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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百二十一回 本能と理性 その八

あまつかみ くにつかみをぞ おこたらず いはひまつるは くにからのみち
(天津神国津神をぞ怠らず祭祀るは国幹の道)


世界における戦争の原因とその影響について、家族主義と個人主義の視点から歴史的に眺めてみたいと思ひます。


世界の歴史の中で、戦争や紛争などの集団的な争ひが起こる主な原因は二つあり、一つは、食料・資源エネルギーの争奪であり、二つ目は、宗教に色づいた文明の覇権拡大のためです。


この中で、資源エネルギーの争奪は、産業革命以後のことであり、これ以後は、戦争、紛争の主たる原因を占めることになります。どうしてこれが起こるかと言へば、それは、エネルギー資源が地球規模で偏在してゐるためです。

石炭、石油、鯨油、ウラン、天然ガス、シェールガス、レアメタルなど、熱源、動力源及びその触媒の資源が、地球上の一部の地域にのみ偏在し、一部の者が独占してゐるからです。


これを解消するのは、資源の「偏在」から資源の「遍在」へと転換させることです。つまり、エネルギー資源の種類を遍在するものに変更することです。世界に遍在する水、土、空気などをエネルギー資源とする画期的な技術革新、シュムペーターの言ふ創造的破壊のイノベーションを継続することにあります。これにより、資源エネルギーの争奪はなくなり、真の世界平和が実現することになります。


しかし、資源エネルギーの争奪以外にも、食料の争奪があります。

食料の争奪が起こる背景には、気象変動や飢饉などによる食糧危機があります。資源エネルギーのイノベーションが進めば、資源エネルギーの供給が安定し、凶作などの食料の危機がある程度回避できるかも知れませんが、皆無となることはありません。


歴史的に見ても、火山噴火、地震、津波などの天変地異などが引き起こす食糧危機はこれまで数限りなく起こりました。地球の寒冷化は食料問題を引き起こし、これまで食料を求めて民族の大移動が起こつてきました。


そのころ、日本へも支那大陸から1万人もの帰化人が南下してきました。これもまた主に食料問題によるものです。


そして、皇紀14世紀(西紀7世紀末)に、高句麗の復興を目指して建国された渤海が契丹族の建てた遼の侵入(926+660)で滅亡しましたが、二年後に遼は旧渤海の領地を放棄したことがありました。この渤海の滅亡と遼の領地放棄の原因については、我が国の東北地方にまで火山灰が降り積もつた白頭山の大噴火による食料問題ではないかとの見解(金子史朗)もあります。また、モンゴル帝国の拡大も人口問題、食料問題が原因となつてゐます。


さらに、フランス革命の前年(1788+660)にフランスでは大凶作となり、そのことがフランス革命を誘発しましたが、その大凶作の遠因は、我が国で起こつた天明の浅間焼けと呼ばれた浅間山大噴火(天明3年、1783+660)の噴煙が上空に舞ひ上がつて地球を巡つたことによる日傘効果にあつたとされます。このやうに、文明の盛衰と気候変動とは因果関係があると云へるのです。


これまでも、食糧危機などの場合は、民族の移動が起こり、豊かな地域から食料や資源を略奪することが起こります。侵入する民族と侵入される民族との生活基盤産業が同じであるときは「征服」、異なるときは「略奪」となります。


騎馬民族と農耕民族とは、生活基盤産業が全く異なります。畜産を基盤とする騎馬民族の匈奴が農業を基盤とする中原(黄河中流)に南下して、食料を収奪することはあつても、その地で定住することはありません。これは、略奪(looting)です。世界史においては、他民族の生活地を攻撃するといふ意味の侵略(aggression)ではありますが、これは、略奪(looting)を伴つた侵略形態です。これは、世界史においては、「匈奴」の侵略態様にみられる特殊なものです。


これに対し、同じ侵略(aggression)でも、征服(conquest)を伴ふ形態もあります。食糧不足によつて農耕民族が他の土地に移動し、他民族への生活地を侵略(aggression)してその土地に定住することになりますが、征服した他民族を殺すか、あるいは一部を奴隷として農耕労働力として使役します。


奴隷制といふのは、「略奪」戦争及び「征服」戦争による戦利品としての奴隷が制度化したものであり、欧州の農奴制やアメリカの黒人奴隷制は、この系統に属するものです。


殺戮か奴隷か、といふ二者択一ではなく、その中間形態として、支那では「裁兵」といふことが行はれました。敗戦国の敗残兵は、そのまま捕虜として戦勝国の戦力とすることができるのですが、敗残兵をそのまま生かしておけば、これに対する処遇如何によつては反乱を起こしたり、治安が乱れるなどの危険があるので、別の戦争の最前線に送り込んで、消耗させる方法がとられます。

ソ連が満州を侵略したとき、受刑者などに武器を持たせて最前線に送り込み、逃亡する者は問答無用で後方から射殺するといふ方法をとつたのも、これと同様です。

自軍によつて殺すよりも敵軍によつて殺させる。これによつて戦争に勝てば自国のためになり、負けても敗残兵など管理困難な者を抹殺できるので、どちらになつても損にならないといふ訳です。


いづれにしても、「略奪」と「征服」といふ侵略態様の相違が、世界史の社会制度に大きな影響を与へることになりました。


大きな流れとして鳥瞰すれば、匈奴が中原を侵略する目的が「略奪」にあり、これが反復継続したことから、万里の長城が築かれること以上に、中原の住民には、家族主義による防衛意識が芽生えます。そして、歴代の王朝も、これに基づいた軍事組織を整備し、家族単位での徴兵制を敷きます。家族を守り、さらに同族を守るために、家族、同族を代表して徴兵に応じて匈奴の侵入から国家を守るのです。


律令制は、税と兵の中央集権制でした。公地公民、王土王民として、人々に土地を与へることと引き換へに税と兵を義務づけて直接に調達する制度です。しかし、兵士を徴発することは家の崩壊を招くことなることから、家族制についての干渉は行ひませんでした。むしろ、兵役に出た者の土地を残された家族が守るためにも、大家族制がさらに鞏固となりました。そのためにも戸籍の編製は、土地と人との関係と家族構成の把握をすることにおいて当然に必要なものとなりました。


略奪か征服か、そのいづれであるかにかかはらず、外から侵略を受けうる対外的危機に対しては、当然に家族、部族の団結の傾向が高まります。白村江の戦ひで惨敗した我が国でも、唐と新羅の連合軍が我が国を侵略してくるとの危機意識によつて、税と兵の中央集権制による律令制が導入されたのも当然であり、これによつて支那と同様に地方の隅々まで個々の部族社会の団結が高まりました。


略奪の形態が繰り返される支那では、これに対抗する部族の結束はさらに強化され、祭祀の基盤となる家族主義の部族社会が形成されて行きますが、海を隔てた我が国では、頻繁に侵略が繰り返されないことから、対外的危機が高まつたときには家族主義の部族社会が鞏固になるものの、その危機が遠ざかると、部族社会の団結は徐々に稀薄になるといふ傾向が生まれます。


このやうな現象は、「侵略」の危機意識に左右されるものですが、これに対して、「征服」の場合はどうでせうか。


「征服」は侵略の結果ですから、それに至る経緯では、征服される民の側では、侵略の危機意識の高まりにより部族社会は強化されたはずですが、それによつて対抗しても侵略とその結果としての征服を防ぐことができなかつたといふことです。

その結果、多くの者は殺害され、有用と判断された者は奴隷となります。奴隷になつた人々には家族が否定されます。征服者が所有する個々の所有物(商品)であり、子供は将来における労働商品なので、育児といふのはその生産過程として主に母親に養育されるだけで、商品化すれば母親から分離されて取引対象となります。


皮肉なことに、個人主義といふ原理は、奴隷を起源とするものだつたのです。奴隷は、完全な個人主義が適用されるものであり、それが征服者の思想に影響を及ぼすことになつたのです。

平成24年8月1日の「祭祀の道」第41回の「モーセと祭祀」で述べましたが、エジプトに奴隷として拘束されてゐたへブライ民族を救つたモーセの「十戒」に、「汝、父母を敬へ」とあるのは、奴隷は家族の基礎となる父母との関係すら、奴隷個人主義に洗脳されて自覚できなかつたことから、家族の再構築の第一歩としてこの徳目があるのです。


ところで、戦争のもう一つの原因である、宗教に色づいた文明の覇権拡大といふのは、植民地支配の拡大と布教の拡大といふ二人三脚の協働によるもので、祭祀を否定した宗教の拡大が、被征服者の家族主義を崩壊させる結果を生みました。これは、経済と宗教による「征服」の一態様なのです。


このやうに、世界の戦争が人々に及ぼした影響は、本能に由来する家族主義と理性に由来する個人主義といふ両極端の方向へと社会を分離させてきたことにあります。

戦争によつて征服された場合は、被征服者は「奴隷個人主義」により、侵略の危機があつても結果的には征服されない場合は「家族主義」によつて社会が再構築されて行つたといふことです。


そして、征服者は、ニーチェの言ふ「君主道徳」の優越感に浸りながら、いつの間にか祭祀否定の宗教と合理主義の囁きに惑はされて、被征服者の「奴隷道徳」を受け入れる形で「個人主義」を唱へ、親を捨て、祖先を捨て、祭祀を忘れた「砂の民」へと落ちぶれてしまひました。

「砂の民」とは、個々の砂粒同士が結び付かず、風によつて均一に姿を変へる「近代」の衆愚のことです。


この「近代」(modern age)といふ言葉は世紀の誤訳と言へます。mode(様式)とかmodel(模型)の同類語であるmodernは、均一、均等の意味であり、「近代」ではなく「均代」と訳すべきでした。

すべてが画一化し均等化し、個性が没落します。人を見ても、町をみても特徴がなく同じに見えます。家族から遊離した個人なるものが時代の表に躍り出ました。

農業、漁業、林業等を営んできた共同社会の「土の民」が減少して、工業、商業等の利益社会の中心である都会に流入した「砂の民」が急増しました。

古い時代の残影を残しつつも、共同体のすべて破壊し尽すことを個人主義の名の下に家族主義を駆逐することに意欲を持ち始めた時代が「均代」であり、その完成期が「現代」です。


この個人主義が、その侵略を防いできた家族主義の社会にまで深く浸透して現在の世界になつたと言へるのです。

南出喜久治(平成31年4月15日記す)


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