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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百十四回 本能と理性 その一

あまつかみ くにつかみをぞ おこたらず いはひまつるは くにからのみち
(天津神国津神をぞ怠らず祭祀るは国幹の道)


推古天皇の御詔勅を奉じて詠んだこの歌を冒頭に掲げたのは、この御詔勅の指し示すところが、今後における我が国と世界は、人々が宗教による分裂を避け、祭祀による統合を図るための指針となるべきことを痛感するからです。


推古天皇十二年四月(皇紀一千二百六十四年)に聖徳太子が「憲法十七条」(いつくしきのりとをあまりななをち)を制定された三年後の推古天皇十五年二月(皇紀一千二百六十七年)に、推古天皇の御詔勅があります。その中に、「祭祀神祇、豈有怠乎」(あまつかみくにつかみをいはひまつること、あにおこたることあらむや)とあります。このことは当然のことですので、憲法十七条には書かれてゐません。当たり前のことは書かれないものなのです。しかし、推古天皇は、その当たり前のことを怠つてはならないと詔勅として注意的に述べられたのです。


宗教は人を殺しますが、祭祀は人を殺しません。宗教戦争は、これまでも繰り返され、そしてこれからも頻繁に起こりますが、祭祀戦争はこれまで一度も起こつたことがありません。


それは、祭祀は本能に根ざし、宗教は理性から生まれたものだからです。

Godを想念するのは理性の働きであり、祖霊を感得するのは本能の働きです。宗教は、理性の働きによつて生まれたために、宗教を異にする人々との間で対立が生まれ、殺し合ひが避けられないのです。


それでは、祭祀と宗教とを隔てる根源である本能と理性の区別について考へてみませう。


まづ、「理性」についてです。

「理性」(reason)とは、感情に支配されずに道理に基づいて思考し判断する能力であると言はれてゐますが、はたしてさうでせうか。


カントは、理性のうち、ア・プリオリ(先験的、先天的)なものを「純粋理性」と呼び、ア・ポステリオリ(後験的、後天的)なものを「実践理性」としましたが、実のところ、こんな分類は、理性と本能との区別を考へる上で、混乱を来すだけで、有害無益です。

カントの時代は、脳科学が存在せず、特に、大脳の働きである思考機序の科学的考察もない、まさにドイツ観念論の時代でした。


理性を生み出す根源が大脳の思考過程であり、それ以外にも大脳の思考過程を経由しない生来的、反射的な行動形態があることの区別ができてゐません。心臓が人の意思や思考とは無関係に鼓動を打つたり、食欲や睡眠欲などが起こることは、思考の産物である理性とはほど遠いものであつても、これを無理矢理にア・プリオリの純粋理性として、すべてが理性の領域であり理性が万能であると盲信した結果でした。


そもそも、「理性」(reason)の原義は、数へることです。

推論(reasoning)の能力、計算能力のことであり、これが人間にとつて万能の価値があるとするのが合理主義(rationalism)といふ「思想」です。


合理主義といふのは、理性絶対主義、理性万能主義などと呼ばれ、「理性」に至高の価値を認め、本能を欲望と看做し、これを抑制するのが理性であるとする立場です。


理性は万能で、理性は善であり、本能は悪だとするのが合理主義です。ところが、これでは「本能の塊」であるはずの動物には犯罪がなく、「理性の塊」であるはずの人間に犯罪があることの説明ができません。このことだけでも合理主義は誤りであることが明らかなのですが、「理性」とか「合理」といふ言葉に惑はされて、これが正しいと信じ込んでしまつてゐるのが近代以降に始まつた合理主義といふ「近代宗教」です。


個人主義といふ合理主義が生んだフランス革命といふ史上最大の宿痾は、ルソーによつて完成したのですが、エドマンド・バークは、フランス革命を目の当たりにし、『フランス革命の省察』(半澤孝磨訳、昭和五十三年、みすず書房)を著して、「御先祖を、畏れの心をもってひたすら愛していたならば、一七八九年からの野蛮な行動など及びもつかぬ水準の徳と智恵を祖先の中に認識したことでしょう。」「あたかも列聖された祖先の眼前にでもいるかのように何時も行為していれば、・・・無秩序と過度に導きがちな自由の精神といえども、畏怖すべき厳粛さでもって中庸を得るようになります。」として、フランス革命が祖先と伝統との決別といふ野蛮行為であることを痛烈に批判しました。そして、バークは、ルソーを「狂へるソクラテス」と呼び、人間の子供と犬猫の仔とを同等に扱へとする『エミール』のとほりに、ルソーが娼婦に生ませた我が子五人全員を生まれてすぐに遺棄した事件に触れて、「ルソーは自分とは最も遠い関係の無縁な衆生のためには思いやりの気持ちで泣き崩れ、そして次の瞬間にはごく自然な心の咎めさえ感じずに、いわば一種の屑か排泄物であるかのように彼の胸糞悪い情事の落し子を投げ捨て、自分の子供を次々に孤児院へ送り込む」とその悪徳と狂気を糾弾しました。


また、このやうな狂気の人について、イギリスのチェスタートンは、「狂人とは理性を失つた人のことではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失つた人である。」と言ひました。つまり、ジキルとハイドで描かれてゐる善悪の区別はすべて理性の産物であつて本能の産物ではないといふことです。


「欲望=本能=悪」と捉へるのは合理主義の致命的な誤りです。確かに、理性も欲望を押さへる働きがありますが、根本的な秩序を形成したり維持したりするために、秩序を破壊する欲望を抑へるのは、むしろ本能の働きなのです。


近年は、本能の学問的な定義を放棄する傾向があります。それは、ある意味で最先端の知見に基づかなければ解明できない領域であるからです。


しかし、「理性」が大脳機序による思考の産物であり、カントのいふ実践理性のみが理性なのです。大脳機序による思考の産物以外の理性は存在しません。つまり、純粋理性なるものは、大脳の働きによるものではないので「理性」ではないのです。


このやうに捉へると、理性と本能との明確な区別としては、大脳による思考過程を経たものか否かといふことになります。

つまり、「本能」とは、大脳機序によらない感性や行動の体系であると定義することができます。


単なる「反射」行動だけでなく、神聖なものを思考過程を飛び越えて理屈抜きで直感できる能力(直感力)も含まれます。神聖なもの、神聖な場所に出会ふと、思はず頭を垂れる行動は、まさに本能行動なのです。


西行法師は、伊勢神宮に参拝し、「何事のおはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」と詠みましたが、これはまさに本能による祭祀の直感です。


本能を生得的、先天的なものとし、理性を後天的な学習によるものと区別しても、あまり意味がありません。理性は、必ず大脳による思考を経由したものであることから、これを理性と呼び、大脳による思考を経由しないものは、先天的なものであらうと後天的なものであらうと、反射、直感、情動などのすべては本能の領域とすることによつて明確に区分することができます。


また、記憶の分類として、その情報の性質による分類としては、宣言記憶(declarative memory)と手続記憶(procedural memory)又は非陳述記憶(non-declarative memory)とに分けられますが、前者は、出来事と事実に関する記憶であり、大脳での思考を経由するものであるのに対し、後者は、やり方に関する記憶であり、大脳での思考を経由しないものです。後者については、具体的には、自転車や自動車の運転は、暫く運転してゐなくても「体が覚えてゐる」のです。楽器の演奏の場合も同じです。生得的なものか学習によるものかの区別とは別に、理性と本能の区分と同様に、大脳による思考を経由するか否かで区別すると、前者は理性的記憶、後者は本能的記憶と命名した方がよさそうです。


ところで、西行法師の直観もさうですが、直観といふのは、大脳の働きによる論理的思考によつて生まれるものではありません。直観は、理性による論理の領域外に生まれるものであり、これは本能の領域なのです。


論理学の頂点に立つとされてきた数学基礎論においても、フレーゲなどによる論理主義に対して、ブローウェルなどが直観主義を主張したやうに、論理(理性)と本能(直観)の相剋は、理性と論理の本丸と目されてきた数学の世界にまで押し寄せてきたのです。


近代合理主義によつて本能に浴びせられた汚名をそそぐため、本能が理性に対して本格的な逆襲を開始する時代をやうやく迎へたのです。


南出喜久治(平成31年元旦記す)


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