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序 言(初版)

(くにからのうた) 平成二十年七月二十四日詠む
ちちははと とほつおやから すめみおや やほよろづへの くにからのみち
(自父母及先祖以至皇祖皇宗及八百萬之神而國體之道也)

(あまつうた)いろは四十八文字 平成二十年九月十四日詠む
あまつくにから ゐをこえて よひぬちふゆる やそわせも うゑねとほさへ
すめろきは たむけいのりし おんみなれ
(天津國から居を越えて夜晝ぬち殖ゆる八十早稻も植ゑね(根)と穗さへ
天皇は手向け祈りし御身なれ)

(ことたまのうた)ひふみよいむなやこと 平成二十一年元旦詠む
ひをむかふ みてくらたてよ いつきせむ なこそおしめや ことたまのひと
(靈を迎ふ 幣立てよ 齋せむ 名こそ惜しめや 言霊の靈止)

(ひひなからうた)平成二十一年一月七日詠む
はらからと やからうからに ともからも すめらみくにの ひひなくにから
(腹幹と 屋幹宇幹に 部幹も 皇御國の 雛國幹)

(まほらまとうた)平成二十一年九月二十一日詠む
あめのした つちみづすまる まほらまと おのころしまの たまさきくませ
(八紘 土水統まる 眞秀玉 自轉島(地球)に 玉(靈)幸く增せ)

この五首のうち、前四首は、拙著『占領憲法の正體』(国書刊行会)の冒頭に掲げたものである。いづれも黙讀するのではなく心靜かに誦詠されたい。解説は省略する。ただし、「あまつうた」については、御神惠としてしか云ひ樣のない特別な體驗から生まれたとだけ云つておきたい。四十八文字を一字づつ一回だけ使つて順に竝べ手習ひ歌を作るとすれば、その確率は、「四十八の階乘」(48!=12413915592536072670862289047373375038521486354677760000000000)分の一となり、分母が六十二桁の數字といふ途方もない極微なものとなる。これは人知の及ぶことろではない。

また、後で氣付いたことだが、ここに「早稻(わせ)」が出てきたことにも感動してゐる。それは、佐藤洋一郎氏の『稻のきた道』といふ著作の中で、稻がどのやうな傳來經路で日本にやつてきたのかといふ點に關して、南北二元説を解説されてゐたことを思ひ出したからである。長江流域一帶から韓半島を經由した温帶ジャポニカと東南アジア島嶼地域を經由した熱帶ジャポニカが日本列島で自然雜交して、秋冷の早い日本列島北部まで瞬く間に傳播したといふのである。温帶ジャポニカと熱帶ジャポニカも、日本列島では晩稻(おくて)だつたものが、自然雜交して早稻が生まれたことがその原因とされる。雜交による早稻の出現と全國へ傳播し遍在する。これが齋庭稻穗の御神敕(資料二3)と重なり合ふ。天孫降臨の神話は世界に幾つかあるが、稻穗を戴いての天孫降臨は我が國だけである。このことは何かを示唆してゐるとの直觀である。

さて、本稿は、自立再生社會を實現することを目的とし、その手段としての占領憲法無效論を説くものであるが、初版の序言では、占領憲法無效論に關する事項に力點を置き、第五章の効用均衡理論とこれに基づく國家機構改造の斷行や、第六章の方向貿易理論などに基づく自立再生社會の實現に關しては言及しなかつたので、この改訂版の序言において、本文を一部を引用しながら本書の基本理念を説明してみたい。

我々の認識世界には、直觀世界と論理世界とがある。つまり、論理を積み上げて眞理を認識する世界と、論理を飛び越え、あるいは論理の盡きたところで、經驗と閃きによつて眞理を認識する世界の二つがある。直觀は本能に、論理は理性に、それぞれ根ざすものである。また、眞理發見のための推理方法として用ゐられる歸納法は直觀世界に親和性があり、演繹法は論理世界に依存性がある。

哲學や數學において、直觀か論理か、そのいづれを認識の基礎とするかによつて直觀主義と論理主義とが對立してをり、特に數學基礎論にあつては、數學を論理學の一部と見るか、あるいは論理が數學的直觀によつて歸納されるのか、として鋭く對立してゐる。これは、數學の體系を構築するにおいて、いづれかの構造選擇が必要とされるからである。しかし、この對立自體が論理世界での現象なのである。つまり、論理世界においては、排中律(Aか非Aかのいづれかである。)及び矛盾律(Aは非Aでない。Aであり非Aであることはない。)などで貫かれてゐるので、この對立は、やはり論理世界の住人同士の對立と云へる。

しかし、現實世界は、直觀か論理かといふ二者擇一の世界ではない。直觀世界を解明しようとして、これまで多くの人々が試みてきたが達成できなかつた。法律學、憲法學、政治學、經濟學などの社會科學もまた論理學を基礎とするものであり、論理世界から直觀世界を解明し、眞理に到達することには構造的な限界があつたのである。

歴史的に見ても、人々は、その人生を演繹的な論理のみを驅使して生きてはこなかつた。むしろ、特に、人生の岐路に立つたとき、あるいは緊急時においては、演繹的な論理を捨てて、瞬發的に歸納的思考の本能的な直觀によつて岐路を選擇し歸趨を決してきたのである。そのことに必ず眞理があるはずである。

オントロジズム(0ntologism)といふ哲學上の立場がある。存在論主義(本體論主義)と譯されてゐるが、これもプラトン以後の哲學でみられる直觀論である。これは、時空間において「有限世界」の現世に生きてゐる人間が、論理的かつ客観的には認識不可能な「無限世界」の存在(神)を論理で捉へることはできず、それは純粹直觀でのみ捉へることができるといふものである。人間が論理的に認識しうる最大の數値があるとしても、それはあくまでも有限の數値であつて、決して無限の數値といふものはない。無限を認識しうるのは論理ではなく直觀である。このやうにして、人間は直觀世界に居ることを認識し、論理の危ふさを歸納的に實感するのである。

この直觀と本能に關連して、「刷り込み」といふ言葉がある。これは、生まれて間もない時期に、接觸したり目の前に動くものを親として覺え込んで追從する現象のことである。たとへば、極端な例として、狼に育てられた人間の子供が、狼を親と認識し、その行動樣式も狼をまねて同じになるといふやうに、授乳期に自己に乳を與へる授乳者を親と認識してしまふといふやうな學習の一形態である。このやうな本能と學習の研究は動物行動學(エソロジー、ethology)と云ひ、ノーベル賞受賞學者のコンラート・ローレンツがそれを科學的理論として確立した。そして、「種内攻撃は惡ではなく善である。」ことを科學的に證明した。つまり、「本能は善」であることを科學的に證明したのである。

「天の命ずるをこれ性と謂ふ。性に率ふをこれ道と謂ふ。道を修むるをこれ教へと謂ふ。」(中庸)。これも本能は善であり、惡は理性の中にあることを説く。性善説とはこのことを云ふのである。それゆゑ、善惡の區別と定義は、本能に適合するものを善、適合しないものを惡とすることになる。

論理は理性の産物であり、理性を正しいとする合理主義(理性論、理性絶對主義)は完全に破綻したのであるが、さらに、そのことは、クルト・ゲーデルの「不完全性定理」によつても證明された。これは、「自然數論を含む歸納的に記述できる公理系が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を證明できない。」ことを數學基礎論から證明したものであるが、既述のとほり、形式論理學でいふ排中律及び矛盾律などが適用される無矛盾の領域は、全事象を網羅することにおいて完全ではない(不完全である)ことを證明したことになるのである。

この意味を説明するについて、誤解を恐れずに比喩的に云へば、論理學は「平面思考」(二次元思考)に喩へて考へればよい。論理學は、實體を把握するについて、平面圖形に投影して認識するといふ手法を採る。たとへば、球體と圓柱といふ立體を把握する場合、球體なら、どの角度から平面に投影してもその圖形は「圓」であるから、平面思考では、球體は「圓」として捉へることができる。論理學では、排中律と矛盾律などに從ふことになるから、球體については、圓であるか非圓かのいづれかであるかの判斷において、これは圓であつて非圓でない、と結論される。これは排中律と矛盾律などに適合してゐる。

しかし、圓柱についてはさうは行かない。圓柱を平面に投影すると、圓であつたり四角形であつたり、あるいは樣々な圖形となる。このとき、圓であり非圓であるといふ結論となり、排中律と矛盾律に適合しない。

これは、排中律と矛盾律などを前提とする論理學に限界があるといふことである。それは平面思考であることから、平面思考では實體の把握が完全ではない。立體思考(三次元思考)でなければ、實體の把握は完全とはならないといふことである。

このやうに、論理學とその應用である法律學、憲法學、政治學などは「思考世界の果て」が存在し、思考世界の果てを超えたところに直觀世界が廣がつてゐるといふことである。

さういふ意味からすると、本書の第一章と第六章は、主に直觀世界であり、第二章から第五章までは主に論理世界である。そして、直觀世界である始めの第一章と終はりの第六章は、一體連續した内容となつてゐる。あたかも論理(第二章ないし第五章)を直觀の合はせ鏡(第一章と第六章)の中に挾み込んだやうな構成になつてゐる。つまり、法律學、憲法學、政治學などの社會科學は、論理學を基礎とするものであるから、第二章から第五章は、論理學的に思考を展開してゐるのに對し、第一章と第六章とは、論理學的に蓄積したものを飛び越えた知的經驗と閃きによつて構築した直觀の體系を記述してゐることになる。

そして、本書で述べたかつたのは、合理主義(理性論)の破綻と本能主義の復活、直觀世界の再認識を踏まへて、人類は宗教生活から祭祀生活へと改めることにより、これらに根差した自立再生論によつて我が國と全世界が安定社會に移行できることを説いたものである。つまり、占領憲法無效論(眞護憲論)は、その目的達成のための手段であり、自立再生論の序章にすぎないといふことである。

そのために、冒頭に掲げた五首についても、一々解説を受けないと理解できないとしたら、それは論理世界のみに埋没してゐることになる。通讀百遍意自づから通ず、といふことになれば、直觀世界の住人になれる。

今回の改訂は、初版の内容に關して、多くの質問を受けたことに對應して、補充説明などを加へたものであり、この改訂版を『國體護持總論』とし、各論を計畫してゐる。これから必要となる作業は、本稿の改訂を次々と重ねることではなく、第五章と第六章を總論的な骨子として、統治機構改造と自立再生社會の實現のための具體的かつ詳細な立案することである。

第五章については、効用均衡理論に基づいて統治機構改造を行ふための具體的な各論作りが必要となる。眞の政治改革は、政權交代などといふやうな子供染みたことで實現できるものではない。今や沈み行く船の船長の地位を爭ふといふやうなソフトウェアの問題ではなく、船の沈没を回避するための船體構造の改造といふやうなハードウェアの問題なのである。

そして、第六章を總論とする各論作りの方がさらに重要な課題となる。効用均衡理論、方向貿易理論などに基づく完全自給の自立再生社會を構成する單位共同社會(まほらまと)を數多く創造するための具體的な各論作りである。「都市の農村化」のために必要な種苗の備蓄、栽培などの樣々な方法、技術、經驗を歸納法的に集大成することである。江戸初期の宮崎安貞、江戸後期の大蔵永常、佐藤信淵らの農學の功績を受け繼き、それを「都市の農村化」に適合しうるやうにさらに發展させ、そして、なによりも江戸後期の二宮尊德が數多くの農村を復興させた偉大な農政學上の功績とその心構へとしての實踐德目を範として、農業、畜産業、林業、漁業などの第一次産業における技術革新と技術集積、そしてその實踐に取り組み、單位共同社會(まほらまと)を一日も早く一つでも多く實現させることにある。

今、その作業を同志とともに始めてゐる途中であるが、是非とも、こころざしを同じくし、この作業に携はることに無類の喜びを感じる多くの方々の御協力があれば、ともに樂しみながら各論の集大成を早期に實現させ、同時多發に實踐できることを確信してゐる。

志と勇氣がある多くの實踐者の方々の御參加と結集を希望する。

平成21年9月23日記す 南出喜久治

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