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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百四十七回 祭祀と宗教 その八

いつきすて おやうまごすて ゆだぬれば すくふとだます あだしのをしへ
(祭祀棄て祖先子孫棄て委ぬれば救ふと騙す外國の宗教)


我が国では、これまでに祭祀が根底から否定される危機がありました。

それは、支那気触れ、仏教気触れによる災禍でした。


仏教の伝来に関しては、私伝は相当に古く、公伝についても諸説があります。

『日本書紀』によれば、欽明天皇13年(552+660年、壬申)10月に百済の聖明王(聖王)の使者が、仏像や経典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記されてゐます。


それまで偶像崇拝のない我が国において、黄金に輝く仏像を見て大きな衝撃を受けたはずです。そして、後になつて、我が国の神々と同列の蕃神(あだしくにのかみ)として、今来の神(いまきのかみ)として受け入れることになります。

しかし、簡単に受け入れられたのではありません。いはゆる崇仏論争といふか、流血の内乱がありました。そして、最終的には、蘇我氏と物部氏との対立は、丁未の役(587+660年)に、蘇我馬子が、武力をもつて物部守屋を滅亡させたことにより仏教を受容することになります。その後、蘇我氏の支援により推古天皇が即位し、聖徳太子が摂政となります。


これまで大和朝廷の天津神、国津神の祭祀(いはひまつり)を司つてきた物部氏や中臣氏などは、仏教の受容には否定的でしたが、渡来人勢力と提携して、その文化、芸術、土木建築などを取り入れることに熱心であつたのが大豪族の蘇我氏だつたのです。


しかし、このころの仏教といふのは、宗教といふ宗教思想以外に、土木、建築、彫刻、絵画、装飾、音楽、服飾など、当時における世界の最先端の総合文化を含んだものでした。

これを受容することにこそ価値と利益を見出し、特に、隋朝を建てた文帝が、国寺としての大興善寺を建てて仏教治国策を始めたことから、隋の最先端文化を受容して国力を強化するために、仏教を受容することが我が国の国策になつた訳です。


その結果、仏教を受容しますが、仏教の受容と言つても、これまでの八百万の神々への信仰を棄てて、これに代へて仏を信仰するといふものではなく、仏もまた蕃神(あだしくにのかみ)とか、今来の神(いまきのかみ)として受け入れるといふものです。それは、推古天皇の御詔勅に、「祭祀神祇、豈有怠乎」(あまつかみくにつかみをいはひまつること、あにおこたることあらむや。)とあることからも、「祭祀神祇」の國體を守ることが国是だつたのです。仏教気触れに節度を求めてゐたのです。


しかし、それまでの間に、物部守屋や中臣勝海らにより、仏像の廃棄や伽藍を焼却したり、尼僧らの衣服をはぎ取り、海石榴市で鞭打ちするなどしたといふ大規模な廃仏毀釈の行動に対する憎悪的な反動が、その後における極端な仏教気触れ、支那気触れを生んだ原因にもなりました。


遣隋使、遣唐使の歴史は、まさに支那追随の歴史であり、律令制を導入し、支那の文化を全面的に受容して、極端な仏教気触れや支那気触れを生む土壌になつたのです。


そして、藤原仲麻呂や玄昉、吉備真備などが入唐して帰朝したころが、支那気触れの者たちによる統治の最盛期でした。


律令制については、特に、大和言葉を廃止して支那語にすることが望ましいとまで入れ込んだ江戸時代の藤原惺窩のやうに、藤原仲麻呂も、支那の律令制に倣つて官職名をすべて唐風に改称し、天皇といふ名称も廃止して皇帝とするなど、我が国の歴史や伝統を悉く破壊しようとしました。

律令制の導入は、我が国古来の政治風土を破壊しました。このことは、藤原仲麻呂でなくても、上層部が支那気触れであつたため、早晩、唐風改称になつた筈です。


ところが、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)が起こり、藤原仲麻呂が滅んだために、唐風改称は原則として廃止されましたが、その一部は存続しました。藤原仲麻呂が謀反を起こさなければ、太政大臣を大師、左大臣を大傅、右大臣を大保といつた改称のままだつた筈です。


それだけではありません。吉備真備は、聖武天皇の皇太子である阿部内親王(後の孝謙天皇)の教育係として阿部内親王を支那気触れ、仏教気触れに育て上げました。


仏教気触れの文武天皇、聖武天皇、光明皇后、孝謙天皇(称德天皇)と続けば、神国を廃して仏国土とすることに抵抗がなくなります。

さうなれば、仏国土を修めるのは僧侶であり、神国の祭祀を行ふ天皇である必要はなくなると考へることになります。といふよりも、高僧が天皇となつて仏国土を修めればよいといふことになります。


だから、孝謙天皇は、重祚して称德天皇となつて、道鏡を天皇としようとしたのです。吉備真備が、もし、やまとだましひを持つてゐたのなら、身命を賭して阻止した筈ですが、それをしませんでした。


しかし、「天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし。」との宇佐八幡宮のご神託を伝へて、称德天皇の激怒に触れて左遷させられた和気清麻呂は、仏教気触れでも支那気触れでもなかつたから、敢然とこれができたのです。清麻呂は、やまとだましひを持つてゐたからです。


和魂漢才とは、一般には、和魂を以て漢才を用ゐるといふことですが、和魂、すなはち、やまとだましひとは、本能のことであり、漢才(からざえ)とは理性のことであると理解すれば良いのです。「たましひ」といふのは、理性ではなく、本能から湧出するものです。


学者が右大臣にまで上り詰めたのは、吉備真備と菅原道真の二人だけですが、吉備真備は、何度も藤原氏の横暴により左遷されながらも不死鳥のように復帰して右大臣になりましたが、菅原道真は右大臣になつたことから藤原氏らの讒言によつて太宰府に左遷され非業の最期を遂げました。


道真は、遣唐大使に任ぜられても、唐の混乱等を理由に遣使の再検討を求める建議を提出して遣唐を廃止しようとしましたが、支那気触れの者たちによつて、廃止することが許されないまま、道真は遣唐大使の職にありつづけたまま、遣唐を拒み続けました。


そして、延喜7年(907年)に唐が滅亡したことから、結果的には、遣唐使の歴史は終はり、以後は国風文化が花開いたのです。

しかし、道真は、謀反を企てたとする讒言によつて太宰府に左遷されました。その背後には藤原時平らの支那気触れたちの一大勢力による後押しがあつたからです。


道真の死後、天変地異が重なり、雷神、怨霊として恐れられ、遂に神となります。早良親王や崇徳上皇などの怨霊を鎮め、その力にあやかる伝統的な御霊信仰によつて神となるのです。貴種流離譚に通ずる伝統的な信仰形態です。


道真が死に臨んで、怨霊として恐れられるほどの強い怨念を残したとは到底思はれませんが、いづれにせよ、道真は、百数十年前の藤原仲麻呂や称徳天皇の時代に、支那気触れによつて我が国を危うくすることを防いだことの自負があつたと思ひます。


ところで、道真は、優れた漢詩を多く残してゐますが、和歌も多く残してゐます。その多くは、「情」の和歌であり、「理」の和歌ではありません。


東風吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな(春な忘れそ)


は、典型的な情の和歌です。


ところが、


心だに 誠の道に かなひなば 祈らずとても 神や守らむ


といふ和歌が道真の和歌だと言ひ伝へられてゐます。この真相は定かではありません。

この「心だに」の和歌は、山崎闇斎の垂加神道の思想を連想させる「理」の和歌であり、この歌意については、後世に議論があつたものです。


垂加神道は、陰陽五行の理によつて神典を解釈する「漢意」の教へであり、儒仏の「さかしら」であると本居宣長は批判してゐます。


「直毘霊」には、「心ダニ誠ノミチニカナヒバト云ハ儒佛ノ見ニシテ痛ク神道ニソムケリ」と説いてゐるのです。


誠の心があれば神に祈る必要は無く、祈らずとも神が守つてくれるといふのは、神に対する極めて不遜な態度であり、合理主義そのものです。


神には、善神と悪神の区別がありません。神は、神であるからこそ尊いのであり、善悪によつて決まるのではありません。天皇が、天皇であるからこそ尊いといふことと同じなのです。

祖先祭祀、自然祭祀、英霊祭祀といふ祭祀、そして、その宗家における天皇祭祀においては、祖先(皇祖皇宗)、自然、英霊の善悪とは関係がありません。人に恵みを与へ、また、あるときは災厄をもたらす自然も、その生涯において善行、悪行や毀誉褒貶を受けた祖先や英霊であつても、そのまま祖先として、そして英霊として「いはひまつる」のが祭祀です。いのちとなりはひを代々受け継ぐことができたことに対する感謝の気持ちが祭祀の原点です。不幸にして親との縁がなく、親に棄てられたなどの理由があつたとしても、祖先への恩を忘れて賢しらに祖先祭祀を否定することはできません。

祭祀の道を棄てて、誠の道に叶つてゐるとの自惚れた心によつて、祈らなくても当然に守つてもらへるとか、あるいは、己にとつて都合の良いことを叶へてくれると判断した神を選んでその御利益を願つて参拝するなどといふ功利的、打算的な考へは、祭祀の道からは大きく外れます。


西行法師が、


なにごとの おはしますをば しらねども かたじけなさに なみだこぼるる


と詠みましたが、これは、理性で判断して祈るのではなく、清き明き直き本能で祈ることの素直な気持ちなのです。

祈ることが必要なのであり、「祈らずとても」といふのは、理性至上主義であつて祭祀ではありえないことです。


歌道と神道(古道、祭祀)とは一如であり、いづれも「なさけ」と「もののあはれ」の世界です。歌道は、祭祀の手向けのためにあるのですから、理の和歌を詠つても、それが祭祀を否定するものであれば、歌道から外れたものとなります。


和魂漢才の和魂とは、やまとだましひといふ本能であり、漢才とは、理性のことであると言ひましたが、「心だに」の和歌は、神への祈りを蔑ろにするもので、ここには和魂がありません。

それゆゑ、「心だに」の和歌は、和魂漢才の道真が詠んだ和歌ではないと思つてゐます。


しかし、いづれにしても、道真は、支那気触れ、仏教気触れが国を滅ぼすことの危険を感じ、遣唐使を廃止して、支那と距離を置いてその危険を除去した、我が歴史上最大の功労者であることに間違ひはないのです。

南出喜久治(令和2年5月15日記す)


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