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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第八十七回 三人組の憲法論

うけうりの あたましかなき をこのもの ひとかどよそふ ふりぞあさまし
(受け売りの頭脳しか無き痴の者(学者)一廉装ふ振りぞ浅まし)

ちくらのおきど第八十五回の井上達夫第八十六回の篠田英朗に引き続き、今回は、百地章(日本大学教授)、長尾一紘(中央大学名誉教授)及び西修(駒沢大学名誉教授)の、いはゆる「三人組」の憲法論を取り上げる。


菅義偉官房長官が、安保法制を合憲であるとする憲法学者は多く居るとして、その名前を挙げたのはわずか3人だけであり、それは、百地章、長尾一紘、西修の三人組だつた。


このうち、百地と西については、平成27年6月19日に日本記者クラブで「憲法と安保法制」をテーマに講演して、いづれも「集団的自衛権は主権国家固有の権利」であるとして「安保法制は合憲」と主張した。


「固有の領土」とか、「固有の権利」とかが好きな人たちであるが、「固有」とは何を意味するのかの説明ができてゐない。

もし、この「固有の権利」なるものが、占領憲法制定以前の権利を意味するのであれば、結局のところ、これは占領憲法の上位に存在する「自然権」を認めることになるので、占領憲法が最高規範であるとすることと明らかに矛盾する。

占領憲法が最高規範(第98条第1項)であるといふことは、占領憲法の成立以前に、占領憲法を超える規範はなく、占領憲法成立以後においてもこれを超える規範はないといふ意味だからである。


また、降伏文書に調印して独立を奪はれて、GHQによる完全軍事占領がなされた「戦争状態」において成立したとする占領憲法下の我が国に、自衛権が認められる筈がない。自衛権を認めることは、独立を維持すること、さらには、独立を維持するための前提として独立を獲得すること(独立権)を含むものであるから、これを認めることは占領を全否定することなるからである。


仮に、占領憲法が、個別的自衛権及び集団的自衛権まで否定してゐないと解釈しても、その自衛権を行使する態様には、論理的には①交戦権を行使した自衛権の行使と、②交戦権を行使しない自衛権の行使とがあるが、このうち、占領憲法では交戦権を否認されてゐるので、後者(②)しか認められない。


つまり、我が国の個別的自衛権も、日米安保による集団的自衛権も、交戦権(Right of Belligerency)を前提とする自衛権の行使はできないのは、占領憲法第9条第2項後段で「国の交戦権はこれを認めない。」として無条件で否定してゐるので、軍事力を用ゐないそれ以外の方法、つまり、警察力による侵略の排除や自警団による防衛などしかできず、軍事力による防衛はできないことになる。


占領憲法第9条では、「前項の目的を達するために、陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない。」(第2項前段)とあり、「前項の目的を達するために」の「ために」といふのは、原因や理由を表す「接続詞」に過ぎず、決してその後の言葉の範囲や程度を限界づけるものではないことは日本語として明確であり、これを「前項の目的を達する限度を超えて」と読み替へることは、言葉の「解釈」の域を完全に超えてゐる。芦田修正なるものは、国語的には全く無意味であるが、あへて、このやうに主張することは、「解釈改憲」といふよりも、別の言葉に差し替へてしまふ「差替改憲」ともいふべきである。


占領憲法が憲法であれば、戦力(Forces)の不所持は絶対的であり、自衛隊(Self-Defense Forces)もまた戦力であるから、認められないのは当然である。


占領期における公用語は、英語であると決められてゐたので、「THE CONSTITUTION OF JAPAN」の記載が公式な規定である。交戦権に該当する表現は、「Right of Belligerency」であつて、「Belligerent Rights」(交戦国の諸権利)とは全く異なる。


しかし、憲法学者らの見解には、「Right of Belligerency」(交戦権)を「Belligerent Rights」(交戦国の諸権利)に差し替へたりするものもあるが、国際法上における交戦国の諸権利とは、①敵戦力の破壊および殺害、②海上封鎖、臨検や拿捕、③捕虜の抑留、④占領地での一定の強制措置などであるから、結局のところ、これらが認められないのであれば自衛は不可能である。


また、これとは別に、自衛隊(Self-Defense Forces)が自衛戦争(Defensive war)として行ふ自衛権(right of self-defense)の行使は、「Right of Belligerency」(交戦権)の行使に該当しないといふ驚くべき「差替改憲」を主張する見解もある。


このことは、憲法学ではなく国際法学の学者についても同様なことが起こつてをり、安保法制が違憲であるとする憲法ギルドの見解に逆らつた者は完全に排除された。


憲法ギルトの見解も、この三人組の見解も、このやうな批判に対して全く反論することなく、このやうな批判は、「まともな相手をする水準ではない」と意味不明な捨て台詞を吐いて無視するのであるが、百地と西もこれと同じ態度をとるのであらう。


ただ、三人組の最後の一人である長尾一紘は、この講演に参加しなかつたので、改めて詳しくその主張を検討する必要がある。


長尾は、安保法制を合憲としながら、日本の安全保障環境が大きく変化するなか、長谷部恭男氏と小林節氏が数十年前の見解をずつと持ち続けてゐることに驚いたとする。そして、政府がその見解を変へてはいけないルールはないと主張してゐた。


しかし、これは合憲性の理由を示したのではなく、感想の部類に属する話であつたが、長尾は、この度、『世界一非常識な日本国憲法』(扶桑社新書)を上梓して、自説を展開した。


ここで述べられてゐる見解は、百地と西と同じやうなものであつたが、この中で、注目すべき点として、「八月革命説・無効説・明治憲法改正説」の単元で占領憲法の効力論を簡単に述べてゐる(P53以下)。しかし、あまりにも簡単すぎて、それこそ驚いた。


八月革命説は否定してゐるが、無効説については、菅原裕の説を紹介して説明し、次のやうに解説してゐる。


「この見解には問題があります。憲法が無効ならば、その憲法の下で制定されたさまざまな法令の効力はどうなるのか。この点についての説明が十分でないように思われます。」(P55)と述べるに止まり、決して無効論を否定はしていない。また、違憲だとしても無効ではないといふ稀代の詭弁を弄することもなかつた。


そして、結論的には、占領憲法が憲法として有効であるとして、明治憲法改正説を採用してゐる。このやうな見解が未だになされるのは、憲法学者の知的怠慢以外の何者でもないと思ふ。

真正護憲論を知らないといふか、知つてゐたとすれば、これに触れたくないのである。


そもそも、効力論争において有効か無効かといふ本質的な問題と、無効であればその法体系への影響をどのやうに処理するかといふ政策的な問題とを混同して議論することの誤りを全く理解できてゐないのである。真正護憲論であれば、効力論と法的安定性論とが両立できることはご存知のとほりである。


この本を買つて読んでみたが、新味性はないものの、もう少し背中を押してやれば真正護憲論に改心できるところまで来てゐるのではないかと感じた。


がんばれ三人組! 改心するのは今しかない。


南出喜久治(平成29年11月15日記す)


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