連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編
第百四十六回 祭祀と宗教 その七
いつきすて おやうまごすて ゆだぬれば すくふとだます あだしのをしへ
(祭祀棄て祖先子孫棄て委ぬれば救ふと騙す外國の宗教)
戦争や内乱は、いろいろな視点から分類することができます。
これまでの戦争や内乱は、寒冷化、火山噴火、異常気象などによる食糧危機、飢饉、疫病(感染症の拡大)などの自然災害により、食料争奪、土地争奪、民族移動などによつて引き起こされたものや、宗教の教義によつて正当化した殺戮行為、物欲による植民地収奪、そして、それに迎へ撃ち排除しようとする自衛と独立の運動によつて引き起こされたものなどがありました。
戦争や内乱の原因、目的、戦略、戦術、戦闘などによつても、これらを詳細に分類することができますが、ここでは、内乱も含めて広義の戦争について、「理性戦争」と「本能戦争」といふ分類を試みます。
理性戦争には、宗教戦争、思想戦争、植民地征服戦争、経済戦争などです。これらは、計算による利益追求と打算によるものだからです。
他方、本能戦争といふのは、部族自衛戦争、植民地独立戦争などの防衛戦争です。
ちなみに、大東亜戦争の本質は、本能戦争(自衛戦争)ですが、勿論、戦略的には理性戦争でした。
ともあれ、理性戦争の典型的なものは、宗教戦争です。
宗教は、いつも戦争やテロなどによる殺戮の原因になります。
十字軍戦争(基督教暦11C~15C中頃)、ドイツのシュマルカルデン戦争(基督教暦1546~47)、フランスのユグノー戦争(基督教暦1562~98)、オランダ独立戦争(八十年戦争)(基督教暦1568~1648)、ドイツ三十年戦争(基督教暦1618~48)などに加へて、これまで数次に亘る中東での戦争や内乱は、すべてこれに含まれます。
また、いま、起こつてゐる宗教テロは、キリスト教とイスラム教の対立による「水平テロ」です。水平テロといふのは、キリスト教信者とイスラム教信者とが、それぞれの信者を殺戮し合ふことであり、それが信仰の証であるとして行はれるものです。
決して、宗教指導者や政治主導者、それに、世界の資産と利益を独占して犯罪的とも言ふべき格差拡大を推進する超富裕層など、世界支配を操る上層部へのテロ、つまり、「垂直テロ」ともいふべき政治テロではありません。
宗教による殺戮は、それだけではありません。魔女狩りといふものが、基督教暦15世紀から18世紀に欧米でありました。魔女裁判(異端審問)で死刑になつて殺された人は約6万人に上ります。アメリカでもセイラム魔女裁判といふ有名なものがあります。これらは、魔女狩りといふキリスト教の宗教テロです。
キリスト教だけではありません。イスラム教でも魔女狩りがあります。
つまり、異教徒を殺すのも、同じ信仰を持つてゐるとしても、似て非なる近親憎悪を抱く異端者を殺すことも、すべて神(God)の命ずるものだとするのです。
これは、この指止まれ、といふドグマを持つ一神教の宿命です。
このやうな異端者や異教徒への排除については、仏教も例外ではありません。
仏教は、もともと非人倫的な教へです。
前にも述べた、釈迦が率ゐたサンガ(出家修行者集団、僧伽)が説いたものは、苦(ドゥッカ)の輪廻からの解脱であり、世俗で生きる処世としての人倫や道徳には関心がないからです。輪廻からの解脱を求めるためには出家と修行をし、出家ができなくても善行としての八正道を実践する必要があるといふのです。
悟りを得ることを至上命題とし、その方法論としての苦集滅道の4つの真理(四諦)を説きます。そして、苦を滅するための道である八正道といふのは、出家者でなければできない営みであつて、出家者といふ特権者意識に支へられた現実から遊離した教へに過ぎません。そのために人倫から無縁の教へとされるのです。
ところが、我が国に伝来した仏教は、神仏混淆、神仏習合によつて人倫的な訓告をすることになりましたが、それは仏教において本質的なものではありません。人倫的な教へを説くやうになつたのは、信者を増やすための方便であり、あくまでも、その本質は、隠棲、遁世、世捨て人のための非人倫的なものなのです。
このやうな教へなので、この本質を否定する異教徒や異端者に対して攻撃的になるのは当然です。
異教徒や異端者は仏敵であり、地獄に落ちると説くやうになります。
たとへば、日蓮は、過激なまでに他の宗派の批判を行なひました。
「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」の四箇格言です。
真言密教は国を亡ぼす教へであり、禅宗は天魔のなせる業、念仏を称へる者は無間地獄に堕ち、律宗は人を惑はす国賊であると。
その信念から、他宗派の信者を排除して殺戮することが信仰の証となるのは、仏教の各宗派に共通した行動です。殺生を戒めた仏教でありながら、興福寺、延暦寺、圓城寺などで武装した僧侶などは、平気で殺生を行ひましたし、一向一揆、真宗一揆、法華一揆なども同様です。
このやうに、世界宗教なるものは、人を救ふと説きながら人を殺します。
そのくせ、自らの教へは、これまで民族が守り続けてきた平和で穏健な祭祀の信仰を原始宗教であるとか迷信であると名付けて蔑み、優越感を誇示します。
そして、このことを擁護するために、学問の名を借りて次のやうなことが唱へられるやうになりました。
基督教暦19世紀後半に、イギリスの人類学者、E・B・タイラーが、アニミズム(animism)といふ考へを唱へました。アニミズム(精霊信仰)とは、生物・無機物を問はず、すべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿り、しかも宿つたものから独立して存在しうる霊魂や精霊があるとするもので、これを宗教の起源だとする考へ方です。
このアニミズムの語源は、ラテン語のアニマ(anima)に由来するもので、気息、霊魂、生命を指す言葉です。
そして、タイラーの弟子であるR・R・マレットは、霊魂や精霊などといふ観念的な実態を認知する前に、未開の民族では、万物は生きてをり、それに宿る活力や生命力を観念したものがあり、それをプレアニミズム(アニマティズム)としました。
タイラーとマレットの認識の違ひは、実に些末なものです。そして、これらの認識に対して、我々が特に大きな違和感を持つのき、アニミズムなどが「未開の民族」の信仰であるとする点です。
要するに、世界宗教の立場からは、アニミズムは原始宗教の起源であつて、未開人の宗教観であるとの蔑視感から生まれたものだからです。
しかし、精霊信仰と祭祀とは不可分のものであり、人類発生とともに生まれた根源的、始原的な信仰世界なのです。未開を連想する「原始」ではなく、根源的、本質的な意味での「始原」の信仰なのです。
ところが、一神教世界では、自己正当化のために、原始宗教の多神教から、世界宗教の一神教へといふ「進化論」を用ゐた説明をしたのですが、これらがいかに史実とは異なつた虚偽ものであることは多言を要しないほど明らかです。このやうな一神教の成立こそ、人類全体の信仰世界を歪めることになつたのです。
孝を棄て祭祀を捨てたことにより、世界宗教は、人類を不幸にしました。それが普遍的な価値を得たと錯覚した近代人、現代人の誤りは、まさにここにあるのです。
孝を棄て祭祀を棄てた世界宗教は、人類の信仰世界を「退化」させたのです。
このことは一神教だけでなく、仏教にも言へることです。仏教では、諸行無常、生者必滅を説きながら、その反面で、仏の不滅性(法身常住)と衆生の成仏の可能性(悉有仏性)といふ真逆のことを説きますが、これは、始原的な精霊信仰と祭祀を変形的に取り入れたものに過ぎません。
ところで、我々は、どんな宗教を信心してゐても、死者がどんな宗教を信じてゐたとしても、その人の葬儀が行はれ、それに参列して、遺影の前で最後のお別れといふ認識で故人と向き合ひます。
これは、万国共通のことです。
しかし、どうして人々は葬儀をするのでせうか。葬儀とは何のためにするのでせうか。死んだのに誰と向き合ふのでせうか。こんなことを素朴に考へてみることが必要です。
最後のお別れといふのであれば、人々は、少なくとも葬儀が終はるまでは、その人は死んでゐないといふ観念を抱いてゐます。死んだら直ぐに離別するはずなのに、最後のお別れをするといふことは、それが終はるまでは死んではゐないと信じてゐるからです。
しかし、葬儀が終はれば、すべてが無になるとは思ひたくないはずです。きつと、それ以後もどこかで生きてゐると信じてゐるのです。
これは無意識において、霊魂の存在を信じてゐるからなのです。
ところが、一神教は、偶像崇拝を禁止してゐます。
肖像画や写真を飾つて、拝礼することも偶像崇拝になります。これを許すと、精霊信仰(アニミズム)を蘇らせて祭祀を復活させる契機となり、一神教が崩壊してしまふからです。
伝来仏教の場合は、仏像崇拝を許し、位牌への拝礼などを認めますが、これは、神仏混淆、神仏習合の結果であり、本来の仏教ではありません。
このやうに、葬儀とその継続である祭礼(法要、法事)といふのは、精霊信仰(アニミズム)に支へられたもので、決して未開社会の原始宗教として蔑むものではなく、人類の始原的で揺るぎない信仰であると教へ続けてゐるのです。
南出喜久治(令和2年5月1日記す)