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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百八十六回 祭祀の民 その一

おこたらず あまつくにつを つねいはひ まつりてはげむ くにからのみち
(怠らず天津國津(の神々)を常祭祀して励む國幹の道)


日本書紀卷第廿二に、推古天皇15年2月(皇紀1267年)に、推古天皇が発せられた御詔勅があります。


戊子、詔曰、朕聞之、曩者我皇祖天皇等宰世也、跼天蹐地、敦禮神祇。周祠山川、幽通乾坤。是以、陰陽開和、造化共調。今當朕世、祭祀神祇、豈有怠乎。故群臣共爲竭心、宜拜神祇。甲午、皇太子及大臣、率百寮以祭拜神祇。(つちのえねのひ(九日)に、みことのりしてのたまはく、「われきく、むかし、わがみおやのすめらみことたち、よををさめたまふこと、あめにせかがまりつちにぬきあしにふみて、あつくあまつかみくにつかみをゐやびたまふ。あまねくやまかはをまつり、はるかにあめつちにかよはす。ここをもちて、ふゆなつひらけあまなひて、なしいづることともにととのほる。いまわがよにあたりて、あまつかみくにつかみをいはひまつること、あにおこたることあらむや。かれ、まへつきみたち、ともにためにこころをつくして、あまつかみくにつかみをゐやびまつるべし」とのたまふ。きのえうまのひ(十五日)に、ひつぎのみことおほおみと、つかさつかさをゐて、あまつかみくにつかみをいはひゐやぶ。)


ここで重要なのは、その3年前の推古天皇12年4月に、推古天皇の摂政である聖徳太子が憲法十七条で、「二に曰はく、篤く三寶を敬へ。三寶とは佛・法・僧なり。」として、仏教を総合文化体系としてわが国が取り入れたものの、これとは関係なく、祭祀の民としての「道」を守り続けることが最も重要なことであることを宣明されたことにあります。


それが、「今當朕世、祭祀神祇、豈有怠乎」(いまわがよにあたりて、あまつかみくにつかみをいはひまつること、あにおこたることあらむや)との宣明です。


天つ神、国つ神の祭祀(祖先祭祀、自然祭祀、英霊祭祀)の実践を怠つてはならないといふことです。これがわが国の「くにからのみち」なのです。


私は、このことを父母から学びました。

両親から受けた恩は山よりも高く海よりも深いものがあります。その教へを踏まへて上梓したのが、平成5年12月の『日本国家構造論』でした。


上梓したその月に母は身罷りましたが、これを母の棺に入れて先に身罷つた父と一緒に見てもらふことをお願ひしました。


私は、この最終章である「万葉章」の結びとして、次の文章を書きました。


現代の教育制度は、学歴取得競争と就職競争に奉仕するものであって、これらの競争の自由を保障するものとして教育の機会均等を標榜しているに過ぎない。これらの競争の結果、勝者と敗者とに選別され、勝者は強者へ、敗者は弱者へと分化して、それが社会差別の形成要因となる。しかし、教育には競争原理が不可欠であって、これがなければ教育は成り立たない。ところが、その競争目的の設定を誤ると現代のように社会が荒廃する。現代教育の目的は、強者となって栄華を謳歌する「強者教育」であって、強者となって弱者を救済する「聖者教育」ではない。親が子供達に吹き込むのは、一流大学を出て一流会社や官庁に就職して他人よりも経済的に豊かな生活をすることが人生の目的であり、街で貧者を見かけたりすると、「勉強しないとあの人達のようになるから、しっかり勉強しなさい。」と差別意識と強迫観念を植えつける。「勉強して立派になって、あの人達を助けることができるように、しっかり勉強しなさい。」とは教えないのである。教育の世界にも効用均衡理論を導入し、能力と人格・見識とが共に備わらなければ、あらゆる場面での指導的地位を与えられないとの教育理念を確立すべきである。教育の歪みが政治、経済、宗教など社会全般を歪め、世界を危機に陥れる原因であることを自覚せねばならない。

教育に「教」あって「育」なく、宗教に「宗」あって「教」なく、政治に「政」あって「治」なき現代社会を打破して、人類が自己の教育・宗教・政治の原点を見つめ直して統合し、人類間の公平のみならず自然との共生を実現しなければ、地球は人類の利己によって崩壊する。今こそ、教育・宗教・政治を建て直し、共生の実践として世界が自立再生の道を歩むことこそが地球を救う道であり、祖国日本は、至誠を貫き、率先垂範して国家を経綸し、その伝統による叡知と努力を世界に捧げて万葉一統の理想世界を実現すべき責務がある。


ここで書いた聖者教育と強者教育に関する譬へ話は、私が経験した実話なのです。


私たちの家族は、毎年正月に墓参し、東大谷本廟にも参拝してきました。その沿道には、傷痍軍人や、当時の京言葉で言へば、お薦さん(おこもさん)、つまり乞食が並んで座つて物乞ひをしてゐました。今ではそんな光景はどこであつても全く見られなくなりましたが、当時は、片足がなく手のない傷痍軍人が、傷病患者の白衣を着て、アコーデオンを弾きながら募金の物乞ひしてゐました。その側には、いはゆる乞食も物乞ひして並んでゐました。


父も戦時中に、肺浸潤になつて入院したことがあり、そのときの慰み事としてアコーデオンを学んだらしく、アコーデオンの音色を聞くと、傷痍軍人への共感を呼び起こすと言つてゐました。父母は、その光景を見て、いつも募金箱に貧者の一灯を入れてゐました。


そんな時代の昭和33年の元旦のことでした。いつものやうに、祇園の円山公園から東大谷へ向かふ沿道を歩くと、そこには傷痍軍人らが並んでゐました。


すると、前を歩いてゐた親子連れの子供が怪訝そうに傷痍軍人らを眺めてゐると、その親と覚しき者が、傷痍軍人や乞食に近づいてはいけないと子供に叱責して、「勉強しないとあの人達のようになるから、しっかり勉強しなさい。」といふやうなことを言つたのです。これを側で見聞きした両親は、私に、募金箱に入れるお金を渡して、これを入れてあげなさいと言ひました。そして、私がそれを募金箱に入れると、両親は、その後で、私らはこんな程度のことしかできないけれど、お前は「勉強して立派になって、あの人達を助けることができるように、しっかり勉強しなさい。」といふことを諭してくれたのです。これが私の人生の決定的な指針となりました。


そして、この年の12月19日、母は脳溢血で倒れ、内科治療で奇跡的に回復したものの、寝たきりの続く後遺症の苦しい闘病生活の後、平成5年の同じ日に身罷つたのです。


父は、遺言書をしたため、教育勅語を復活させよと私に命じ、私はこれを守り続けました。


それが父母の祥月命日が来る度に、両親の祭祀をしつかりと勤め上げる意欲と覚悟を強くする所以です。かうして、私は祭祀の民となつたのです。


南出喜久治(令和4年元旦記す)


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