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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第五十七回 家産と貨幣経済(その三)

かてともの みあひをこゆる かねうめば ねうちをだます つなわたりのよ
  (食料と商品見合ひ(均衡)を超ゆる金(通貨)生めば(発行するれば)値打ち(貨幣価値)を騙する綱渡りの世)

通貨について、本来、誰が発行する権利を持つてゐるのか、通貨の数量はどのやうにして決められるべきなのかといふ通貨の本質論を語らなければなりませんが、意外なことにこれまでの経済学者は誰も本格的な議論をして来なかつたのです。今回からは、このことについて歴史的事実を踏まへて考へてみませう。


人類の生活は、初めは自給自足でした。神々の世界と同じです。このころは通貨はありません。ところが、前々回(第五十五回)で述べたとほり、部族共同社会内における「分担」から、その部族共同社会が徐々に利益社会へと変化する過程の中で、「分業」が生まれてきます。そして、分担から分業へと変化することによつて貨幣(通貨)が登場します。


初めに登場するのかそれ自体が有用な物資としての価値のある「商品貨幣」です。物資(商品)がそのまま貨幣(通貨)を兼ねることになります。商品交換の初めの形態は、物々交換ですが、この物々交換といふのは、交換しようとする当事者が、それぞれ交換する双方の物資の使用価値が等しいと納得(合意)して交換します。たとへば、海辺の人が採つた海草一束と山辺の人が採つた山菜一束とを交換するわけです。

ところが、常に、お互ひが求めてゐる物資を相手方が持つてゐるとは限りません。さうすると、使用価値のある物で、耐久性があり保存が効く物であり、しかも、多くの人がそれを必要としたり求めたりする物で、しかも、できる限り持ち運びが容易で均質の物が選ばれるのです。特に、多くの人が必要とする物としては、保存の効く食料が最適であり、我が国では、前回(第五十六回)で述べました米(稲の実)です。たとへば、海辺の人が山菜を求めてゐない場合、山辺の人が採つた山菜を求めてゐる川辺の人の作つた米一袋とを交換し、その米一袋を持つて海辺に行き、その米一袋と海草一束とを交換することができるのです。米は、山辺の人も海辺の人も共に必要な物資だから、このことができるのです。さうして、取引する物資の種類が多くなり、それを見越して分業がさらに進みます。


そして、さらには、米よりも比較的持ち運びに便利な物で、使用価値がある稀少物として誰でもが認めるものを商品貨幣として選ばれることになります。それが金(gold)や銀です。金塊や銀塊の重量を調べて、単価を決めて取引します。秤で重さを計つて値段を決めます。これは秤量貨幣と呼ばれてゐます。


ところが、金銀でも、取引する場合に、その金塊、銀塊における金銀の含有量をいちいち調べることの繁雑さや、これらの管理と運搬などに手間と時間がかかります。そこで、大きな財産を持つ信用のおける資産家が、金塊や銀塊の形状と重量を統一的に定型化して、金銀の地金の重量を表示した貨幣(金貨、銀貨)を作り、その真正さと品質をその資産家が保証することによつて取引を円滑にさせる方法が生まれました。人は金塊や銀塊を資産家に持ち込んで、これをその金貨や銀貨と交換し、資産家はその手数料を貰ふことになります。これが両替商の始まりです。


そして、ここから貨幣の性質は変化して行きます。貨幣の信用は、そこに含まれてゐる金銀の含有量といふ物的信用よりも貨幣を鋳造して両替してくれる資産家の経済的信用が重視されます。さうなると、物的信用は必要ではなくなり、価値に見合つた金銀の含有量が貨幣になくても通用することになります。そのために、だんだんと金銀の地金に作る貨幣できなく、それ以外の金属製の鋳造貨幣でもよいことになり、さらには、紙に印刷した紙幣でよいことになります。ただし、兌換貨幣であることが求められます。その貨幣を両替商に持つて行けば、その価値と同等の金銀の地金と交換できるといふ保証があれば、どんな貨幣でもよいといふことになります。


ところがです。ここから世界最大の詐欺行為、強奪行為が始まります。イギリスでは、ロンドンで両替商などを営む金細工師(金匠、ゴールド・スミス、goldsmith)の銀行家たちが、既成事実を積み上げて、通貨発行権とそれに付随する「シニョリッジ 」(seigniorage)を独占してしまふのです。シニョリッジといふのは、「通貨発行益」のことで、たとへば、50ポンド紙幣を発行すると、それに要する僅かな印刷代などの経費を差し引いた残りの多くの金額を自分の利益として取得することです。

これこそが、ノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・E・スティグリッツらが主張するとほり、世界が金融資本主義によつて資産格差、所得格差を加速させてゐるレントシーキング(rent-seeking)の最初にして最大の事件なのです。


貨幣経済が発達してゐなかつたイギリスでは、ロンドンでゴールド・スミスと呼ばれる両替商たちの銀行家連合が事実上の通貨発行権を持つてゐました。「通貨」といふのは、法的に強制通用力のある「貨幣」を発行する権限のことで、本来ならば政府が管理しなければならないものです。しかし、この銀行家連合の発行する貨幣が事実上広く流通してゐる状況を政府が黙認することによつて、これを通貨として認めることになつてしまつたからです。

そこで、12世紀の初めにヘンリー一世(Henry Ⅰ)が銀行家連合の発行する貨幣とは別に、初めての英国通貨を発行したのですが、銀行家連合は、正式に通貨発行権を政府から奪ふことに成功します。その事件が、クロムウェルによるイギリスの清教徒革命(Puritan Revolution)です。その結果、イギリスの中央銀行となるイングランド銀行(The Bank of England)が設立され、以後、イギリスの通貨発行権は奪はれたままになつてゐます。中央銀行といふのは、国家から通貨発行権を与へられた民間銀行複合体であり、他の私的銀行を統括して金融政策を行ふものであつて、政府とは別の組織なのです。


そして、これと同じやうな攻防がアメリカ合衆国でも起こりました。1910年、J・P・モルガン、ジョン・ロックフェラー、ポール・ウォーバーグなど11人により、合衆国から通貨発行権を奪ひ取つて中央銀行を設立するための秘密会議がなされ、それをウィルソン大統領(Woodrow Wilson)が、1913年に、クリスマス休暇で議員が居ないのに議会を開いて、電撃的に秘密会議の決定に基づく法案を成立させ、中央銀行への返済財源に充てるための所得税徴収法まで成立させたのです。そして、翌1914年にFRBが設立され、合衆国の通貨発行権が奪はれたのです。これは、「合衆国議会は貨幣発行権、貨幣価値決定権ならびに外国貨幣の価値決定権を有する。」とするアメリカ合衆国連邦憲法第1章第8条第5項に明らかに違反してゐたのです。


なぜこのやうになつたかについては、独立戦争以来の伏線がありました。合衆国は、18世紀に、財政が脆弱なまま長期に亘る独立戦争を行ひ、その戦費などを欧州の民間銀行から調達し、実質的には通貨発行権は奪はれてゐました。独立戦争終結後の1782年には、最初の中央銀行であるバンク・オブ・ノースアメリカ(The Bank of North America)が設立されますが、この設立を恒久法して認めることになると憲法違反となりますので、その後も、時限立法による中央銀行として、1791年にファーストバンク・オブ・ユナイテッドステイツ(The First Bank of United States)、1817年にセカンドバンク・オブ・ユナイテットステイツ(The Second Bank of United States)が設立されました。

ところが、ジャクソン大統領(Andrew Jackson)は、1831年、欧州の銀行による支配に異議を唱へました。すると、暗殺未遂の災難に遭つたのです。その難から辛うじて逃れたジャンソン大統領は、暫定的に中央銀行として認める時限法を更新する改正をしなかつたため、セカンドバンクは1836年に消滅しました。


そして、そのことが引き金となつて起こつたのが南北戦争です。南北戦争には、奴隷解放などといふ表向きの理由と、通貨発行権の奪取といふ裏向きの理由があつたのです。南軍も北軍もイギリスの銀行から戦費の調達を行つたので、どちらが勝つても欧州金融財閥の勝利となるのです。イギリスの銀行は究極のリスクヘッジ(risk hedge)を行つて、南北戰戦争終了後における恒久的な中央銀行の地位を狙つたのです。ところが、南北戦争後の1862年に、リンカーン(Abraham Lincoln)は、アメリカ政府(財務省)の政府紙幣であるグリーンバックスドル(Greenbacks dollar)を発行し、欧州銀行複合体の支配からの脱却を図らうとしました。これは、中央銀行が発行するドルではなく、アメリカにおける初めての憲法通貨(法貨、Constitutioal Money)でした。そして、これによつて1865年にリンカーンは暗殺されるのです。


暗殺と言へば、ケネディ大統領(John Fitzgerald Kennedy)の暗殺も同じです。ケネディは、アメリカに大量に眠る銀の埋蔵量に着目し、FRBの金本位制から合衆国独自の銀本位制へと移行することが可能であるとして、1963年に、銀本位制により合衆国発行の法貨を発行する大統領行政命令(executive order 11110)を1963年6月4日に発令しました。ケネディこそ、FRBに奪はれた合衆国の通貨発行権を取り戻すことに最も熱心で勇気のある大統領でした。そして、ケネディもまた、大統領行政命令を発令した同じ年の11月22日にダラスで暗殺されるのです。

この大統領行政命令(executive order 11110)に基づいて、政府紙幣が一旦は発行されたのです。それは、現在の米ドルのデザインと似たもので、その5ドル札のコピーは、インターネットでも見ることができます。それによると、中央にはリンカーンの肖像が描かれ、上部分には、政府紙幣を意味する「UNITED STATES NOTE」と記載されてゐます。

これは、現在発行されてゐるFRBが発行するドル紙幣(正確に言ふと、FRBが管理して連邦準備銀行が発行するドル紙幣)とは異なるもので、しかも、ここにリンカーンの肖像が描かれてゐるのは、前掲の、リンカーンの遺志をケネディが受け継いだことを意味してをり、ここにケネディの強い信念が示されてゐると言へます。


ところが、ケネディが暗殺されたために、この政府紙幣は全て回収されました。すみやかに回収された経緯からしても、ケネディはこのことのために暗殺されたことが強く推定されるのです。ケネディが暗殺されて大統領の地位を引き継いだジョンソン大統領は、その後ほとんどのケネディの遺志を継いで実現しましたが、これだけは決して引き継がずに全否定しました。しかし、ケネディが署名したこの大統領行政命令は現在も生きてゐるのであつて、後任の大統領が志と勇気を持つて実行すれば復活できるのです。

ところが、ケネディ以後の大統領は、誰一人これを実行するものが居ません。


ロックフェラーは、通貨発行権とシニョリッジ(通貨発行益)を独占し、「この、金の出る蛇口があつたら、大統領の席も議会もいらない」と豪語したほどです。このことからして、アメリカは、私企業であるFRBに通貨発行権を奪はれ続けてゐるのであり、リンカーンとケネディ以外の合衆国大統領はすべてFRBのしもべとなつてゐるのです。

(つづく)

平成二十五年十二月一日記す 南出喜久治


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