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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百三回 本能の体系(その二)

さがにいき いへをまもりて いのちつぐ いはひまつりの くにからのみち
(本能に生き家族を守りて命継ぐ祭祀の國幹の道)


【承前】

人間以外の動物は、自己保存本能、自己防衛本能、種族保存本能、種族防衛本能などの本能による忠実な生活をするために、生活するための必要最小限度の獲物を捕らへることはあつても、決して無益な殺生や姦淫、盗みなどはしません。人間だけは時にはそれを犯します。それこそが「人間らしさ」と云へばそのとほりですが、そのやうなことをすると、外道、畜生、ケダモノなどと最大級のスラングで罵られます。そして、忠実に本能に従ひ品行方正な生活を営む動物たちを「犬畜生」と蔑み、計算原理で行動した人を「犬畜生にも劣る」とか、「人非人」などと謂はれなき中傷を浴びせるのです。


人間でも他の動物でも、子供が親の前で突如危険に晒されたとき、側に居た親は咄嗟に我が身を盾にしてでも捨て身で子供を護らうとします。しかし、現在の合理主義教育であれば、人の命の尊さだけを説き、親の命も子供の命も平等で、親が自己の命の危険を侵してまで子供を護る義務はないと教へます。見殺しにしてもよいのです。自分の命が一番大事であり、その一番大切な命を捨てて護るべきものはないのです。自分の命を捨ててまで護るべきものがあるか否かを問ひかける必要があるのに、そんな質問をすること自体が愚問だと切り捨てるのです。これが合理主義の結論です。


しかし、この事例の場合、親は脳の判断を介することなく、脊髄反応のやうに捨て身の行動を取ります。これは、本能の働きであり、自己保存本能より種族保存本能が上位の本能として作動するからです。

家族を護り、さらに種族を護り、そして祖国を護る、このやうに本能には高次に連なる序列があるのです。


特攻隊に志願までして祖国のために命を捧げられた英霊は、最も上位の本能である祖国防衛本能(祖国愛)が強かつたためであり、このことは、理性論では、到底理解もできないし、このやうな行動原理を説明することは到底できないのです。



【祭祀】


帝国憲法は、正統憲法の一部を構成し、また、正統憲法は、規範國體といふ国務法体系の最も枢要な部分です。

特に、規範國體の中心に位置する祭祀については、推古天皇十二年四月(皇紀一千二百六十四年)に聖徳太子が憲法十七条(いつくしきのりとをあまりななをち)を制定された三年後の推古天皇十五年二月(皇紀一千二百六十七年)に、推古天皇の御詔勅があります。その中に、「祭祀神祇、豈有怠乎」(あまつかみくにつかみをいはひまつること、あにおこたることあらむや)とあります。このことは当然のことですので、憲法十七条には書かれてゐません。当たり前のことは書かれないものなのです。しかし、推古天皇は、その当たり前のことを怠つてはならないと詔勅として注意的に述べられたのです。

天皇祭祀(宮中祭祀と神宮祭祀)は、祖先祭祀、自然祭祀、英霊祭祀の雛形です。我々は「祭祀の民」であり、祭祀こそが規範國體の枢要として実践し護持しなければならないことを推古天皇の御詔勅に示されてゐるのです。


祭祀を行はうとする動機は、本能を強化することによつて獲得されるものですから、合理主義からすれば、祭祀は理性といふ計算原理からして無用の長物です。かたじけなや、申し訳なやと感謝の祈りを捧げても、合理的な生活に何の利益ももたらしません。迷信や因習の最たるものであり、時間の無駄、労力の無駄です。合理主義によつて否定すべき最大のものは、本能原理による祭祀と不可分一体なものとして営み続ける精神生活なのであり、祭祀は、まさに規範國體の枢要なものなのです。


本能とは、生得的(先天的)であると学習的(後天的)であるとを問はず、大脳の思考過程を経ない機序であると定義しますと、祭祀を行はうとする動機は、反射的、直観的なものです。

祭祀とは、神霊を招き、神人共食によつて一体化する営みを意味してゐます。大嘗祭は、天皇祭祀の典型なのです。祭祀の儀式や作法は大脳を経たものですが、祭祀の中心は、誓約(うけひ)です。誓約とは、初めに登場するのが記紀に出てくるアマテラスオホミカミとスサノヲノミコトとの「うけひ」であり、これは神意を伺ふためのものでした。それが、神と人との交流についても「うけひ」となり、人が命懸けで神意を求めて、これに神が応へるといふことになります。

明治時代に熊本で起こつた敬神党の乱(神風連の乱)は、偉大なる国学者の林桜園に師事した門弟らが、この誓約(うけひ)に従つて蹶起し、滅びの道を選んで後世にその心を伝へ続けることになつたのです。

この誓約(うけひ)とは、「受け霊」であり、大脳半球による理性的な思考過程によつて導かれるものではなく、まさに本能的な直観の領域です。



【本能論と性善説】


本能は決して単なる欲望ではありません。むしろ、理性、つまり計算能力こそが本能を超えた無制約の欲望を生みます。

およそ、動物の本能は、それぞれの個体と種族を維持し続けるための「指令」であり、それに過誤がなかつたので生きながらへてきたのです。本能に設計ミスや施工ミスがあれば、自然淘汰されて、その個体は早世し、種族そのものが早晩絶滅します。


人は、本能を強くし、これを能力の土台として学習し、知識と経験を得て成長するのです。身を捨ててでも子を護り、伝承され続けてきた智恵と財産の「家産(身代)」の担ひ手となつた祖先を崇拝し、親を護り、家族を護り、その相似的に拡大した部族、種族、そして祖国を護ることは、まさに本能の働きなのです。生まれと育ちとによつて、家族愛、郷土愛、祖国愛(愛国心)などは本能の発露として育まれます。大脳の働きによつて、多くの事柄を知ることができれば、自分や家族や民族が生かされてゐることの感謝の気持ちが必然的に湧いてきて、それが祭祀の姿となつて、「祭祀神祇」(あまつかみくにつかみをいはひまつること)に繋がるのが人間の本能の働きなのです。


他の動物と異なり、人間は大脳半球が発達してゐることから、思考して知識を得ることは人間にのみ備はつた能力(本能)です。そして、知識が蓄積したことが基礎となつて直観が生まれます。知識のない他の動物には、脳幹から生まれる強い直観(生命の危険回避、火災の予知、地震の予知など)がありますが、大脳半球によつて思考した結果として生まれる直観は、これとは別のものです。言ひ換へれば、蓄積した知識を基礎として生まれる直観は、人間だけのものであり、他の動物には、この直観がないのです。

吉田松陰は「井を掘るは水を得るが為なり。学を講ずるは道を得るが為なり。水を得ざれば、掘ること深しと云ども、井とするに足らず。道を得ざれば、講ずること勤むと云ども、学とするに足らず。因て知る、井は水の多少に在て、掘るの浅深に在らず。学は道の得否に在て、勤むるの厚薄に在らざることを。」(講孟餘話)と述べてゐます。

古人(いにしへびと)は水が湧き出る箇所を直観で知りました。この直観力を強くするためには、祭祀を怠らないことであり、神霊に感謝を捧げて祈ることによつて実現します。


ところで、人間の「本性」は、「善」なのか「悪」なのかといふ性論が古くから有りました。しかし、ここでいふ「性」とは、人間が生まれ持つた先天的な「性質」のことですから、「本能」のことです。ですから、性善説が正しいことは当然なのです。ここで言ふ善と悪の区別は、本能の働きに適合することが善であり、本能に適合しないことが悪といふことになります。決して、道徳的、宗教的な判断のモノサシを使つて決められるものではないのです。道徳的、宗教的な善悪の基準は、必ずしも同じではありません。また、道徳的、宗教的な善悪の基準と、本能適合性の基準とは、概ね一致しても完全に同じではありません。道徳的、宗教的な基準は、理性の働きによる価値体系で決まるものが多く、本能に適合しないことでも、道徳的、宗教的には善とする場合もありますので、存在論の領域にある本能を価値論の領域である理性による基準で判断しても意味がありません。



【欲望の抑制】


本能を生得的、先天的なものとし、理性を後天的な学習によるものと区別しても、あまり意味がありません。理性は、必ず大脳による思考を経由したものであることから、これを理性と呼び、大脳による思考を経由しないものは、先天的なものであらうと後天的なものであらうと、反射、直観、情動などのすべては本能の領域とすることができます。

また、記憶の分類として、その情報の性質による分類としては、宣言記憶(declarative memory)と手続記憶(procedural memory)又は非陳述記憶(non-declarative memory)とに分けられますが、前者は、出来事と事実に関する記憶であり、大脳での思考を経由するものであるのに対し、後者は、やり方に関する記憶であり、大脳での思考を経由しないものです。後者については、具体的には、自転車や自動車の運転は、暫く運転してゐなくても「体が覚えてゐる」のです。楽器の演奏の場合も同じです。生得的なものか学習によるものかの区別とは別に、理性と本能の区分と同様に、大脳による思考を経由するか否かで区別すると、前者は理性的記憶、後者は本能的記憶と命名した方がよさそうです。



【本能行動と理性行動】

本能とは、個体の生命維持の機能と種内の秩序維持の機能の体系ですから、剥き出しの欲望を抑制して秩序維持を果たす働きがあります。


たとへば、大多数の人が近親相姦を犯さないのは、家庭内の秩序維持のために近親者には性欲を感じさせないように抑制する本能の働きがあるからです。人は、近親相姦をしてはならないといふ道徳的な学習を受けて理性の働きにより近親相姦をしないのではありません。むしろ、そんなことは教育現場で、口にするのもタブー視され、決して教はることはないのです。それでも、そのやうな行為に及ばないのは、種族保存本能に根ざした性欲は、これよりも高次の家族秩序維持本能によつて抑制されてゐるからです。欲望を抑制するのも高次の本能なのです。近親相姦が行はれば、家族の秩序は崩壊します。それでも近親相姦をする人は、本能が低下したり壊れた狂人なのです。理性以外のあらゆるもの(本能を含む)を失つた結果なのです。

理性といふのは、他の動物にはないとされます。動物は本能だけでその指令に基づいて秩序正しく生きてゐます。無益な殺生も、強欲な蓄財も、そのために詐欺や裏切りをすることもありません。本能を超えて欲望を実現しようとするのは理性の働きです。つまり、理性は、「計算能力」であり、「損得勘定」が根底にあります。

狂つた人といふのは、本能が劣化し、あるいは喪失した「理性の怪物」だとするチェスタートンの言葉は、正鵠を得たものと言へます。


南出喜久治(平成30年7月15日記す)


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