればよいでせう。


ともあれ、人は不安に駆られると、それに立ち向かふ本能行動を行ひます。自己保存本能と種族保存本能によつて、まづは食糧を求めます。貧困層ほどそれが強く働くのは当然のことです。そして、食糧の確保を妨げるものを排除しようとします。貧困層が食糧の確保をすることについて障害となるのは、食糧を独占してゐる富裕層です。そして、集団の力によつて富の偏在を強引に矯正しようとすると、それが暴動と収奪を引き起こす原因となります。


集団ではなく個別的に行ふ場合は、窃盗、強盗です。北朝鮮の極貧層は、餓死を免れるために食糧を盗むことを「窃盗」とは言はず、「生活調整」と言ひます。これは、富の再配分といふ自力救済の一種であると直感してゐる言葉だと思ひます。


ですから、生命の危機に瀕する状況にならなければ、強引に富の再配分を実行する行動に出ないのが通常ですが、人が幸せに暮らして行くためには、必要最小限度において富の再配分が行わなければなければならないと人々が感じてゐることもまた事実です。


「第十六回 制限選挙」で述べたとほり、中東の民主化運動「アラブの春」の先駆けとなつた「ジャスミン革命」を目の当たりにしたノーベル経済学賞受賞者のジョセフ・E・スティグリッツは、「1%の1%による1%のための政治」と叫びましたが、そのことから、アメリカにおいて、最上層の1%に対して「我々は99%だ」、「ウォール街を占拠せよ」といふ運動へと発展しました。

これは、形骸化した政治運動に虚しさを感じて、その元凶である経済制度に向けられた初めての運動でした。しかも、暴動ではなく、理性的に抑制された行動でした。


「ウォール街を占拠せよ」といふのは、それ自体に運動の限界があります。占拠しても賭博経済は根絶できないからです。「賭博経済を根絶せよ」ではなかつたからです。これは、幕藩体制の打倒ではなく幕藩体制内の改革を目指した大塩平八郎の乱の限界とよく似てゐます。本能行動ではなく、理念で組み立てた理性による行動だつたからです。


しかし、この99%運動は、賭博経済を全否定する運動へとは発展しませんでしたが、これは歴史的には自立再生論の実現運動の第一歩と位置づけられます。


我々が、このやうな正確な問題意識を持てば、形骸化した選挙制度における「一票の格差」といふ上辺だけの是正よりも、賭博経済によつて1%が99%を翻弄し、さらにレントシーキング(rent-seeking)といふ財閥優遇政策によつてさらに格差が拡大して出来上がつたのが現在の格差社会であること、そして、これが固定化してしまつてゐることを少しでも是正することの方が格段に重要であると気づくはずです。

富裕層と貧困層との間の「一生の格差」を是正しなければ、社会の安定と発展は継続しないことを富裕層こそ気付くはずです。


賭博経済であれば、株や不動産で得られる富の方が労働で得られる富よりも早く蓄積されるのは当然で、トマ・ピケティの

       r(資本収益率)>g(経済成長率)

といふ認識は目新しいものではありません。この不等式が固定化してゐる最大の原因は、賭博経済の拡大とレントシーキング(rent-seeking)の実態にあることを見抜いたジョセフ・E・スティグリッツの見識はまさに卓見だと思ひます。


賭博経済を容認する経済制度によつて、政治制度も法制度も機能不全に陥り、法の支配を蹂躙して、司法制度もまた賭博経済による利益誘導がなされてゐるために翻弄され続けてゐます。


「第二十回 自由と民主」で述べたやうに、政治において「平等」であることは、少なくとも参政権にあつては、選挙権も被選挙権も共に平等である必要があります。しかし、人口移動に伴つてイタチごつこのやうに「一票の格差」を是正し、これによつて形式的には選挙権が平等になつたからと言つて、「第十六回 制限選挙」で述べたとほり、被選挙権が実質的に平等でなければ意味がありません。


また、同じく「第二十回 自由と民主」で述べた、「富者も貧者もすべての者は橋の下で生活してはならない」といふ喩へと同様に、仮に、「富者(政党要件具備の政党立候補者)も貧者(それ以外の立候補者)もすべて立候補できる」といふ形式的平等が満たされてゐても、実質的には、選挙資金調達能力における経済格差、供託金没収制度、政党交付金による政党優遇、無所属等では重複立候補ができないことなど差別があるのに、それでもこれらの差別は不合理なものではないとして形式的には平等であると強弁したところで、実質的には著しい不公平があることは明らかなのです。


生活保護制度や年金、保険などの経済的なセーフティー・ネットがあるのであれば、民主主義の根幹を支へる選挙制度において、「立候補者保護制度」があつてもよささうです。といふよりも、何でも金銭で矛盾を解決しようとするのではなく、もつと選挙制度を公平にできないものでせうか。


「平等」、「平等」と連呼する言葉の響きには、なんとなく虚無感があります。空々しいのです。人は生まれながらにして平等ではありません。これを無理矢理に平等にするのではなく、それぞれの異なつた立場の者が公平感を抱けて不満の少ない安穏とした社会にしたいものです。そのためには、効用均衡理論に基づいて改革する必要があり、その具体的な政策を推進することによつて必ずそれが実現するのです。


南出喜久治(平成27年3月1日記す)


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