自立再生政策提言

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百九十七回 反ワクチン・反マスク訴訟 その十一

くすりには くすしちからを そなへども いまはさはりの ものとまがへり
(薬には奇し力を備へども今(現代)は障りの物(毒物)と紛へり)


反ワクチン訴訟に関連する訴訟としては、反ワクチン訴訟と同様に、「権力の偽装」によつて訴訟が存在すること自体の報道の禁止措置がとられてゐる反マスク訴訟、そして、木原功仁哉弁護士がワクチンの危険性を指摘して兵庫県第1区で戦つた昨年10月の衆議院選挙の選挙無効訴訟や供託金返還訴訟などがあります。


情報の隠蔽、改竄、操作が露骨になされ、それでなくても参政権の閉塞的状況は、実質的な制限選挙と化して、政治は壊死状態になつてゐます。

そのため、選挙自体の無効を強く叫ばなければならない事態となつてをり、これを根本的に改革するには訴訟だけでは実現できず、国政政治への進出が必須です。


現在存在してゐる「保守風味」といふか「保守もどき」の政党の政策を検討してみても、こんな程度では祖国の再生、世界の再生は到底不可能です。むしろ逆効果です。それができると主張すること自体がフェイクであり、真正な保守勢力を分断する利敵行為に他なりません。志ある人を騙すことになります。こんな紛ひ物の政党に騙されるやうでは祖国の再生はできません。

祖国再生同盟の政策説明書に書かれてゐる政策は、これまでの既成政党や、保守風味の政策を掲げる政党とは本質的に違ひます。


そもそも、荒れ狂ふ金融資本主義の枢要である賭博経済を根絶し、占領典憲の無効を打ち出すことがなければ、所詮は賭博経済の推進に加担する売国勢力に吸収されてしまふのです。


ワクチン問題、ウクライナ問題などは、この本質的な問題から派生する現象に過ぎません。現象面だけを注視しても政治や社会の構造の歪みを把握することはできないのですが、それすら注視できないのでは話になりません。


その社会の歪みを端的に示してゐる現象が、「マスク」です。


マスク着用を強力に推奨するのは、ワクチン接種の目的を達成させるための導火線の役割を果たさせることにあります。


「見た目が一番」とよく言はれますが、これはメラビアンの法則から唱へられたものです。これは、簡単に言うふと、人の行動が他人にどのやうに影響を及ぼすかといふことについて、話の内容などの言語情報(Verbal)が7%、口調や話の早さなどの聴覚情報(Vocal)が38%、見た目などの視覚情報(Visual)が55%の割合であり、この割合から「7-38-55のルール」ないしは「3Vの法則」とも呼ばれてゐるものです。

見た目の視覚情報が55%の割合で影響を与へるので、まさに「見た目が一番」といふことなのです。


周りの全員がマスクを着けてゐるといふ光景が視覚情報として伝はつてきます。これは、武漢ウイルスが蔓延して恐ろしいといふ無言の情報であり、聴覚や言語による情報ではありません。専ら視覚情報なのです。この光景を見て、人は、武漢ウイルスが恐ろしいものだと受け止めるのです。そして、その恐ろしさから逃れるためには、ワクチン接種をすることであるとマスクの表面に書かれてゐるのと同じ効果があるのです。


人は、非日常的なマスク着用が日常化すると、マスク依存症に陥ります。マスクをしなければ暮らせないと錯覚することになります。そして、ワクチン接種といふ極めて異常で非日常的なことも当然のやうに受け入れることになります。このやうな誘導をするために、政府はマスク着用を奨励することを絶対に止めないのです。


そして、周囲の者がマスクを積極的に着用し、ワクチン接種を積極的に希望することになると、マスクをせずワクチンを接種することを本能的に拒絶する人にどのやうな影響を与へるのでせうか。


それは、今昔物語集にある「巻五第二十三話 舎衛国鼻欠猿供養帝釈語 第廿三」の話が参考になります。

これは、こんな話です。


今昔、天竺の舎衛国に一の山有り。其の山に一の大なる樹有り。其の樹に千の猿住ぬ。皆心を一にして、天帝釈を供養し奉けり。

其の猿、九百九十九は鼻無し。今一の猿は、鼻有り。此の諸の鼻無き猿、集て、一の鼻有る猿を咲ひ蔑づる事限無し。「汝は此れ片輪者也。我等が中に交はるべからず」と云て、同所にも居らしめず。

然れば、此の一の猿、歎き侘る程に、九百九十九の猿、種々の珍菓を備へて、帝釈に供養し奉つるに、帝釈、此れを受給ずして、此の一の鼻有る猿の供養の物を受給ひつ。

其の時に、九百九十九の猿、帝釈に向て申さく、「何の故有てか、我等が供養を受給はずして、片輪者の供養を受給ふぞや」と。帝釈、答て云く、「汝等九百九十九は、前世に法を謗たる罪みに依て、六根を全く具さずして、鼻無き果報を得たり。此の一の猿は、前生の功徳に依て、六根を全く具せり。只、愚痴にして、師を疑ひしに依て、暫く畜生の中に生れたる也。速に仏道に入り。汝等、九百九十九は片輪者として、麗しき者を咲ひ蔑る也。此れに依て、我れ、汝等が供養の物を受けず」と。

此の事を聞て後より、九百九十九の猿、我が身の根の欠たる事を観じて、一の猿を咲ひ蔑る事絶にけり。」


つまり、この「鼻欠猿」は、マスク着用の人間であり、それが当たり前だと思つてしまつて、マスク不着用の人を批判するのです。そして、この鼻欠猿の話とは逆に、999匹と同じやうな鼻を削るかのごとくマスク着用の同調圧力に従つてマスクを着用してしまふのが現代なのです。


反マスク訴訟としては、日野市議の池田利恵氏と白糠町議の福地裕行氏の訴訟があり、鼻欠猿の同調圧力によつて鼻を削り落とすことを拒んで、マスク不着用を訴へ続けることは、鼻欠猿政府の過ちを糺すための第一歩であり、この戦ひは、祖国の再生を目指す志と勇気を示してくれてゐます。


我々は、999匹の鼻欠猿のやうなマスク着用人間たちの同調圧力に決して屈してはならないのです。


令和4年5月1日の千座の置き戸第195回(反ワクチン・反マスク訴訟 その十)で述べましたとほり、去る3月28日に、国立感染症研究所(NIID)が「新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の感染経路について」と題する見解を発表し、これまで隠蔽してきたことを白状して、感染経路の主流がエアロゾル感染(空気感染)であることをやつと認めました。


日本の公共施設を含む多くの施設は、外部からの空気、音響などを遮断し、防音等の密閉性を求めたものであるため、換気に留意してこなかつたことが致命的な構造上の欠陥であることが浮き彫りになつてきました。


ところが日本医師会の中川俊男会長は、コロナ対策をめぐり、海外の一部でマスクの着用規制を緩和する動きが広がつてゐることについて、4月20日の会見で、「ウィズコロナの状態でマスクを外す時期は日本において来ないと思つてゐる」と述べ、マスク緩和の対応は避けるべきだと強調しました。ウイズコロナはウイズマスクであり、永久にマスク着用を続けろといふのです。しかし、こんな非科学的な馬鹿馬鹿しい話であつても、政府はこれに飛びつきました。

日本医師会の方が国立感染症研究所よりも科学的、医学的権威があるとする倒錯した考へです。


そして、これにより全国の裁判所においても、より一層、マスク着用を事実上強制するかのやうな愚劣な対応をとり続けることになりました。


4月26日の東京地裁での反ワクチン訴訟でも、5月24日の神戸地裁の供託金返還訴訟でもさうです。これまで以上に執拗にマスク着用を求めてきます。反復継続した執拗な要請は、実質的に強要に該当するので、裁判官に対し、公務員職権濫用罪(刑法第193条)に該当すると逆に警告したのは当然のことでした。


木原功仁哉弁護士の供託金返還請求訴訟が開かれた神戸地裁の大法廷(101号法廷)は、換気装置が設置されてゐるのか否か、されてゐるとしても、それが十分機能してゐるのか否かも解りません。

「ここは換気されてゐるのか」と裁判長に質問しても、書記官からのカンペを見て、されてゐます、と答へるのが精一杯で、どの程度の換気がなされてゐるのかと再度質問しても答へられないのです。といふことは、3月28日の国立感染症研究所の発表を施設管理者(裁判所所長)が知らないか、無視してゐるといふことなのです。


それ以外でも、京都地裁、京都家裁、大阪地裁、大阪高裁、神戸地裁伊丹支部などで、私は、マスク不着用のまま出廷します。日増しに圧力が強まりますが、その場合は、常に3月28日の国立感染症研究所の発表を根拠に裁判官のマスク着用の要請を非科学的なもののであることを詳しく説明します。


全国のどこの裁判所の法廷や準備室などは、換気がなされず、ドアを閉め切つて通風もできてゐません。そもそも換気扇が動いてゐません。冷房と換気とは違ふことが解つてゐません。そのことは、役所や議会などの場合も同じです。


必要換気量である1人当たり30㎥/hといふのは到底実現できてゐません。

施設管理者に対して、換気をしろ、ドアを開放して通気性をよくしろ、と要求するのも条件闘争なのです。


これから梅雨時や夏場に向かふ時期では、マスク着用は、熱中症、酸欠、感染危険の増大、他の疾患の誘発、子供の成長障害、心理障害などの危険が大きくなります。


裁判所の法廷や国会、地方議会での議場、その他の公共施設などは、換気が不充分な施設ばかりです。


換気が不充分であることを指摘して、エアロゾル感染防止対策を徹底させ、マスクの着用がエアロゾル感染防止には有害無益であることを自覚させるやう説明し続けることがこれからの運動の一つとして取り組む必要があります。

南出喜久治(令和4年6月1日記す)


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