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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百五十五回 帝国憲法の現存証明 その五

ななそまり むをちのすめの いつくしき のりしろしめす とこしへのみよ
(七十餘六條の皇國の稜威奇しき法(大日本帝國憲法)知ろし召す永代の御代)


⑮ 昭和27年4月28日 サンフランシスコ講和条約発効


我が国は、帝国憲法第13条により、戦争状態を終了させ、長い「占領トンネル」から抜け出して独立を回復することになりました。

占領トンネルとは、ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印を「入口条約」として、「中間条約」と評価される占領憲法(東京条約)、そして、「出口条約」となるサンフランシスコ講和条約(桑港条約)の一連の「講和条約群」のことです。


しかし、敗戦利得者に牛耳られた傀儡政府は、GHQと共同して、憲法普及会なる官製の洗脳組織によつて、占領憲法を憲法だと信じ込ませ、偽憲法の占領憲法を憲法として成り済ませて憲法の地位に居座り続けさせます。


占領憲法は、非独立時代の戦争状態に誕生したものであり、独立国の憲法ではないことなど、その出自に疑問があることが明らかになつたのです。


占領憲法には、多くの無効理由があることからして、出自が如何はしいことが明らかですが、敗戦利得者によるすさまじい官民一体の洗脳運動があつたことを忘れてはなりません。


占領憲法が公布された翌月の昭和21年12月1日、帝国議会は、「憲法普及会」を組織します。官製の洗脳運動の始まりです。この憲法普及会は、衆貴両議員を評議員とし、評議員と院外者(学者、ジャーナリストなど)の中から理事を選任し、会長は芦田均(衆議院議員)、事務局長は永井浩(文部官僚)が就任。院外者の理事には、河村又介(九大・憲法)、末川博(立命館・民法)、田中二郎(東大・行政法)、宮澤俊義(東大・憲法)、横田喜三郎(東大・国際法)、鈴木安蔵(憲法)などの傀儡学者の他、ジャーナリスト、評論家では、岩淵辰雄、小汀利得、長谷部忠など、敗戦利得者が就任しました。この中央組織の下に各都道府縣に支部が翌年1月から3月までにつくられ、京都支部以外の支部長は各都道府県知事が就任し、その支部事務所は各都道府県庁内に設置されます。まさに、占領憲法による洗脳運動の「大政翼賛会」であり、その活動はGHQの指図に基づいたものでした。


そして、翌昭和22年1月17日、憲法普及会の常任理事会が首相官邸で開催され、GHQ民政局員のハッシーとエラマンが出席しました。全国を十区域(東京、関東、北陸、関西、東海、中国、四国、九州、東北、北海道)に分け、各地区で4日ないし5日間の日程で講師による中堅公務員の研修を実施することを決定し、これに基づき、同年2月15日、憲法普及会が東大法学部31番教室で664名の公務員(各省庁及び警察庁から約50名づつ)を集めて憲法研修会を実施(同月8日までの4日間)。その演題は、「開講の辞」(会長・芦田均)、「新憲法と日本の政治」(会長・芦田均)、「近代政治思想」(東大講師・堀眞琴)、「新憲法大観」(副会長・金森徳次郎)、「戦争放棄論」(東大教授・横田喜三郎)、「基本的人権」(理事・鈴木安蔵)、「国会・内閣」(東大教授・宮澤俊義)、「司法・地方自治」(東大教授・田中二郎)、「家族制度・婦人」(東大教授・我妻栄)、「新憲法と社会主義」(代議士・森戸辰男)、「閉講の辞」(事務局長・永井浩)といふものでした。


つまり、「自衛の戦争といえども、今後は戦争をいっさい行わない」「外国から急に攻められるような場合には、一応自衛権を認めるけれども、国際連合がその自衛権が正当か否かということを判断して、その後は国際連合が引受けることとし、国際連合が活動できない暫定的の間だけ、自衛権を認めることになっております。」といふ極めて間の抜けた主張でした。


ちなみに、横田喜三郎は、昭和26年9月8日の桑港条約と旧安保条約調印後に、一転して、自衛権を一般的に肯定し、武力なき自衛権の行使として米軍駐留と基地提供を認めるに至り(『自衛権』(有斐閣)昭和26年)、その変節の功績によつて最高裁判所長官へと上りつめたのです。宮澤俊義の変節は有名ですが、敗戦利得者の傀儡学者といふものはそんな程度のものなのです。


ともあれ、占領憲法が「ただしい、すばらしい」といふ洗脳書は、この『新憲法講話』以外にも、内閣法制局閲『新憲法の解説』(昭和21年11月発行)があります。これは、全文94頁のもので、20万部発行されました。


さらに、徹底した洗脳目的で、一般国民を対象とした憲法普及会主催の講演会を全国各地で開催しました。一例を挙げれば、群馬県では382回、6万人余の受講者を動員したのです。また、石川県では108回、1万2000人、長野県では56回、1万4000人を動員したのです。


そして、憲法普及会編『新しい憲法 明るい生活』(昭和22年5月3日発行)に至つては、全文30頁のもので、それを2000万部発行したのです。この部数は、当時の我が国の全世帯数に相当する部数です。これを各戸に配布したのです。その中で、芦田均は、「新しい日本のために」と題する文を掲載し、「新憲法は、日本人の進むべき大道をさし示したものであって、われわれの日常生活の指針であり、日本国民の理想と抱負とをおりこんだ立派な法典である。」と、歯が浮くやうな軽薄な言葉で洗脳に加担したのです。


この『新しい憲法 明るい生活』は、憲法普及会と文部省教科書課が第一稿を作成し、東大の横田喜三郎と田中二郎が推敲して、芦田均と金森徳次郎が審査した後、GHQ民政局員ハッシーが監修したもので、明確な洗脳文書です。


これを投票用紙の配布と同様の方法で全戸に無料配布したのです。昨今の教科書の偏向どころの騒ぎではありません。さらに、洗脳の仕上げとして、全国から懸賞論文の募集をしました。審査委員は、芦田均、金森徳次郎、宮澤俊義、横田喜三郎です。


また、制作指導や資金援助をした映画も作られました。『新憲法の成立』、『情炎』、『壮士劇場』、『戦争と平和』などです。それだけではありません。児童向け短編映画、幻灯、紙芝居、カルタなど、臣民のすべての階層を洗脳しました。

音楽では『われらの日本(新憲法施行記念国民歌)』、『憲法音頭』まで作られて、すべての行事に演奏されたのです。新憲法施行記念式典では、『君が代』ではなく、「平和のひかり 天に満ち 正義のちから 地にわくや われら自由の 民として 新たなる日を 望みつつ 世界の前に 今ぞ起つ」といふ歌詞の『われらの日本(新憲法施行記念国民歌)』が演奏されました。まさに、国民洗脳運動が官民、GHQの総動員体制で繰り広げられたのです。


ともあれ、占領憲法を「平和憲法」などとして、第9条は我が国が自発的な不戦の誓ひをした成果であるかの如く喧伝されることになつたもの、この壮大絶後の洗脳運動によるものです。


しかし、占領憲法第9条第2項の前段(戦力の不保持)は、ポツダム宣言の「完全武裝解除」(第9項)をそのまま受け継いだものに過ぎません。

そして、占領憲法第9条第2後段の「交戦権の否認」は、ポツダム宣言の「軍隊の無条件降伏」をすべて受け入れて規定したものです。つまり、将来に向けて、どんな戦争状態になつても不戦の誓ひ立てて、予め降伏することにするので、戦争権限(交戦権)は不要だといふことです。


ですから、占領憲法第9条といふのは、ポツダム宣言のとほり忠実に規定されたものであつて、制定に至る経緯において、特定の誰かが発案したといふやうな代物では全くないのです。


9条(窮状)を守らう!といふ思想勢力は、ポツダム宣言を守らう!といふストックホルム症候群に陥つた負け犬と同じことを叫んでゐるのです。平和愛好家ではなく、服従・隷属に快感を覚えるマゾヒストに他なりません。


いづれにせよ、桑港条約の発効によつて、戦争状態が終了して我が国が独立したのは、帝国憲法のお陰なのです。占領憲法では、法理論的に、戦争状態を終了させることも、我が国が独立することもできなかつたのです。


⑯ 同日(昭和27年4月28日) 日華平和条約調印


⑰ 昭和27年8月5日      日華平和条約発効


この昭和27年4月28日と同日に、蒋介石の中華民国政府との日華平和条約が調印されます。桑港条約発効の7時間30分前のことです。


この日華平和条約は、その第1条に、

「日本国と中華民国との間の戦争状態は、この条約が効力を生ずる日に終了する。」

とあります。


つまり、桑港条約と同様に、中華民国との戦争状態は日華平和条約の発効によつて終了することになりますので、これについても帝国憲法第13条によるものです。

そして、日華平和条約が発効し、我が国との戦争状態は終了することになります。


⑱ 昭和31年10月19日 日ソ共同宣言調印

⑲ 昭和31年12月12日 日ソ共同宣言発効


また、ソ連との間の戦争についても同様に、この日に日ソ共同宣言が調印されますが、これも帝国憲法第13条に基づくものです。


この日ソ共同宣言は、その第1条に、

「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の戦争状態は、この宣言が効力を生ずる日に終了し、両国の間に平和及び友好善隣関係が回復される。」

とあります。


つまり、これも桑港条約と同様に、ソ連との戦争状態は日ソ共同宣言の発効によつて終了することになりますので、これについても帝国憲法第13条によるものです。

そして、この日ソ共同宣言も発効し、日ソ間の戦争状態は終了するのです。


しかし、戦争状態は終了しても、領土問題、残留財産の清算問題、シベリア抑留問題、賠償問題等が未解決なため、将来において最終講和条約が必要となります。


そして、この最終講和条約が締結されるまでは、帝国憲法は当然に生きてゐることになるのです。

南出喜久治(令和2年9月15日記す)


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