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承詔必謹と現行憲法無効論 ~K氏への反論~

一 現行憲法無効論に対するK氏の批判

筆者は、拙著『日本国家構造論ー自立再生への道ー』(政界出版社)において現行憲法が大日本帝國憲法(以下「帝国憲法」という。)の改正としては絶対に無効であることについて十項目に及ぶ論拠を示した。その詳細については、ここでは紙面の関係で再述できない。

しかし、天皇大権の行使が否定され、GHQの絶対的かつ全面的な軍事占領の非独立の日本で、GHQから強制された憲法改正手続の過程の深層部が現在までに次第に明らかになればなるほど、絶対無効を根拠付ける事実が次々に発見され、無効論が更に補強されて、ますます強固不動となってきた感がある。

それは、過日、ある反日的思想の護憲論者(知人の法曹であるW氏)が、「現行憲法が絶対無効という結果をどうしても感情的に受け入れることはできないが、無効論の論理は残念ながら肯定せざるを得ない。」との感想を筆者に漏らし、動揺を隠しえなかったことからも、無効論への着実な趨勢を感じている。殆どの憲法学者は、現行憲法の制定過程と有効性との関係に言及することをタブーとして論争を回避する傾向が強く、現在まで筆者にこの論争に挑んだ者は、悉く説得力ある反論を試みえないのが現状である。

ところが、筆者は、意外にも、「承詔必謹」を根拠としたK氏の書翰による無効論への根本的な批判に遭遇した。

推古天皇十二年夏四月、皇太子聖徳太子が作り賜うた憲法十七條の「三に曰く、詔を承りては必ず謹め。君をば天とす。臣をば地とす。・・・・・」とあることを指すのである。

K氏による現行憲法無効論に対する批判の骨子は、第一に、次の歴史的事実を仮定することから出発する。それは、「現行憲法第九条は、世界平和と戦争放棄を願われた昭和天皇の独自のご発想によるものである。そのため、昭和天皇は、積極的に帝国憲法を否定して現行憲法を公布されたのである。」というものであり、これを前提として、第二に、「承詔必謹」を根拠とした無効論批判が展開される。それは、「昭和天皇がこのようにして公布された現行憲法を無効であると主張することは、『承詔必謹』に背くことになり、現行憲法無効論者は、大詔『憲法遵守』を実践しない詔違反の大不忠であり逆臣である。」というものであった。

筆者は、いきなり大不忠の逆臣とされたものの、不思議なことに、これを冷静に受け止めることができた。この批判の立論には一理あると感じたからである。なぜなら、「承詔必謹」は、聖徳太子の憲法十七條のうちにあり、筆者もこれを「教育勅語」などと同様、日本における「実質的意味の憲法」の内容としていたのであって、この指摘の深奥は、狭矮な憲法論ではなく、国法論ないしは國體論を土俵とする本格的な議論と受け止めたからである。

しかし、いわれなき逆臣の汚名はどうしても雪がねばならない。それは、國體護持の至誠をもって現行憲法無効論を展開されてこられた先達の名誉のためにも、K氏の批判に対する反論は、これを伝承する筆者の義務と受け取って、K氏に対する反論の返書をここに公開し、ご諸賢のご判断に供したい。

筆者の反論の骨子は、先ず、K氏の主張の前提事実となっている仮定の歴史的事実が存在しないこと、すなわち、現行憲法第九条を昭和天皇の独自のご発想とすることはできないということから始まる。ましてや、昭和天皇は、帝国憲法を積極的に否定されるご意志で現行憲法を公布されたものではない、という厳粛な事実を確認したうえ、批判の核心である「承詔必謹」について言及するものである。

以下の記述は、K氏への返書の原文のうち、反論部分の要諦である。あえて、原文まままとしたのは、この微妙な問題について、返書の有りの儘の表現の方が筆者の心の丈を最も表していると判断したからであって、何ら他意はない。なお、蛇足ながら説明すると、「貴殿」とは「K氏」のことであり、「小生」とは「筆者」のことである。

二 筆者の反論

先ず、現行憲法第九条の戦争放棄条項が昭和天皇のご発想であるとの貴殿のご見解は、歴史の客観的事実に基づくものではありません。この「戦争放棄条項」(第九条第一項)の原案は「マッカーサー憲法草案」であり、さらに、その原案は、「フィリピン憲法」であることは紛れもない事実なのであります。

フィリピン(フイリッピン)には、フィリピンがアメリカの植民地としてアメリカの占領統治下にあった昭和一〇年(西紀一九三五年)に、アメリカ大統領の裁可を受けて施行された「一九三五年フイリッピン憲法」がありました。ところが、昭和一四年(一九三九年)、同一五年(一九四〇年)に一部改正(修正)され、次いで、大東亜戦争によりフィリピンが解放された後の同一八年(一九四三年)に全面改正されたのであります。しかし、日本の敗戦となり、再びアメリカの占領下となりましたが、同二一年(一九四六年)に再びアメリカからの独立宣言をした後の翌二二年(一九四七年)に再び改正され、同四八年(一九七三年)のマルコス憲法を経て、同六二年(一九八七年)のアキノ新憲法へと改変したのであります。

従って、現行憲法第九条の独自性は、歴史的に見ても全く存在しません。特に、法律的な表現を比較すれば、第九条第一項については、不戦条約(戦争抛棄ニ関スル条約)第一条をそのまま取り入れたに過ぎず、また、第二項は、ポツダム宣言の武装解除と無条件降伏をそのまま規定して、軍備の不所持と交戦権放棄ということになったに過ぎないのであります(前掲拙著参照)。

このように、貴殿のご見解は、GHQの仕組んだデマにすっかり乗せられた反日主義者の策謀により、いかにも日本側が任意に憲法改正に取り組んだとする工作の結果に他なりません。憲法草案を行ったという事実が発覚すれば、マッカーサーといえども、ヘーグ条約違反により失職することは必至でありましたので、GHQは、この批判から逃れるためにも、このような虚偽の風説を、支配下のマス・メディアなどを利用して意図的に流したのであります。

現に、現行憲法の制定過程に関する多種多様な資料を検討しましても、貴殿のご見解を根拠付ける有力な資料は何一つ存在しません。それどころか、GHQの高官でありマッカーサー草案起草の中心人物であったケーディス大佐が、「憲法 第九条の発案は、マッカーサーだった。」と告白(『THIS IS 読売』平成六年九月号)していることなど、現行憲法第九条がマッカーサーの発案であって、昭和天皇のご発案ではなかったことは、今や、全く疑いの余地のない歴史的事実なのであります。

貴殿は、「萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」との昭和天皇の御詔勅の表現を現行憲法第九条ご発想の根拠とし、現行憲法が「平和憲法」であるとの前提に立っておられるようでありますが、これが幻想であり誤りであることは多言を要しません。

おそらく、貴殿のお考えの根底にあるのは、帝国憲法は悪であり、現行憲法は善であるとする東京裁判史観です。帝国憲法や教育勅語のどこに好戦的な表現があるのでしょうか。神武天皇の詔勅にある「八紘為宇」こそが世界平和の真髄であり、それは拙著の最終章である「万葉章」で述べた自立再生論によって実現しうるのです。現行憲法に世界平和創造の積極的な意義と実現への道程は全くありません。現行憲法を平和憲法というのは、反日主義者の妄言であり、単なる「非武装非独立憲法」に過ぎないのです。平和が続いたのは現行憲法のお陰ではなく、実際にはアメリカの核の傘のお陰だったに過ぎません。

世界の平和と安定を希求する大和の精神は、日本肇国以来の伝統であって、不戦条約の批准によって初めて生まれたものでもなく、ましてや現行憲法によって新たに創設されたものでもありません。

また、前述の現行憲法第九条についてと同様、現行憲法全体についても、勿論、GHQが起草したものでありまして、昭和天皇がこれに積極的に関与されたことは全くありません。敗戦後のGHQによる軍事占領下の非独立の日本において、GHQがプレスコードとして言論統制していた中には、マッカーサーが憲法を起草したことを批判することが含まれており、このことは、マッカーサーが現行憲法を起草したことを自認していることの裏返しに他なりません。現行憲法無効論を主張されるG・L・ウエスト博士の『憲法改悪の強要』(嵯峨野書院)という書物の中には、マッカーサーの通訳担当副官であったファビオン・ボワーズ(Faubion Bowers)博士の『何故日本は「押し付け」憲法を廃棄しない』という対談論文が載っており、そこで語られている中にも、マッカーサー・コンスティチューション(現行憲法)が昭和天皇のご発想であるとする根拠は微塵も存在しえないのです。ここでは、GHQが日本の國體と伝統を壊滅させる目的で占領政策を実施し、その一環として現行憲法が制定されたものであることが完全に証明されているのであります。そして、マッカーサーの甥にあたる元駐日大使のD・マッカーサーが、昭和三五年二月九日、伯父のマッカーサー元帥の占領政策の失敗は
①アメリカ流民主主義を採用したこと、
②日本の歴史と伝統を無視した「人間天皇宣言」を行わしめたこと、
③「占領憲法」を強制したこと
の三つであり、「伯父にかわって日本国民に心からお詫びする。」とし、「日本はすみやかに改憲に着手すべきである。」と勧告されたのでありまして、このことを貴殿はどのように理解し評価されるのでしょうか。

にもかかわらず、昭和天皇が現行憲法制定に積極的に関与され、意欲的に容認されていたとの貴殿のご見解は、反天皇の策動による見解ではないかとの危惧すら感じられます。なぜならば、昭和天皇が國體を破壊するために積極的に大日本帝国憲法を否定して現行憲法を制定されたとすれば、現行憲法無効論を唱える小生らを「承詔必謹」に背く大不忠の逆賊と批判される前に、昭和天皇を「反日天皇」とし、「反國體天皇」と批判され、そのご聖徳を冒涜する結果になるからです。

すなわち、帝国憲法を否定して現行憲法を制定することが昭和天皇の積極的な発案であるとされるのならば、それは、祖父帝である明治天皇の欽定された帝国憲法の憲法発布勅語に明らかに背かれたことになるからです。その勅語には、「朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ」とされており、まさに現行憲法の制定は「敢テ之カ紛更ヲ試ミ」たことになりますから、皇祖皇宗の遺訓と勅語に背かれたことになります。しかし、小生は、断じてそのようには見ておりません。進むも地獄、退くも地獄の情況の中で、ご一身を投げ出されて全臣民を救っていただいた大御心によるご聖断と同様、「國體の痛み」を伴ったものに他なりません。昭和天皇の平和への強い祈りは、帝国憲法下で即位されたときから始まり、それゆえに終戦の御聖断がなされたのではありませんか。世人の皮相な評価を差し挟む余地のない深淵な御聖断であると信じます。昭和天皇の大御心は占領下の現行憲法に根拠を求める必要性も必然性も全くありません。もっともっと始源的なものであります。この点を充分に深慮されなければ、昭和天皇は、明治天皇の大御心を独断で否定された希に見る不義の天皇ということになってしまうではありませんか。貴殿が「昭和天皇戦争放棄ご発想説」を主張され、昭和天皇が帝国憲法を諸悪の根源として積極的に否定され、意欲的に現行憲法を公布されたと強調されればされるほど、昭和天皇を不義の天皇としてしまうことになります。それは、尊皇の志篤い貴殿の本意ではないはずです。

現行憲法は、GHQの占領政策である「3R5D3S政策」の実施によって、日本の家族制度や教育などの社会基盤を解体させ、日本の國體を潰滅させることを目論んだものに他なりません。「3R5D3S政策」というのは、 Revenge(復讐)Reform(改革)Revival(復興)の3R、Disarmament(武装解除)Demilitarization(非非軍事化)Disindustrialization(非工業化)Decentralization(権力分散)Democratization(民主化)の5D、Sex(性解放)Screen(映画テレビ)Sport(スポーツ娯楽)の3Sのことであることはご承知のことでしょう。特に、3Sは、日本白痴化政策のためのものであり、現在も継続中であることは周知の事実です。また、ここで言う「國體」の意義と内容につきましては、拙著第六章の「國體論」で述べていますので、説明は省略しますが、現行憲法(米定憲法)は、連合国に対する謝罪声明を伴う國體壊滅推進法であり、その厳格な遵守の主張は反日主義者の策謀によるものであります。昭和天皇は、「國體ヲ護持」せんがため、「時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」、日本の早期復興と独立を実現せんための第一歩として、マッカーサーの指令に従い、現行憲法を公布せられたのでありますが、この現行憲法が帝国憲法を潰変し國體を全否定したものであることは明らかであります。昭和天皇の大御心を忖度いたせば、このような場合、皇室とともに國體護持の担い手である臣民からその法的な無効を主張することは許されるものと考えます。「承詔必謹」の前提となっています「詔」には、マッカーサーによって皇位が簒奪されたに等しい軍事占領下において、天皇の大御心に反して奪取された如きものは含まないのであります。これは、「承詔必謹」の解釈論でありまして、決して「承詔必謹」を否定するものではありません。これに続く「君をば天とす。臣をば地とす。」と文意の中に、「詔」の至高性と國體護持性を読み取ることができます。國體を潰変し、あるいは國體に反する内容の「詔」をも必ず謹めとすることは、詔の自己矛盾に陥るのです。仮に、そうでないとしても、小生は、明治天皇が國體を護持せよとされた「詔」を必謹して、敢えて現行憲法の絶対無効を主張します。

ともあれ、「詔」に優劣はありません。しかし、二つの「詔」の内容が矛盾する場合は、いずれの「詔」がより國體を護持するものであるかを天地神明に誓って真摯に見定めなければなりません。

以上により、貴殿のお考えは、前提事実において無理があり、「承詔必謹」の意味を誤解されている見解であると断言せざるを得ません。貴殿は、この問題は最早議論の余地のない「信仰」の世界であるとして議論を避けようとされましたが、この問題は、そのような隘路に逃避することが断じて許されない性質のものであります。ここまでお話しても、それでも、ご理解いただけないというのであれば、「貴殿は明治天皇の逆臣」、「小生は昭和天皇の逆臣」という皮肉な表現で締め括って、この議論を一時中断したいと存じます。

最後に、小生の決意を申し述べます。不幸にして、國體を護持するか、個々の天皇を擁護するか、との二律背反の極限情況に置かれた場合、たとえ逆臣と呼ばれても、躊躇なく國體死守に殉ずることが忠義の道と心得ております。このことが逆臣の挙か忠義の道かの審判は、後世の判断に委ねたいと存じます。

平成7年12月8日記す 南出喜久治

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