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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第四十二回 おかげさま

おやかみの こころといのち うけつぎて おかげさまにて いくるさきはひ
(祖神の心と命受け継ぎて御陰様にて生くる幸ひ)


皇統は、血統と霊統とが注連縄のやうに二重らせん構造を保つて連綿と続くものです。


皇統の血統とは、イザナギノミコト→スサノヲノミコト→アメノオシホミミノミコト→ニニギノミコト→ホヲリノミコト→ウガヤフキアヘズノミコト→カムヤマトイハレヒコノスメラミコト(神武天皇)といふ男系男子の血統のことです。


そして、皇統の霊統とは、アマテラスオホミカミとスサノヲノミコトによるヤサカニノイホツミスマル(八坂瓊五百箇御統)のウケヒ(誓約)の霊統のことです。


血統は、論理で理解できる世界ですが、霊統は、直観でなければ理解できない世界です。


数学などにおいて、直観か論理か、そのいづれを認識の基礎とするかによつて直観主義と論理主義とが対立してゐます。特に数学基礎論にあつては、数学を論理学の一部と見るか、あるいは論理が数学的直観によつて帰納されるのか、といふことなのです。これは、数学の体系を構築するにおいて、いづれかの選択が必要とされるためです。しかし、この対立自体が論理世界の土俵における論争に過ぎないと言へます。


論理の世界を突き詰めて行けば、直観が得られやすいこともありますが、論理とは全く無関係に直観による認識が生まれることもあります。論理と直観とは、そのいづれを採るかといふやうな二者択一の関係ではありません。

通常は、論理世界(理性世界)を棄てて直観世界に入るのではなく、論理を突き詰めて行つた結果、その限界状況で直観が生まれるものです。そして、論理の彼方に得られた直観の認識も、再び論理の中に組み込まれ、また新たなる直観が得られる基礎となるのです。。


たとへば、祭祀を理解するのは、まづは理性によるものです。両親、またその両親、そしてそのまた両親へと思ひをはせると、祖先から連綿として命を受け継いできたといふ世界が理解できます。これは理性による理解ですが、そのやうに理解できるのは、自己保存本能よりもさらに上位の本能である家族維持本能、秩序維持本能、種族保存本能や共同体防衛本能、そして祖国愛へとつながる本能の序列を備へてゐるから、そのやうな思考回路で考へることができるのです。さうすれば、祖先に対し、そのかたじけなさ、ありがたさといふ感謝の心が生まれ、それが祭祀の原点です。


祭祀は、人が自然に受け入れることのできるものです。感謝から始まるものが信仰世界の王道です。

しかし、宗教の多くは、「感謝」を説いて信者を獲得するよりも、「恐怖」を説いて信者を獲得し、ここから離れることをさせないやうにします。

「天国」とか「極楽」とかを説くのは、「地獄」の「恐怖」を際立てさせるためです。その落差が大きければ大きいほど、恐怖は深まります。ですから、盛んに地獄の恐怖を説いて信者を集めます。その宗教を捨てたり団体から離れさせないために「恐怖」を説くのです。これは、組織防衛の常套手段です。


宗教は人を殺します。その指に留まらない者は、異教徒としてすべて殺せと教へたり、信仰のために命を捨てろと命じます。そんな教へが人類を救へるはずがありません。


しかし、祭祀は人を殺しません。人を救ふのです。すべての人が祭祀を取り戻すことによつて世界の平和が実現するのです。


ところで、その祭祀の意味を理解するだけで終はつてしまふ人が居ます。直ちに実践することが行動原理を司る本能によるものですが、理解はしてもその実践をしない人は、その本能が劣化してゐると言へます。知行合一とは本能原理を説いたものだからです。


この祭祀を実践してゐると、さらなる高次の直観を生む環境が整つてきます。これを繰り返することによつて、人は進歩するのです。つまり、理性と直観とが注連縄のやうに、ともに補強し合つて進歩するのです。


この論理と直観も、皇統における血統と霊統の関係と同様に、注連縄のやうな二重らせん構造の関係です。DMAの二重らせん構造は、イザナギノミコトとイザナミノミコトがオノコロシマ(自転島=地球)に立てた天御柱を回つて国生みをする姿の雛形です。

このやうに、大宇宙から微小世界に至るまで、重層的に連続したフラクタル構造になつてゐます。


私たちも、祖先からの血統(氏神、ウジガミ)によつて命を受け継ぎ、自然の恵みや共同体を守つていただいた英霊(産土神、ウブスナガミ)に守られて、今日があります。氏神(血統)と産土神(霊統)で生かされてゐるのです。

これもまた御先祖様と英霊の「おかげ」です。


物事とは、「もの(物、者)」と「こと(事、言)」ですが、これには、いろいろあります。つまり、「おもて」と「うら」と「おく(おき)」と「かげ」があるのです。これによつて物事の立体構造が見えてきます。

「おもて(表)」は見える物事、「うら(心、裏)」は見えない物事、「おく(奥)やおき(沖)」は遠くに見えるか見えないかの物事、そして、「かげ(陰)」は常に付いて回る物事です。


このうち、「かげ」だけは特殊です。「おもて」、「うら」、「おく」、「おき」は物事の位置関係ですが、「かげ」は「もの」が動いたり変化しても、これに必ず着いて回る相対的な物事だからです。だからこそ、そのことから、「かげ」とは、常に自分たちに寄り添つて見守つてもらつてくれるものだと、その有り難さを感じる訳です。


言葉としては、「かげ」だけでよいのに、それに「お」と「さま」を前後に付けて丁寧すぎる言葉にしても、この言葉の響きには決して不自然さを感じません。


すばらしい言葉です。


この「おかげさま」は、家内から祭祀のときに必ず心で念じて唱へる言葉だと言はれて、改めて納得した次第です。

南出喜久治(平成28年1月1日記す)


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