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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百三十四回 しろしめすとうしはく

わきまへは みづからのらぬ うしはくち つねみづからの しろしめすみち
(辯へは親ら裁らぬ領く(統治)道常躬らの知ろし召す(祭祀)道)


前回(第133回)は、祭祀による統一といふしろしめすの道について述べました。


我が国は、例外的に一部で限定的に武力が用ゐられることはありましたが、全体としては、祭祀による統一による肇国です。


そして、その後も、国内の混乱などを終息させるために限定的に武力によるうしはくの道が選ばれることがありましたが、我が国の地政学的な利点もあつて、海外からの侵略も少なく、長期に亘つて、しろしめすの道として祭祀の道が守られてきました。

王覇の辨へとして、権威(王道)であるしろしめすの道は、権力(覇道)であるうしはくの道を随へてきました。


この王覇の辨へは、聖俗の辨へ、齋政の辨へに対応します。
「聖」=「齋」=「王」=「祭祀」=「しろしめすの道」
「俗」=「政」=「覇」=「統治」=「うしはくの道」
といふことです。


これからは、「しろしめすの道」を「聖」と略称し、「うしはくの道」を「俗」ないしは「統治」と略称することにします。


『古事記』上巻によれば、「詔者、此之鏡者、專爲我御魂而、如拜吾前、伊都岐奉。次思金神者、取持前事爲政。(みことのりたまひしく、「これのかがみは、もはらわがみたまとして、わがまへをいつくがごといつきまつれ。つぎにおもひかねのかみは、まえのことをとりみもちて、まつりごとせよ」とのりたまひき。)」とあり、天照大神の御霊代(みたましろ)、依代(よりしろ)である三種の神器の一つである「寶鏡」の「奉齋」と、これに基づく思金神(おもひかねのかみ)の「為政」、つまり、「齋」(王道)と「政」(覇道)との弁別がありました。つまり、天皇(総命、スメラミコト、オホキミ)の「王者」としての「権威」(大御稜威)に基づく「覇者」への委任により、覇者がその「権力」によつて統治する王覇弁立の原則です。これは、天皇の親裁による政治(親政)ではない「天皇不親政の原則」でもあり、あくまでも原則であつて、国家の変局時には例外的に「天皇親政(天皇親裁)」に復帰する点において、「統治すれども親裁せず」の原則であつて、英国における「君臨すれども統治せず」といふものとは本質的に異なるのです。


ともあれ、このやうな原則で統一された我が国の社会構造は、①天皇、②皇族、③公家、④社家、⑤寺家、⑥武家、⑦庶民といふ構成に収斂されて行きました。


そして、①から⑦までは、下方への流動性があります。

この中で、「聖」なるものは①のみで、②以下は「俗」です。②以下についても、「聖」なるものがあるのですが、それは下方流動性との関係で相対的なものに過ぎません。下方から見ればその上方は「聖」と見えるのです。


①は、祭祀の主宰者であり、②以下はその補助者です。そして、②以下も、それぞれ自らが自己の祭祀の主宰者となります。その意味で「聖」なのです。


ところが、②以下の「俗」なるものには、下方流動性のみならず、例外的な上方流動性もありますが、③以下の者が②に上昇しても、決して①には上昇できません。①と③以下とは、②を介して分離されます。道鏡が天皇になれなかつたのはその例です。


このことを前提として、祭祀による統一した我が国のその後の歴史を見てみます。


結論を言へば、「聖」は常に①であり、「俗」は②から⑦に向かつて移動する変化が起こりました。現在では「俗」は⑦ですが、それまでの過程は複雑なものでした。


「俗」(統治)の初めの形態は、①から②へと、そして③へと徐々に移行しました。皇室と姻戚を持つた豪族が③の集団として統治することになりました。それが公家政治であり、藤原氏の摂関政治です。そして、その後は「院政」が続きますが、この院政といふのは、上皇又は法皇の統治であり、②の統治です。決して天皇親政ではありません。

そして、④と⑤は、これらの統治と並存し、あるいは対立したり傘下に入つたりして命脈を維持してきました。


統治といふのは、その実質は土地を支配することであり、その土地からの産物(米など)を獲得することです。


そして、②③④⑤による棲み分けの寡占的な統治が、次第に変化します。それは⑥の台頭です。

当初は、②③④⑤の家臣であつた⑥が、主家の統治に加はつてきたことです。


平安時代末期から、源平の争ひを経て、源頼朝が鎌倉幕府を開いたころまでは、②③④⑤⑥が入り乱れた統治の棲み分け状態でしたが、北条義時が承久の乱に勝利した後は、統治は⑥が独占します。


そして、その後に鎌倉幕府が崩壊し、後醍醐天皇の建武の中興、そしてその崩壊を経て、室町幕府が開かれ、戦国時代に突入し、織豊政権が生まれた後、関ヶ原の戦ひ、大阪冬の陣、夏の陣を経て徳川政権が確立し、最後には戊辰戦争で倒幕されるまでの武家政権は、一時的には建武の中興では②と⑥の共同統治があつたものの、その殆どの時代が⑥のみによる統治の独占状態が続いたのです。


その武家による単独統治が始まつた承久の乱について、朝廷と鎌倉幕府との戦ひであるあると説明されることが多いのですが、実際は、そんな平面的な二元対立ではありません。

これは、あくまでも②と⑥との覇道争奪の戦ひであつて、①はこれに中立でした。承久の乱は、①②⑥の三元で捉へなければならないのです。


『國體護持総論』第一章では、このやうに述べました。


「大化の改新以來、邪惡な權力の打倒を根據付けた「維新思想」や、承久の亂(1221+660)において鎌倉幕府側が依據した「君側の奸」を排除する思想は、皇統の權威(大御稜威)の普遍性を基礎として、權威に整合しない權力を打倒し、「覇者といへども王者の下にある」とする神政政治の理念であり、「國體の支配」の理念なのである。

承久の亂は、仲恭天皇が僅か四歳で踐祚された承久三年(1221+660)四月二十日の翌五月に勃發した。天皇が讓位後に上皇となつて「院政」を行ふやうになつたのは白河上皇の時代(1086+660)から始まり、この戰亂も後鳥羽上皇の建久九年(1198+660)正月から始まつた長期院政下に起こつた。院政は、天皇を讓位した上皇が「治天下の君」(治天の君)となつて、天皇に代はつて政務を執る政治形態であり、このことによつて、藤原氏が天皇の外戚として攝政や關白として政務を執る攝關政治を排除したことに意義があつたものの、天皇親政を認めないことにおいては、攝關政治と同樣でありその弊害もまた同じである。承久の亂は、上皇側も鎌倉側も、君側を清め奸臣を除くとの大義名分に基づく天皇不在の覇權爭奪戰爭であつたのである。

ともあれ、神政政治の理念は、我が國における「法の支配」の理念であり、それが王覇辨立の原則である「王覇の辨へ」をも演繹するものである。」


つまり、承久の乱が起こるとき、当時の順徳天皇は討幕に積極的であつため、天皇の「聖」を守るために、懐成親王(仲恭天皇)に譲位して、自由な立場となつて後鳥羽上皇に協力された。また、北条義時追討は、勅命ではなく、院宣によるものに過ぎないのです。

院宣とは、上皇からの命令を受けた院司が、奉書形式で発給する文書であつて、天皇の発する宣旨ではありません。


かくして、承久の乱は、②と⑥の君側同士の争ひであり、東国の土地支配者(⑥)と西国の土地所有者(②)が争つた結果、東国の覇者であつた北条義時が「一所懸命」の鎌倉御家人に西国の土地を恩賞にすることを動機付けにして勝利し、武家が全国の土地を支配者する覇者となつたといふ「俗」の事件なのです。


そして、明治維新により武家が統治する時代が終はり、①と⑦の共治の時代となつたが、その実態は、あくまでも「統治すれども親裁せず」といふ原則であつた。決して「君臨すれども統治せず」ではないのです。

しかし、敗戦後には、⑦のみが統治するといふエセ憲法(占領憲法)が出現し、天皇は「俗」の象徴として閉じ込め、「聖」(祭祀大権)を否定することが唱へられることになつたのです。


これは、崇徳院の「日本国の大魔縁となり、皇を取つて民とし民を皇となさん」との怨念と重なりますが、聖俗の辨へといふ伝統の力と祭祀の実践によつて、これを消し去ることが必要となります。

南出喜久治(令和元年11月1日記す)


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