自立再生政策提言

トップページ > 自立再生論02目次 > H27.08.15 連載:第三十三回 方向貿易理論 その六【続・祭祀の道】編

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第三十三回 方向貿易理論 その六

かきつけも てがたもふだも なにせむに たのみにまさる しななからめや
(書付(債権証書)も手形(債権証券)も札(物品証券)も何為むに田の実(穀物)に勝る商品なからめや)


(承前)


賭博経済によつて、経済が無限大の方向に拡大してゐることが将来の破綻を招くことは判つてはゐても、それが止まつたり減速したりすると、たちどころに世界の多くの人々の生活に悪い影響が出てくるのではないかとの心配があります。

勿論そのとほりです。もし、急激に大きな変化が起こるとなると、予想外の影響がでることは当然だからです。しかし、全く心配は要りません。そのことについて今回はお話します。


そもそも、賭博経済は、掛け声一つで止まつたり減速したりする柔な体制ではありません。徹底した分業体制によつてこれ以上細分化できないまで分業が進み、その各分業を支へる膨大な数の企業とその活動のコンダクターを金融資本が担つてゐますので、その方向性に竿を刺すことなど至難の業です。


そんなことよりも、どのやうにしてこの方向を転換して行けるのかの方を心配する必要があります。そもそも、自立再生論といふ理論は、方向貿易理論などにより、賭博経済によつて日陰に押しやられた産業部門の成長を推進し、賭博経済が停滞する分に肩代はりすることになるので、経済成長にブレーキをかける理論ではありません。むしろ、ある意味では賭博経済以上に無限大の成長を目指すものなのです。


これまでの商品経済の発達は、分業体制によつて支へられてきました。分業体制といふのは、たとへば、自給自足によりこれまでなにもかも1人で生産してきた仕事の工程を限りなく細分化し、複数の者でこれを専門的に分担して生産することによつて、生産の効率を高めて経済の規模を無限大に拡大してきた方法です。


分業化体制を際限なく推進すると、細分化された仕事の部分だけで得た知識と技能だけでは、その分業体制全体から離れて独自にこれを活かすことが不可能になります。つまり、分業体制とは、いはば、潰しの効かない仕事を大量生産するシステムですから、これに従事する人の不安は増幅し、社会全体が不安社会になつて行くのです。

ですから、その不安を解消するには、少しでも自給自足への方向に收束して、いま置かれてゐ分業部門を少しずつでも統合し、商品(財、サービス)の全体像が把握できるやうにすることです。そして、これを「分業」に対抗するものとして、「合業」(統業)と名付けます。そして、このことについて以下に述べたいと思ひます。


その前に、これまで分業体制が正しいと思ひ込まされてきたカラクリについての説明から始めます。それは、現在もなほ、分業による事業体数を無限大方向に増やすことが経済成長だと信じ込ませて騙す道具が使はれてゐるからです。それがGDP(国内総生産)の数値です。

経済規模をGDP(国内総生産)の数値で比較し、経済成長をGDPの伸び率で測定しうるとしてゐますが、しかし、こんなものは経済の指標として見るだけの価値がありません。これは「分業化規模指数」の意味しかありません。その理由を少し説明します。


まづ、企業の自家消費分を機会費用(opportunity cost)としてGDPの計算に入れてゐますが、消費主体の家計(家族)が自家生産して自家消費する分は加算されません。たとへば、第一次産業に分類される活動をする家族が、自らが収穫し、あるいは漁獲した物などを常に自家消費するだけで、外に出荷しないときは、この家族は企業として認識されませんから、その自家生産分(自家消費分)はGDPには加算されないのです。さうすると、このやうな自作家族が增加すればするほど、GDPは低くなります。しかし、自作家族が増える方向は食糧安保の視点からも健全な方向なのです。これこそが経済成長として認識されるべきですが、GDPの数値的にはマイナスになります。


また、GDPの数値は、分業体制が深化すればするほど大きくなります。たとへば、自分で歩いて買ひ物をすれば済むものを、わざわざ委託業者に依頼してタクシーを使はせて買ひ物をさせたとします。買ひ物をする人は同じ物しか得られないのに、業者に支払ふ手数料とタクシー代金を払ふことで時間と手間が省けるなどと怠け者の論理で分業を進めて行けば行くほどGDPは増えます。つまり、委託業者に支払ふ手数料とタクシー運転手に支払ふタクシー代金の費用が付加価値として加算されてGDPが増えるのです。


つまり、無駄をすればするほどGDPは大きくなるといふことです。たとへば、更地に建物を建築し、それを直ぐに解体し、さらにまた新しい建物を建築したものをまた解体して更地に戻したとします。結局は建物を使はずに解体して更地の状態にしてしまふやうな資源の無駄遣ひは断固として批判されなければなりません。ところが、こんな無駄をすればするほどGDPは増えるのです。2回分の建築費用と2回分の解体費用がかかり、その支出がすべてGDPに加算されて、GDPは膨れ上がります。

何もしなければ流通財の価値に増減は起こりませんが、こんな無駄をすれば、多くの流通財が滅失、消費されて経済的損失を被つてゐるのに、GDPは増加するのです。

会計学では、貸借対照表によつて示される企業の「一時点」における「財政状態」と、損益計算書によつて示される企業の「一会計期間」における「経営成績」とによつて企業活動の実態を観測します。そして、これと同様に、経済学においても、ある「一時点」で認識される経済量(ストック)と、「一定期間」内での経済量(フロー)とによつて経済活動の実態を観測します。ところが、このストックの視点でも、フローの視点でも、無駄をすればするほど名目上の経済量は増大しますが、これは実質的には、限りある資源や財貨が減少して損失を生じることであり、実質的な経済評価としてはマイナスとなるはずです。ところが、GDPといふフローの視点による観測では、無駄をすればするほど、その実質的な損失のすべてをプラスとして捉へることになります。つまり、マイナス(-)を絶対値(absolute value)で認識してプラス(+)として認識するといふ詐欺的な「からくり」が用ゐられてゐるのです。まさに、「得は得、損も得」とするペテン師の論理です。そんなものが経済規模や経済成長のモノサシだと偽つて、その規模と延び率にうつつを抜かすこと自体が噴飯ものなのです。


このやうに、GDP至上主義者は、企業は生産者、家計は消費者といふ二分法で分業体制が深化すればするほどGDPの数値が延びることから、それに拍車を掛けるために、過剰消費と無駄遣ひを煽ります。不道德極まりないことです。経済学者や経済評論家などの経済学と称するもので商売をしてゐる「経済学業者」の中で、質素倹約を学説上で奨励して人の道を説く人を見たことも聞いたこともありません。居たとすればそれは偽善者です。経済学業者は、すべて背徳の人達であると言つて過言ではありません。

また、人々が今後の経済の不安を抱いてゐることを逆手に取つて、現時点での経済問題の解決策といふか、実際は、個々に利殖の方法などを指南する講演や出版物などで講釈して商売をしてゐます。

これまでの埃にまみれた陳腐な経済学的知識ともいふべき売れ残りの在庫知識の中から不良品の理論を取り出して来て、それを角度を変へたり並べ替へて見たりして、いかにも新しいことであるかのやうに、ジャーゴン(jargon)を用ゐて誤魔化すだけで、何らの解決策も示せません。羊頭狗肉どころか、羊頭を掲げて何も売らない(売れない)羊頭不買の詐欺師達です。人の不安に託けて人心を惑はして商売を続けるだけです。経済学は、まさに「不安産業」に従事する経済学業者が人を騙すための道具(tool)と化してしまつたのです。


繰り返し述べますが、分業体制によつて細分化された「分業」方向の活動は、無駄を増やし、過剰消費を煽る不道徳な方法です。こんな方法を続けて行つて、人類が幸福になるはずがありません。ですから、その意味でも、質素倹約を旨として適正な生産と消費による節度ある生活をするためには、これまでとは逆方向が正しいし、それが本能原理に適つてゐるのです。

その逆方向とは、自給自足のために「合業(統合)」へと転換させる方向なのです。


これまでは、分業体制の下で、大量生産のために生産規模を拡大して規模効果(スケール・メリット)と生産効率を高めて収益性を向上させる「規模の経済」の方向でした。このやうな方式を進めて行くことは、需要が拡大し続ける時代には意味がありましたが、現在のやうに消費需要が低迷してゐる時代(消費不況時代)ではこの方式で生産を拡大させても需要が増えることはありません。需要が飽和状態になつて頭打ちしてゐるので、過剰消費を煽つて衝動買ひをさせてみたところで自づと限界があります。需要と供給が均衡を保つてゐる状態が、そんな簡単に変動することはないのです。


ところで、需要面(demand-side)と供給面(supply-side)のどちらを重視して経済を捉へるべきかといふ視点の対立は古くからありました。この対立は、「供給はそれ自身が需要を創造する」といふ言葉で語られるセイの法則(say's law)に対し、ケインズが、これとは逆に、需要が供給を作り出すと主張したことに始まります。

ケインズは、需要面を重視し、政府支出によつて有効需要を増やす政策を提唱したのに対して、反ケインズ主義の急先鋒であるフリードマンは、供給面を重視し、減税や政府支出の削減と規制緩和をすれば供給量が増えると提唱する新自由主義(neo-liberalism)に立ちました。


しかし、こんな議論は、所詮、現在の分業体制と金融資本の肯定した前提で組み立てられた理論であつて、これらを否定する方向を検討する立場からすれば、何の参考にもなりません。もつとも、需要と供給の基本的な視点から言へば、需要面を重視するのは当たり前で、需要がないのに供給を先行させることは、押し売り方式で経済が成り立つてゐるとするに等しいものです。既に生産された供給量に見合ふ需要量を作らうといふことは、過剰生産、過剰消費を煽るものとして到底容認できません。


経済が成長するといふのは、適正な需要が増え続ける状態のことです。そして、その需要に見合つた供給量を提供させればよいのです。その有効需要を増やすことが経済成長であるといふのであれば、飛躍的に経済成長をさせる方法があるのです。

その方法とは、分業から統業(合業)へと転換させる法整備とその政策を実施することです。これを行へば、産業が大転換する契機となり、これまでの分業方向での技術革新から統業(合業)のための技術開発や新製品の製造などのイノベーションが起こります。


たとへば、野外、室外は勿論のこと室内でも作れる家庭用農作物の栽培技術、食物残渣及び屎尿の家庭用堆肥化技術、貯蔵雨水の改質技術などによる自家処理を義務付ければ、自づと大きな需要(内需)が生まれます。

分業から統業(合業)への方向転換は、スケールメリットによる効率と生産性は低下しますが、これに補完するやうに、新たに別の大きな内需が生まれ、これに対応する新たな供給のための産業が振興し雇用が創出されるのです。

これこそが経済成長の原動力となります。これことが、統業(合業)方向による新たな内需を無限大に拡大させて行く成長モデルなのです。


南出喜久治(平成27年8月15日記す)


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