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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第五十九回 小林節の憲法論

うけうりの あたましかなき をこのもの ひとかどよそふ ふりぞあさまし
(受け売りの頭脳しか無き痴の者(学者)一廉装ふ振りぞ浅まし)

 小林節氏とは、過去に何度か会つて話をしたことがありますが、私が憲法の論議を仕掛けてもなかなか乗つてこない人でした。

小林氏の憲法論は、私からすると到底理解出来ないもので、自己の憲法学が学説的には鵺(ぬえ)的な存在で、学界の主流にはならない上に、どの政党も小林氏の学説のうちで、都合のよい部分だけを摘み食ひするだけで、全面的な支持を得られずに体裁良く利用されてゐるといふジレンマに小林氏は悩み続けてきたのだと思ひます。

メディアに露出することを大層好む人物で、そのために竹田恒泰氏を弟子にして利用しようとしましたが、逆に竹田氏に利用されてしまつた感があります。


 国会の公聴会に竹田氏に鞄持ちをさせて出席したところ、安保法制が違憲であるとする似非学者トリオの発言が一致したことによつて、意外なまでに世間に影響があつたことから、一挙に政治の世界に転身しようとの野心を抱いて「国民怒りの声」を立ち上げました。


 国会前のシールズらの安保法制反対デモに出席した、あの山口二郎氏が、「安倍に言いたい!お前は人間じゃない!叩き斬ってやる」といふ人格破綻の発言をしたのと肩を並べて、政治的なアジテーションしかできない人は、もはや際物師であつて学者とは到底言へないのです。


 「国民怒りの声」を結成し、参議院選挙比例区で10人の候補者、東京地方区で1人を立てた小林氏は、振り上げた拳の降ろし所がなくなつたのだと思ひますが、世論の動向を完全に読み違へた結果、全員落選といふ完全な惨敗となりました。


 自衛隊合憲、安保法制違憲といふ奇妙な論理の小林氏は、新左翼のやうに国家権力の走狗となる警察権力と対決しない(対決できない)少人数の張り子の虎であるお坊ちゃま集団のシールズなどの心を、この屁理屈で?むことができると勘違ひして、池(学界)から跳ねて日干しになつたのです。


 改憲勢力が参議院議席の3分の2をとることを阻止するために野党共闘を呼びかけながら、そのくせ、民進党と政策を異にするなどして統一名簿を断つたのは、全く一貫性がなく、自己顕示欲だけで行動してゐるとしか考へられないものでした。


 国民怒りの声なる新党を作つて参議院選挙に出馬する小林氏は、昔は、自民、公明の御用学者だつたし、集団的自衛権を真つ先に認めてきた人物なのに、国会の公聴会での発言が大きく取り上げられたことに味を占めて、ポプュリズムの亡者のやうな変身(変節)して、集団的自衛権の容認は違憲だとして自公政権批判を始めたのです。


 しかし、一貫性がないのは、小林氏の政治運動、選挙運動だけでなく、小林氏の憲法論についても同じです。


 小林氏の憲法論は、極めて簡単です。ポツダム宣言を礼賛し、占領政策とマッカーサー指令を全肯定するGHQ憲法論なのです。


 つまり、従米路線の憲法論ですから、占領憲法は憲法として有効で、自衛隊は合憲とし、集団的自衛権をも肯定してきたのに、突然に、これまでの主張とは真逆のことを言ひ出して変節し、その理論的変節について全く説明しないまま集団的自衛権を否定して安保法制は違憲だと言ひ始めたのです。


また、小林氏は、こんなことを言つてゐます。


「押しつけ憲法であっても違法ではない。ハーグ条約によれば、「占領の支障なき限り被占領地の基本法を変えてはならない」とある。支障があったわけです。つまり、日本は人権を無視したから、あのようなクレージーな戦争ができたわけです。天皇の名を出せば、たかだか陸軍大臣が戦争を始めても、国民はそれについていくしかなかった。ちょっとでも批判的なことを言ったら、特高警察が来て令状もなしに連れていかれたわけでしょう。そんなことをやめさせるためにポツダム宣言があり、民主化、軍国主義の除去、人権の補強が行われた。だから、国民主権、人権尊重、平和主義の新憲法を立てなかったら、占領の目的を達しないわけですよ。」(小林節、佐髙信『安倍「壊憲」を撃つ』平凡社新書p70)


 これは、マッカーサー万歳、占領政策万歳と叫んでゐるGHQの亡霊もどきの、嘘で塗り固めた妄言です。


 マッカーサー指令は、占領憲法よりも上位規範であり、これを改廃するために、警察予備隊創設指令→自衛隊創設は「合憲」だといふロジックですから、今回の安保法制が「立憲主義」に違反するとしながら、自衛隊違憲を叫ばないサヨク本流の主張以上に、堂々と安保法制のみの違憲を主張することができて、今回の選挙運動の主流に躍り出られるといふ計算で、「国民怒りの声」を立ち上げたはずです。


 「不法はいくら積み重ねても法にはならない」(ヘーゲル)のですが、そのことが全く解つてゐないのです。


 占領憲法が憲法であるとすれば、自衛権があるとか、自衛隊は合憲だといふ小林氏の見解が誤りであることも、繰り返し述べるまでもありません。


占領憲法では交戦権を否定して居ますので、少なくとも自衛のためと雖も「自衛戦争」は認められません。警察力や自警団などによる「自衛措置」による自衛権の行使は認められても、「戦争」といふ手段で自衛権を行使することはできないといふことです。つまり、自衛権がフル・スペックでは認められないのが、占領憲法なのです。


 ところが、自然法を根拠として、我が国でも自衛権はフル・スペックで無制限に認められるとすることは、占領憲法より自然法が上位規範であることを認めることになります。

自然法では当然に国家の交戦権があるとしても、これを占領憲法によつてわざわざ自然法を排除して交戦権を否認して自衛権の行使態様を制限したはずなのです。


 占領憲法は、第98条第1項で、「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」として、占領憲法が最高規範であると自称し、占領憲法よりも上位規範があるとはしてゐませんから、このロジックには大きな矛盾があるのです。


 交戦権とは、火器を用ゐた外交権であり、それを禁止するのが占領憲法です。占領憲法はGHQの軍事占領下で武装解除された非独立状態でできたために、我が国が独自の軍隊や交戦権を持つことは矛盾するからです。


 軍隊とは、近代戦の戦闘遂行能力のある人的組織と物的装備を備へたものです。客観的に判断しうるものであつて、その他の要素で左右されることはありません。どのやうな「目的」で作られたか否かではなく、純粋にその「能力」によつて判断されるものです。それゆゑ、自衛隊は「軍隊」なのであり、占領憲法が憲法であれば違憲の存在なのです。


また、小林氏は、樋口陽一氏との対談本である『「憲法改正」の真実』(集英社新書)で、こんなことまで述べて居ます。

 「だから、もう「うまれ」云々のプライド論はどうでもいいじゃないですか。国民は、そんなこと気にしていないんですよ。」(小林、p216)。

「その後、連合国が事実上、憲法制定権力を行使して日本国憲法ができて、名義人は日本の国民大衆になった。」(小林、p217)


と言つてゐます。


 「連合国が事実上、憲法制定権力を行使して日本国憲法ができ」たと認めてをり、まさに語るに落ちたといふべきです。

連合国が憲法を作り、連合国から「主権移譲」を受けたとしてゐるのですから、「日本国民は、・・・この憲法を確定する。」といふ占領憲法の前文の記載は真つ赤な嘘であると認めたことになるのです。


 また、占領憲法の「出自」などはどうでもよく、他国が作つた憲法は憲法として認められないといふやうな「プライド」は捨てろといふのです。「いいじゃないの幸せならば」「いいじゃないの今がよけりゃ」プライドを捨てろと言ひたいのでせうが、幸せではないし、今もよくないのであればプライドが捨てられないことは当然ではないですか。

こんな小林氏のやうな考へは、事大主義そのもので、太鼓持ち学者もここまで徹底すると見事としか言ひ様がありません。

これは、北朝鮮に拉致されても、その後の生活が優遇されてゐるならば、拉致犯罪はなかつたことにし、拉致から解放されて原状回復を求めるのは誤つてゐるといふ考へと同じです。


 ところで、近代憲法が、政府の権力を制限し、国家からの自由を保障するものであれば、社会権の存在は、これと矛盾します。国家に対する不信と国家に対する信頼とは両立しないのです。

本来、生存権が認められ国家に対して私益を求める権利があることと、労働の義務とは対応する性質のものです。労働の義務を果たすので生存権を保障してほしいといふことですから、生活保護受給者には労働の義務が課せられるのが当然です。


 しかし、生活保障を受給する者に労働の義務を課さないために、国家財政は破綻へと向かひます。これについても小林氏は触れやうとはしません。


 そして、驚くべきことに、この著書の中で、樋口陽一氏と小林氏は、「法の支配」と「立憲主義」とは同じだと言ひ切ります。


 占領憲法を憲法であるとするのであれば、占領憲法における「法の支配」における「法」とは、占領憲法が成立したことを根拠付ける法理(占領憲法は占領軍が軍事力を背景として制定に関与したことを正当であるとする法理)を意味することになります。しかし、そのやうなものに普遍性も正統性もなく、法の支配とは全く異なつた「力による支配」に過ぎません。


 そして、「立憲主義」といふ言葉は、これまで機会がある度に説明してきたとほり、多義性のあるもので、極めて政治的概念ですので、「法の支配」の概念と同じだといふのは、極めて乱暴なものです。

我が国の「法の支配」とは、「規範國體の支配」のことです。だから、占領憲法は憲法として認められないのです。


 ともあれ、立憲主義とか、法の支配といふ言葉が一人歩きして、それぞれが勝手なまちまちの解釈をしてゐることが、政治と社会の混乱を招いてゐます。


 小林氏の「国民怒りの声」は、全く国民の支持と共感を得られずに、国民の怒りを浴びて惨敗を喫したのです。小林氏は、参議院選挙の前から、櫻井よしこ氏に対して、憲法に関する公開討論を申し入れてゐましたが、櫻井氏は逃げまくつてゐます。言論人であれば、公開討論の申し入れを拒絶してはなりません。私は、その意味では小林氏を支持します。櫻井氏は、これに応ずるべきであり、その際、私も加へてもらつて、占領憲法護憲論、占領憲法改正論、真正護憲論との三者鼎立の討論会を開いてほしいものです。

 

南出喜久治(平成28年9月15日記す)


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