自立再生政策提言

トップページ > 自立再生論02目次 > H27.05.16 連載:第二十七回 焼き魚方式 その二【続・祭祀の道】編

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第二十七回 焼き魚方式 その二

めうへには ほまれあたへて めしたには たからあたふは うしはくしくみ
(目上には誉与へて目下には宝与ふは領く(統治)仕組み
 まつりごと あづかりまうす つかさには たからあたへず ほまれあたへよ
(政関白官(権力者)には報酬与へず名誉与へよ)


(承前)


アメリカでは、局長以上については、スポイルズ・システム(spoils system)を採用し、政権交代毎に各省庁の局長級は大統領が任命してゐます。これは「猟官制」です。、大統領に媚びを売ることに長けてゐる失職中の者が突然に局長に採用されることを可能にする制度ですから、まさに猟官、買官の制度なのです。

これも「功と官と相配し」といふことですから、その弊害は顕著です。


これに対し、我が国は、キャリア・システム(career system)を採用し、終身職制に近い制度ですから、政権交代によつて局長級が更迭されることはありません。しかし、官僚がその仕事をキャリア(生涯の仕事)と自覚したとしても、それだけでは高い「徳」が生まれることはありません。


その昔、商家では店主(主人)が番頭に据ゑる者を選ぶについては、主人が多くの手代に長きに亘つて修行させ教育を施し、それぞれの手代の器量を判断し、その中で人徳が高く統率力があり才覚に秀でた手代を番頭株に選んで、さらに修養を積ませて番頭とします。このやうな方法で商家の身代を守つてきたのです。その徳の高さは、ときには主人を上回ることもありました。


しかし、キャリア・システムの官僚制にはこれに代はるものがありません。局長以上の者の選任を任意に内閣に委ねるとすれば、それはアメリカの猟官制と同じとなつてしまひます。

そこで、「徳と官と相配し」を実現するだけの何らかの公平、公正な制度が必要となります。それが、たとへば、前回述べた「焼き魚方式」による適用例の一つとされる「俸給半減制度」です。


これを具体的な制度として完成させるについて、さらに詳細な検討を必要としますが、ここではその考へ方の骨子を示すこととします。


キャリア・システムであれば、一般には、局長級まで勤めた者には、年齡とともに生活は安定し蓄へもできるはずですから、俸給が半額になつても大きな影響はありません。もし、半額になることで影響があるとすれば、局長に就任することを辞退すればよいだけです。そして、局長以上となる複数の資格者の中から局長以上の役職を志願する者を募り、その中から内閣が選任した審査官による審査選定をして任命するといふ「志願選定制度」を導入します。さうすれば、猟官制の弊害がなく、また、専門性の維持と機密の保持ができて、しかも、内閣の官僚に対する統制が蘇ることになります。


そもそも、官僚制については、その功罪が相半ばすることがこれまで論じられてきましたし、特にその弊害について強調されてきました。そして、その弊害の最たるものは、官僚による政治支配でした。これは、キャリア・システムにより、官僚は長期に亘つて不変であるのに対し、議院内閣制を支へる政治家は選挙によつて淘汰されて短期に変移するものであることと、内閣には局長以上の人事権が実質的に存在しない(行使し得ない)ことにあります。


そのために、議院内閣制による政治家が行ふ行政ではなく、官僚制による行政がなされることになりました。官僚による政治家の支配です。

行政情報を独占した専門知識集団である官僚は、その情報と専門知識のない素人の内閣(政治家)を支配します。情報もコントロールされて、内閣は官僚の意のままに動くことになります。


これを打破するために、スポイルズ・システムも検討されましたが、これまで行政経験のない失職中の素人が局長に就任すること自体がまさに買官であり、これでは省庁の事務を掌握できずに行政が停滞するなど、その制度のさらなる弊害も懸念されて、これが採用されずに今日に至つてゐます。


つまり、官僚制と代議制の関係において、行政権力が肥大化し、立法国家から行政国家へと変質した現代政治の傾向は、国会から内閣へ支配権限が移行したといふことではなく、キャリア・システム下の議院内閣制支配は、官僚制支配を必然的に発生させたといふことです。


しかし、効用均衡理論によるこのやうな制度を導入すれば、その弊害は除去できます。そして、そのことを自覚して局長に就任した者(番頭)には、人事権、決裁権その他の権限が付与されることによる「効用の増加」と、俸給の減額による「効用の減少」によつて均衡が生まれます。また、局長の側近者(手代)には、局長の権限と指示に従ふといふこれまで通りの「低い効用」と局長よりも高い俸給を得てゐるといふ「高い効用」とが均衡することになります。


人には、物欲、権勢欲、名誉欲などがありますが、年功を積むことによつて、これらのすべてを手に入れることができるのが現代社会です。これが腐敗を生む構造です。物欲を満たすか、あるいは権勢欲又は名誉欲を満たすか、といふ二者択一にすれば、効用の均衡が実現するのです。


いはば、「欲望と欲望の均衡」、「欲望と恐怖の均衡」です。そして、このやうにして局長以上になつた者には、「お頭の部分」を配膳された番頭といふ重責を担ふことの自覚が生まれ、それが高い「徳」への昇華を促すに至るのです。


このやうに、「羊羹方式」と「燒き魚方式」を活用した権限分配、効用均衡の原理は、具体的に様々な分野で応用され、その汎用性は高いものです。


人は、欲望を満たせばそれに馴致し、さらなる欲望を求めます。物欲、名誉欲、権勢欲、権力欲など、社会的地位を確立して行けば行くほど、その欲望は質も量も際限なく広がるのが人の常です。

しかし、「奢る者は心常に貧し」(譚子化書)といふ諺があるとほり、このやうな方向は、「恒心」を失ひます。そして、「人ヲ玩ベバ徳ヲ失ヒ、物ヲ玩ベバ志ヲ喪フ(玩人失德、玩物喪志)」(書経)といふ言葉もあり、これは「功」の欲望が「徳」を失ふ原因となることを説いてゐるのです。つまり、これは、欲望を際限なく追求することが個体の破滅に至ることから、それを抑制するといふ本能の指令があることを意味します。そして、これを抑制し「徳」を高めることが、それ以上の「欲望」(快楽)であることをも意味します。


つまり、効用均衡理論といふのは、「本能の原理」なのです。「欲望や快楽を求めてはならない。」といふやうな禁欲主義を説いても、それが一部の者に受け入れられるだけで、社会全体としては実現不可能です。欲望や快楽は本能の機能から生まれるもので、これを無くすことは生命を絶つに等しいのです。かと云つて、それを野放しにすることが却つて身の破滅となることも本能に組み込まれた智恵なのです。本能を善として受け入れ、本能の智恵に学ばねばなのません。


集団の秩序を維持するための、強者が弱者を支配し序列化することが必要になります。いはば、親分と子分の関係ができて、集団の秩序が形成されるのです。「誰が生徒か先生か」判らない「メダカの学校」では秩序破壊、学級崩壊となります。ですから、「鞭を振り振りチイパッパ」といふ「スズメの学校」でなければ秩序が維持できないのと同じです。


かうして、強者は弱者に対する「権勢本能」を満たし、弱者は強者に対して「従属本能」を満たすことによつて秩序は形成され、権勢を得た強者は、従属した弱者に保護を与へ、弱者は強者に保護を求めるといふ本能の機能と原理は、まさに効用均衡理論で説明ができるのです。


 「欲望の均衡による徳性の向上」によつて個体を維持し集団の秩序を維持する機能は、個体に備はつた本能であり、このことは、家族、集落、部族、種族、そして、民族、国家及び世界に共通した秩序維持本能の働きなのです。

しかし、本能の機能ではあつても、それを現実的、具体的に実現させるためには、規範を定立して計画を実施する必要があります。規範を定立するのも秩序維持本能によるものなのです。


ところが、現在までの法制度は、このやうな理念で定立されたものではありません。強者の論理でのみ定立され、「靜脈思考」がなかつたためです。それゆゑ、効用の均衡、欲望の均衡といふ本能原理が制度として確立されてゐなかつたのです。

稀少な例としては、民法において、選択債権における「選択権の移転」に関する規定(第408条)などが存在するだけでした。


この効用均衡理論による秩序維持を国家において導入するには、国会議員、省庁官僚、裁判官などのすべての国家公務員のみならず、地方公共団体のすべて地方公務員にも適用されなければなりません。そして、そのことは、国家のみならず、民間の会社や団体などのすべてについても同じであり、そのことが全体としての国家と社会の安定を約束するのです。極小から極大に至るまでのフラクタル構造(雛形構造)こそが国家の安定した構造であり、それは世界についても同様なのです。

南出喜久治(平成27年5月16日記す)


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