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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百一回 不安の転嫁

とつくにの かみやほとけに すがりても おやをすてたる こころいやせず
(外国の神や仏に縋りても祖先を捨てたる心癒やせず)

おやまつり すてゝすくひを もとめても しゝこらかせし こちたきくらし
(祖先祭祀 捨てゝ救ひを 求めても 縮凝らかせし 言痛き暮らし)


今回の主題は、「祭祀と宗教」であり、これは、「祭祀の道」第二十二回(平成二十二年十月一日)で取り上げた「祭祀と宗教」の続編である。


「祭祀と宗教」では、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の『お大の場合』(The Case of O-Dai)といふ短編の作品(「明治日本の面影」講談社学術文庫)を題材として、祭祀と宗教の対比について述べた。これは、実話なので、もう一度読み直していただいてから本稿を読んでゐただきたい。


人間は、哺乳類であるから、例外なく父母が居る。これは科学である。そして、その父母もそれぞれに父母が居る。それをさらに際限なく遡ると果てがない。父母の始まりといふことがなくなり、従つて子孫に終はりがなくなる。ところが、哺乳類の始まりも人間の始まりもあると言はれるので、それがどこかから始まるのかといふことなると、それは、進化論によらなければならなくなつてくる。


そして、哺乳類も進化を遂げて生まれたとすれば、それは生命の起源に辿り着く。生命の起源や進化は、どうして起こりえたのであらうか。


このことを考へると、大きな宇宙世界から小さな極小世界に至るまで、すべて調和がとれた雛形構造の全事象は、何か偉大なる宇宙意志のやうなものによつて造られたと考へて、その偉大なものに対する崇敬の念が、全能の神(God)なるものを想念することになる。そして、この神(God)によつて森羅万象の一切のもの、そして人間も造られたとする一神教的な思考は自然発生的に生まれてくる。しかし、その神(God)を想念(創造)したのが人間であり、その人間は神(God)によつて作られたとするのは、紛れもなく典型的な循環論法である。

これは虚偽論法の一つではあるが、この論法の繰り返しが際限なく循環して留まることがないために、これが矛盾であることに人々が気付くことは少ない。そのことから、これを用ゐた世界の「創唱宗教」は今も存在し続けてゐるのである。


キリスト教といふのは、イエスの教へではない。ペテロ・パウロ教である。これによつてよつて強制的に、創造神のみを信仰の対象とし、父母とその父母、そして永遠に遡る祖先から命を受け継いできたことへの感動と感謝を禁止され、すべて神(God)への感謝へと置き換へられた。


つまり、祭祀が否定されたために、ペテロ・パウロ教に入信させられ、改宗させられた欧米人は本能的な「不安」を感じたのである。この不安は「私的」なものである。しかし、これは、すべての人が共通して抱く不安である。

神道などの「自然宗教」とは異なり、一神教に限らず、およそ世界に存在する「創唱宗教」は、概ね個人主義の宗教であるから、その不安はあくまでも個人的であり、私的なものである。

どうして個人主義かと言へば、宗教の目指す救済とか解脱といふものは、信者個人の問題であり、その人の父母、祖先、子孫を含むものではない。つまり、自分だけが救はれたり、解脱することを目的とするので、子供や親兄弟の救ひや解脱を求めるものではない。しかし、日本人の多くは、自分は地獄に落ちても子供や両親を救つてやりたいとの心情があるので、そんな思ひを満たしてくれる創唱宗教はないのである。


創唱宗教では、両親や子供とは無関係に、ひたすら自分だけが救はれるといふことに最大の関心がある。だから個人主義なのである。そのため、自分だけが救はれるのは有り難い反面、はたしてこれでよいのかといふ申し訳なさや不安が出てくる。そして、その申し訳なさと不安は永遠に解消されることはない。不安はそのまま放置され、決して心が救はれることはないのである。


一般に創唱宗教では、祭祀を認めないか、あるいは信仰に妨げのない限度で付随的に認めるだけである。我が国の仏教も基本的には祭祀を認めない。

たとへば、僧の戒律を破り肉食妻帯を公然と実践した親鸞は、「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず」(『歎異抄』第五条)とし、究極の個人主義に徹する。さらに、『顕浄土真実教行証文類』(教行信証)の「顕浄土方便化身文類六」の後半に、数々の経典等を引用しながら、「天を拝することをえざれ。鬼神をまつることをえざれ。吉良日をみることをえざれ。」、「天を拝し神を祠祀することをえざれ。」、「国王にむかひて礼拝せず。父母にむかひて礼拝せず。六親につかへず。鬼神を礼せず。」、「もろもろの外天神に帰依せざれ。」、「祭祀の法は、天竺には韋陀、支那祀典といへり。すでにいまだ世にのがれず、真を論ずれば俗をこしらふる権方なり。」などと「神祇不拝、国王不礼」を説いた。つまり、祭祀と天皇の完全否定である。反天皇、反民族であり、本地垂迹説すらも否定した。これは、本地「非」垂迹説である。


この親鸞を宗祖とする蓮如教といふべき浄土真宗の教へは、構造的にはキリスト教と同じ一神教である。これついて、江戸後期の農政家である二宮尊徳の口述(『二宮翁夜話』日本経営合理化協会出版局)によれば、二宮翁は、親鸞の肉食妻帯は卓見ではないかとの意見に対し、「それはおそらく間違つてゐるぞ。」として、仏道を田んぼの用水堰に喩へ、「用水堰は、米をつくる大事な土地をつぶして水路としたものだ。仏道といふものは、人間の欲をおさへ釈迦の法を水路として世を救はうとする教へであることは明らかなことだ。人間には男女があつて結婚して相続していくものだから、男女の道は天然自然のものなんだが、この性欲といふ欲をつぶして仏法の水の堰としたんだよ。男女の性欲を捨てれば、それに伴ふ、おしい、欲しいの欲も、憎い可愛いといふ迷ひも自然に消えてなくなるんだ。・・・それなのに肉食妻帯をゆるしておいて仏法を実践せよといふのは、ちょうど用水路をつぶして稲を植えよ、といふのと同じじゃないか、とワシはひそかに心配して為るんだよ。」と答へてゐる。まさしく含蓄のある卓見である。


このやうに、人間が本能的に持つてゐる始原的な父母そして祖先への感謝と崇拝を否定する創唱宗教に帰依すると、人々は必然的にこの得体の知れない「不安」に苛まれるのである。


この不安は信仰世界の本質的なものであるので、死に至るまでつきまとつて離れない。さうすると、人間は、この不安を払拭し、免罪を受けるための「不安の転嫁」として、他者を攻撃し、世界に向かつて、戦争を仕掛け、軍事的にも経済的にも侵略してストレスを解消して不安を忘れやうとしてきた。その行為が残虐であればあるほど不安を払拭し免罪を受けられるとして、挙つて残虐行為を行つたが、そんなことでは到底不安は解消できない。むしろ、不安は倍加する。いまや世界は、不安と残虐行為との負のスパイラルに入つてゐる。


このやうに、キリスト教のみならず、イスラム教などの一神教の信者は、祭祀否定の本能的な不安を解消させるために戦争や殺戮を行つてきた。我が国における代表的な一神教である浄土真宗もまた、一向一揆により戦争と殺戮を繰り返した。

絶対神を信じる者が、はたしてこれを信じてもよいものかといふ不安に苛まれると、その不安を転嫁するために、極めて無慈悲で残忍な行動を起こすのである。無益な殺生をしないことを説く宗教が逆に人を殺す。異教徒を平気で殺す。やはり、宗教は人を救ふのではなく「宗教は人を殺す」のである。


祭祀が人間の本能に根ざしてゐるために、これを否定し続けやうとすると不断の努力が必要となる。実話である前掲の『お大の場合』では、二人のイギリスの女宣教師が、お大に祖先の位牌を窓から下の川に捨てさせたのも、祭祀を否定することが信仰への強い証であると自らの心に言ひ聞かせたことに他ならない。信仰の証のためならば、どんなに理不尽なことでも行ふことができるのである。


祖先の位牌を汚物かゴミのやうにして捨てさせて排除することも、異教徒を殺戮して排除することも、信仰の証としては、さほど大きな違ひはない。このやうなことが人倫の道に反する理不尽な行為であることを必死で忘れようとするのである。しかし、このやうな理不尽で残酷な信仰生活から逃れるためには、その一神教を棄教して祭祀を復活させることしかない。


創唱宗教は人を殺し戦争を引き起こす。しかし、祭祀は人を生かし平和をもたらす。

歴史的に見ても、宗教戦争は枚挙に暇がないほど存在するが、地球上に祭祀戦争は一度もないのである。


人には誰でも不安はある。私的な不安もあれば公的な不安もある。しかし、これらを別の行為を行ふことによつて転嫁するだけでは根本解決にはならない。

これらを根本的に解決するためには、自然宗教の根源となつてゐる祭祀の道に回帰することしかないのである。。


南出喜久治(平成30年6月15日記す)


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