自立再生政策提言

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百七十八回 飽和絶滅の危機 その二十二(最終回)

ほやのきが はげしくしげる そのはてに さくらほろびて ともにつひゆる
(ほやの木(宿り木)が激しく茂るその果てに桜(宿主)滅びて共に潰ゆる)


「自助、共助、公助」といふ言葉がありますが、この意味と論じ方は別の視点で捉へなければなりません。


一般には、「自助」といふものを個人主義で捉へて居ます。自分で自分の身を守ることは、自己防衛本能によるものですから当然のことです。しかし、自分(個人)といふのは、ご先祖からの命と暮らしを受け継いできた存在ですので、祭祀共同体としての家族があり親戚があります。家族を祭祀共同体の最小単位であるとの認識がなければ、人間は他の動物と同じになります。


犬畜生にも劣ると批判して道徳性を強調しても、それでは犬畜生と同列です。それどころか、理性といふ計算能力を持つてゐるので、欲望のために物を結んだり人を殺めたりする犯罪を犯すのが人間ですから、そもそも人間は、犬畜生に劣るのです。犬畜生は犯罪行為はしないのです。


理性が計算能力であることは、これまで説明してきたとほりです。二つの選択肢があるとき、どちらが得か、どちらがよりよい効果があるかを計算するのが理性です。理性は、決して道徳的な判断をする能力ではありません。


理性を持つ人間は犯罪を犯し、理性を持たない犬畜生は犯罪を犯しませんので、理性は犯罪を犯し得る能力であることは誰も否定できないからです。


ともあれ、自助といふのは家族による協同や助け合ひといふ家族内分業を意味せず、専ら個人主義による捉へ方をしてゐます。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に出てくるカンダタの立場です。


そして、次は「共助」ですが、とことん個人主義を貫いて他に救ひを求めないのかと思つたら、困たときの神頼みのやうに直ぐに他人の救ひの手を求めるといふ利己主義、自己中心主義に陥ります。


しかも、その「他」といふのは、その人が住む地域内での助け合ひを意味するやうです。しかし、その地域といふのは、村落共同体ではありません。地域内で組織されてゐる民間の福祉団体などでせう。保険契約などによつて支援を求めるのは、自助と公助との境目にあります。これは、その人が利益共同体の一員であることが必要になりますので、救ひを求める人は、そこに加入してゐる構成員でなければ手を差し伸べてくれません。


そして、「共助」も受けられないとなると、最後は「公助」です。国や自治体などの公的機関に援助を求めることです。共助と公助との区別は、民間によるものか、公的機関によるものかといふ点です。


ところで、本来の自助と共助といふのは、境目のない概念であり、村落共同体での助け合ひなのです。自助の概念も家族の範囲によつて異なります。核家族であれば、その自助力も限定されます。

国の政策は、これまで愚かにも核家族化の推進にありましたが、その政策の大転換を図つて、大家族の再構築を図るやうにして、その方向での税制優遇をして大家族の復活を促進すれば、大家族内の役割分担によつて、大家族に属する弱者の福祉は大家族内での「自助」で実現します。


大家族の復活が進めば、それによつて成り立つ村落共同体が再興します。そして、大家族での自助ができないときは、村落共同体による共助が支へることになります。


さうして、自助と共助が強化されれば、国の福祉政策は基本的には不必要になり、公助は極めて補充的なものになります。

福祉関係の公務員の親が福祉に世話になるといふブラック・ユーモアは消滅することになるのです。


理性万能主義(合理主義)を捨てて本能主義へ、個人主義を捨てて家族主義へ、教義に従はない人を殺す世界宗教を捨てて万人を救ふ世界祭祀へ、生きてゐる者だけで全てを決定するといふ傲慢な主権主義を捨てて祖先の教へを受け継ぐ國體主義へと舵を切れば、世界は救はれるのです。これが「本家祭國」です。


そして、このことによつて、必然的に、無限大の発展志向から無限小の発展志向へと変化します。

大家族の再建と村落共同体の再構築は、家族内での食糧自給率を向上させます。これまで、スケールメリットを追求して大量生産、大量消費を突き進んできた極大化志向の世界は、家族が自立再生できる生活単位の極小化志向の世界へと再生することになります。


世界の安定は、サプライチェーンの拡大によつて実現するのではなく、その縮小によつて実現するのです。これによつて金融資本主義を淘汰させる必要があるのです。


さうすれば、乱暴な優生思想によることなく、大家族制の下において自然な人口調節機能が働き、地球の負荷をなくすことができます。今の分業体制を維持しながら、SDGsを叫んでも全く無意味であることを早く気付かなければなりません。


SDGs運動の提唱は、国際オロチの存在こそが最大の災厄であることを気付かせなくするための国際オロチの策略なのです。


SDGs運動を全否定するつもりはありませんが、国際オロチの延命のために、国際オロチの掌の上で踊らされてゐるSDGs運動に最大の問題があるといふことなのです。


SDGs運動は、環境や格差などの表面的な現象面だけを修正するもりであり、根本的な解決にはなりません。


根本的な解決は、方向貿易理論によつてのみ実現することができます。

これからの国際貿易は、食料その他人々の生活に必要な物資を自給自足できる方向で推進させる必要があり、究極的には、それが実現すれば貿易自体を禁止することです。

さうして、人流、物流が極小化すれば、それによつて環境保全、経済格差などが是正され、有効な感染症対策にもなります。


技術革新の方向を、これまでのやうに広い面積や巨大な装置を必要として、スケール・メリットを追求してきた「無限大化」の方向を転換して、より小さな規模でもそれ以上の効率が実現できる「無限小化」への方向に舵を切ることです。そして、その究極の姿として、家族内で、エネルギーと食料が自給できるまでの技術革新を遂げることによつて自立再生社会が実現するのです。


数年前の統計でも、世界では、子どもが6秒に1人の割合で、貧困と栄養失調等のために死んでゐます。

その一方で、0.14%の超・富裕層が世界の金融資産の81.3%を所有し、その超富裕層中の62人の大富豪が世界の下位36億人分の資産を保有してゐます。


これは、「犯罪的」と言ふべき現象であり、とても容認できないものです。


もし、世界がそれを是正する方策がないのであれば、人類は、生存権を行使して、これを膺懲する権利があります。それが国際血盟団運動の根拠なのです。


このままでは、人口爆発に歯止めがかからないので、国際オロチとしては、なんとか飽和絶滅の危機を乗り越えたいと考へるのは当然でせう。犯罪的に掻き集めた財産の持ち腐れになつてしまふからです。


江戸の三大飢饉の一つである享保の飢饉(1732+660)の際、百両の大金を首からぶら下げたまま餓死した商人がゐたといふ記録が残つてゐますが、ビル・ゲイツなどは、かういふ惨めな事態を一番恐れてゐるはずです。


さうであれば、自主的に不正蓄財ともいふべき巨万の富を世界の貧困と格差の是正のために吐き出せばよいのですが、自己増殖の意思に支配された資本といふ魔物の奴隷には、そんなことは到底できないのです。だからこそ国際血盟団の存在異議があるのです。


ともあれ、国際オロチは、人口爆発による共倒れ的な飽和絶滅を極度におそれるために、殺人ワクチンなどを開発して人口削減を試みますが、さう簡単には行きません。


核兵器(A兵器)を使用すれば、国際オロチが作り上げようとする世界が汚染させてしまふので、これを使ふ戦争はできません。ですから、BC兵器を使つて大量殺戮することを考へることになります。


そして、その最有力なものがウイルス兵器です。今回の武漢ウイルスも、支那と国際オロチとの共同作戦である可能性が高いのです。


これに打ち勝つためには、自立再生論による方向貿易理論と無限小化の技術革新、大家族の再構築、それによる村落共同体と祭祀共同体の再興が人類を救ふことになるのです。


祭祀の民のケルト人、古代ゲルマン人などは、宗教の民のキリスト教徒によつて迫害、殺害されてきましたが、わが国は、島国であつたために、その難を逃れて生き残つたことは、世界に祭祀を復興させる使命があり、国際オロチを退治する世界のスサノヲノミコトの役割を果たさなければなりません。


極度の分業化に歯止めをかけ、方向貿易によつて貿易を漸減させて、証券取引、商品取引などの取引所による賭博経済を廃止すれば金融資本主義を崩壊させることができます。


そして、社会は、無限小方向への技術革新を推進させることによつて、大家族制が復活し、その家族内の分担(分業)によつて自立再生社会を実現することができます。さうすれば、自然的な人口調節機能が働いて、飽和絶滅の危機を逃れることになります。

また、大家族制の復活は、必然的に祭祀共同体を蘇生させ、エネルギーと食糧の自給自足が実現しますので、金融資本主義が蘇る余地は全くなくなつて、国際オロチは死に絶えるのです。


かうして、世界は、飽和絶滅の危機と国際オロチの世界支配から脱することができるのです。(了)


南出喜久治(令和3年9月1日記す)


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