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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第二十五回 羊羹方式 その二

ふたりして わけへだてなく わけあふは ひとりがわけて ほかがえりすぐ
(二人して別け隔てなく別け合ふは一人が別けて他が選りすぐ)


(承前)

効用均衡理論の説明のために前回の「おさなこころ(幼心地)」の「その六 飴だま」で引用した新美南吉の童話は、飴だまを割ることを、おさむらいさんがしてくれましたが、人の手を煩はさなくても自分たちにできる方法があります。それが羊羹方式です。


それは、羊羹を半分づつにして、羊羹好きの二人の子供が等分に「おやつ」を分ける場合を例にとる方法です。

「飴だま」の話のやうに、子供たちのどちらかに半分に切らせるのではなく、その親が羊羹を半分に切り、その切り手の判断で、それぞれの子供に対して、半分に切つて二つになつた羊羹を一つづつ分け与へたとしても、羊羹の切り方で量の多い方と少ない方が生じることから、その多い少ないの喧嘩になります。


親も、どちらかの子供を依怙贔屓したりして必ずしも公平であるとは限りませんし、依怙贔屓といふのは一過性のものではなく、ずつと続くものですから、依怙贔屓されない子供は、このやうな分け方は不公平だといふ不満が生まれてしまひます。


ですから、この不満と不公平感を解消するには、親が、二人の子供にジャンケンやクジ引き、あるいは、町内会の人の投票で決めてもらひ、いづれか一方の子供に羊羹を半分に切る権利を与へ、他の子供には、その羊羹がどのやうに切られるのかを検分させ、切られた羊羹のいづれか好きな方を優先的に選択しうる権利を与へることにするのです。

このやうにすれば、その兄弟の長幼・性別を問はず、その役割と権限を随時に交替変更しうることになり、その後の羊羹の分配の公平公正が保たれることになります。


羊羹を切る方は、一見して大小が解るやうに切れば、大きい方を他方が選択してしまふから、できる限り真半分に切らうとします。そこに、欲望の動機によつて結果的には公平が実現できる「欲望の均衡」といふ智恵があります。


「ミニマックス理論」(ノイマンとモルゲンシュテルンの理論)といふものがあつて、ゼロサムケーム(プレーヤーの損得の合計が相殺してゼロになるゲーム)においては、勝たうとするよりも、まづ負けないやうにすることを重視し、一人がケーキを切つて、もう一人が先に選ぶといふ方法を選択することがあります。しかし、これは、ゲーム理論であり、羊羹方式と似てゐますが、羊羹理論は、効用均衡理論として構成されたもので、趣旨が異なります。


多数者が少数者を支配する多数決原理では、多数決で決定したり、選挙で勝つた多数者の政治的な効用(満足度)は100%であるのに対し、多数決や選挙で敗れ、死票を投じた少数者の効用(満足度)は0%となり、オール・オア・ナッシングであつて、これでは余りにも極端で、両者の効用(満足度)の格差は著しいものがあります。

そのためには、この羊羹方式を政治に活用して、多数者と少数者との効用(満足度)の不公平を是正する必要があるのです。


これによつてこそ法(正義)の支配の実効性を担保しうるのです。羊羹を切る権限を与へられたいづれか一方(切り手)の子供は、その権限(統治権)を選挙で勝つて獲得した「多数者」であり、他方の子供は、その選挙で敗れた「少数者」に喩へることができます。

多数者が選挙で勝てば、その当選者が権力(統治権)を得て国政に参加できますが、死票を投じて敗れた少数者は全くその権限が与へられないのが、これまでの多数決原理による民主主義でした。


しかし、敗れた少数者に多数者と同じ権限を与へることは、多数決原理を全否定することになりますので不可能です。てすから、少数者には、多数者に与へられる政治的な効用(満足度)以外の別の効用を与へて、多数者と少数者との異次元(異質)の効用による均衡(異次元の均衡)を図るのです。これが効用均衡理論の骨子です。


そこで、少数者には、多数者に与へられた「統治権」(執行権)に対する「監察権」を付与することによつて、多数者による統治の不正、不備を監察して是正させることができ、また、政治腐敗を防止することができる上に、これによつて少数者の効用が生まれることになり、両者間の効用が均衡します。


商法(会社法)の場合、法人の不正腐敗浄化のための機関である監査人(監査役、会計監査人など)の権限が及ぶ監査対象については、法人の資本等の規模による分類によつて、「会計監査」のみならず「業務監査」にまで及んだりしますが、国家の場合では、監察対象は「会計」のみであつて、それは歴史的には「会計検査院」などの名称の監察機関に委ねられてゐます。

しかし、このやうな会計監察機関は、比較的規模の小さな国家や、いはゆる「小さな政府」の国家には妥当しても、予算規模と行政権限が福祉等にまで拡大した「大きな政府」については、充分な機能を果たせません。


ふたりの子どもは、りょうほうからせがみました。飴だまは一つしかないので、お母さんはこまってしまいました。
「いいこたちだから待っておいで、向こうへついたら買ってあげるからね。」
といってきかせても、子どもたちは、ちょうだいよオ、ちょうだいよオ、とだだをこねました。

機能が充分でない最大の理由は、商法(会社法)の監査人の場合でも、国家の会計検査院の場合でも、いづれも多数者がその人事権を持つてゐるので、統治権と監察権の双方を多数者が掌握し、一人勝ちの状態です。


多数者の統治権の適正さについて、同じく多数者から選任された監察権者が監察することは、部下(被任命者)が上司(任命者)を監督することになつて、充分な監察は不可能です。むしろ、これまで、会社でも国家でも、会計の不正、執行の不正は、殆どが匿名の内部告発や外部からの調査で発覚したものであり、多数者に任命された観察者が摘発した例は殆どないことからしても、このやうな制度は全く機能しないものてあつて、そのために、長期政権の政治腐敗が起きてきたのです。


ジョン・アクトンの「Power tends to corrupt, and absolute power corrupts absolutely.(「権力は腐敗する、専制的権力は徹底的に腐敗する」)」という至言を残しましたが、腐敗するのは専制的権力だけではなく、長期に亘つて継続する政権もまた、監察の機能停止を招いて腐敗するのです。


会計の不正は、予算執行の不正であり、これは当然に監察の対象になりますが、予算執行だけでなく、執行業務の適正さについて監察の対象としなければ政治腐敗は防げません。会社も国家も、会計と業務の双方を監査(監察)範囲とすることは必須なのです。


では、どうすれば、具体的にこのやうな制度が導入できるかといふと、それは選挙制度の見直しから始めることになります。


まづ、第一に、死票率を少なくする選挙制度にする必要があります。そのために、現行の小選挙区制から以前の中選挙区制に戻ることです。最優先課題として、死票を減らさなければ、選挙によつて正確な「民意」を投影させることができないからです。


その上で、国政、地方を問はず、各議員選挙等において、二種類の立候補者を受け付けることです。一つは、これまで同様の、議員に立候補する者です。そして、もう一種は、観察者(観察員)に立候補する者です。これこそ、重複立候補しても構ひません。

その場合、議員に当選すれば議員資格を得ますが、観察員にはなれません。また、議員に落選すれば、観察員になる資格を得ます。議員にだけ、あるいは観察員にだけに立候補することもできます。


有権者は、投票所において、支持する議員候補者と観察員候補者の名前をそれぞれ書いて投票します。そして、その議員が当選すれば観察員への投票は無効となります。また、逆に、議員候補者が落選すれば観察員候補者への投票が有効となります。


議員選挙については、これまでと同様ですが、得票数が多い者の順で当選者となります。そして、観察員選挙については、落選した議員候補者に投票した者が監察員選挙の立候補者に投票した票のみを集計して、その得票数の多い者から数名の観察員当選者を決めるのです。投票事務としては、このやうな選別は容易です。1枚の投票用紙に、議員候補者と観察員候補者の双方を記載すれば、処理することに大きな手間は要りません。


つまり、観察員選挙では、議員選挙で死票になつた者だけの「少数者の多数決」で観察員が決まるのです。観察員の当選者数は、監察員としての事務量との関係で決まりますが、それほど多い人数は必要ないと思はれます。

これは、まるで「ゾンビ選挙」ではないかと揶揄されさうですが、それで効用均衡は保たれるのです。多数者は、議員当選者を選出して満足し、少数者は、議員当選者を出すことはできなかつたものの監察員当選者を選出して満足を得ます。


しかし、監察員選挙でも死票は出ます。それは、議員当選者も選出できず、監察員選挙でも当選者を選出できなかつた場合は死票となりますが、その死票率は、極めて小さいものになります。


このやうにして、この効用均衡理論の具体的な実践については、技術的な見地の考察もふまへて、一定の擬制的取扱ひも必要となるでせう。

これは、いはば、「多数決による執行権」の決定と、「少数決(少数者の多数決)による監察権」の決定といふ二つの決定を行つて、執行権と監察権との「権限別代表制」とも言ふべき制度なのです。これにより、死票率を極小化し、多数者と少数者の効用を均衡させて、政治腐敗を防止することに寄与することになるのです。

南出喜久治(平成27年4月15日記す)


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