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トップページ > 各種論文目次 > H09.09.25 清水澄博士のこと

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清水澄博士のこと

私の手元には昭和八年発行の『逐條帝國憲法講義』(松華堂)という文献がある。これは、法学博士清水澄(とおる)博士が著された名著であり、私が大日本帝國憲法を研究する際の基本文献の一つである。

私は、青年期に石川県出身の弁護士表権七先生の書生をしながら司法試験をめざして合格したが、その合格祝いとして表先生の蔵書の中から戴いたものである。そのころから本格的に帝國憲法に関する研究をしていた私にとって、郷土の誇る偉人の書は、何よりも素晴らしい合格祝いとしての贈り物であった。

しかし、この文献は、単に学術的に貴重であるという以上に、現行憲法無効論者として開眼した私にとって、その理論的出発点となった聖典とも言うべきものである。

 

では、清水澄博士のことについて述べてみたい。

清水澄博士は、明治元年金沢市に生まれ、東京帝國大学法科を卒業後、学習院大学教授となり、明治三十八年法学博士の学位取得され、宮内省、東宮御学問所の御用掛を拝命された。

大正天皇、昭和天皇に御進講され、行政裁判所長官、枢密院顧問官を経て、敗戦後、最後の枢密院議長に任ぜられた憲法学者である。

しかし、このような輝かしい経歴から隔絶するかのように、清水澄博士は、昭和二十二年九月二十五日、熱海の錦が浦で投身自決されている。なぜ自決されたのか。これについては、饒舌を尽くして博士の死を論うよりも、次に掲げる清水澄博士の遺書でご理解いただきたい。

自決ノ辞

新日本憲法ノ發布ニ先ダチ私擬憲法案ヲ公表シタル團体及個人アリタリ其中ニハ共和制ヲ採用スルコトヲ希望スルモノアリ或ハ戦争責任者トシテ今上陛下ノ退位ヲ主唱スル人アリ我國ノ將來ヲ考ヘ憂慮ノ至リニ堪ヘズ併シ小生微力ニシテ之ガ對策ナシ依テ自決シ幽界ヨリ我國體ヲ護持シ今上陛下ノ御在位ヲ祈願セント欲ス之小生ノ自決スル所以ナリ而シテ自決ノ方法トシテ水死ヲ択ビタルハ楚ノ名臣屈原ニ倣ヒタルナリ

元枢密院議長  八十翁 清水澄  法學博士  昭和二十二年五月 新憲法実施ノ日認ム

追言 小生昭和九年以後進講(宮内省御用係トシテ十数年一週ニ二回又ハ一回)シタルコト従テ龍顔ヲ拝シタルコト夥敷ヲ以テ陛下ノ平和愛好ノ御性質ヲ熟知セリ従テ戦争ヲ御賛成ナカリシコト明ナリ

 

斯くして清水澄博士は、帝国憲法に殉死されたのである。その当時、変節学者や保身学者が多い中で、唯一人帝国憲法に殉死された文人である。

遺書にあるように、中国の戦国時代の楚という国の屈原が汨羅(べきら)の淵に投身自決した故事に倣い、熱海の錦ヶ浦で投身自決してその忠君愛国の至情を貫かれた。その名のとおり、澄んだ清き水が如く、その赤心には一点の曇りもない。

それゆえに、この文人の殉死は、武人の殉死に勝るとも劣らない壮絶さがある。

その昔、明治天皇の御崩御を契機として、乃木希典将軍は、大葬当日、静子夫人と共に殉死された。そして、同じように、清水澄博士は、明治天皇の欽定にかかる帝国憲法が蹂躙されたことを契機として、清水澄博士は、正統憲法である帝国憲法に殉死されたのである。

明治天皇に殉死することと、帝国憲法に殉死することとは、いずれも國體を護持し皇室の藩屏たらんとする信念の発露である。

殉死には、主君の魂と肉体が再生するときに、冥界から甦るための道案内を臣下が務めるためという目的があるとすれば、清水澄博士のご遺志は、まさに帝国憲法を復原するための道しるべを我々に示さんとすることにあると信じている。

 

現行憲法をマッカーサー・コンスティチューションに過ぎないとして終始一貫して現行憲法無効論を主張されているジョージ・L・ウエスト博士が平成六年に来日された際、私はウエスト博士と接する機会があった。

ウエスト博士は、神道研究家としても著名であり、我が国の國體や伝統に関する造詣には頗る深く、天皇陛下にお仕へしたい、と自己の真意を表明されている方でもある。

もちろん、弁護士でもあるウエスト博士は、『憲法改悪の強要』(嵯峨野書院)など多くの著作もあり、現行憲法に関する研究もされており、光栄なことに、私が『日本国家構造論ー自立再生への道ー』(政界出版社)を上梓して現行憲法無効論を主張していることを知っておられた。

そして、来日の目的は、ご神意に基づき現行憲法無効論を日本において定着させることであるとされ、清水澄博士のご遺志は弁護士である私に引き継がれているので安心して帰国できると話しておられた。

しかし、それまでも、そしてそれからも、私は、現行憲法無効宣言運動を展開すべく努力してきたが、未だその成果は充分ではなく、「小生微力ニシテ之ガ對策ナシ」という清水澄博士の無念は、それ以上に今私も痛切に感じている。

ウエスト博士は、このとき私らと君が代を斉唱され、そして、「ラバウル小唄」は現行憲法無効論の応援歌であると明言されてその一番目の歌詞を三度繰り返して独唱された。

なぜ「ラバウル小唄」が現行憲法無効論の応援歌なのかについてお尋ねしなかったので、今なおその理由は不明であるが、それ以来、私はこのラバウル小唄をそのように理解して口ずさんでいる。

 

ところで、私の父方の郷里は石川県加賀市であり、その縁もあって金沢市の石川護国神社に参拝することが多い。そして、その折りには必ずその境内にある清水澄博士顕彰碑の前に佇み、現行憲法無効宣言運動を生涯かけて推進し続けることの決意を新たにする。

東京の青山墓地には清水博士のお墓があるが、清水博士を顕彰するものは、今のところ石川護国神社の顕彰碑しかない。投身自決された熱海の錦ヶ浦には顕彰碑など清水澄博士を偲ぶものは全くないのである。

しかし、清水澄博士のご命日である九月二十五日には、機会があれば毎年錦ヶ浦を訪れて清水博士のご冥福を祈りしつつ現行憲法無効論の普及にご助力をお願いするのであるが、そのとき、いつもこの錦ヶ浦に見立てられた汨羅の淵とはどのようなところかと想像しながら、三上卓氏の青年日本の歌(昭和維新の歌)を口ずさむ。

そして、その歌い出しにある「汨羅の淵に波騒ぎ」のところは、これを歌うとき、私にとっては屈原というよりも清澄水博士のことを、しかも錦ヶ浦の波濤を常に強く想念している。

このように、清水澄博士の投身自決による殉死の意義の重さを思うとき、今まで余りにもこの事実は無視され続けてきたことに憤りさえ覚えるのである。

清水澄博士の学業を最も近い立場で知っているはずの当時の憲法学者の殆どは、これを後世に伝えることすら怠っている。否、むしろ積極的にこの事実を抹殺しようとしてきたのである。

皇運を扶翼すべき憲法学者の変節と保身を一命を賭して諫めようとされた清水澄博士の殉死は、変節保身の輩にとって自己の立場を維持するに不都合でさえあったからである。

乃木将軍の殉死はその心を尊ぶ時代のものであったのに対し、清水澄博士の殉死はそれを疎む世相のものであったという違いはあるにせよ、明治天皇に殉死した乃木将軍をお祭りする乃木神社が東京と京都に二カ所あるのに、明治天皇の欽定にかかる帝国憲法に殉死した清水澄博士をお祭りする「清水澄神社」は一つもない。

 

現在において、東京裁判(極東国際軍事裁判)の無効性や近現代史の再評価については少しづつ議論されてはきたが、現行憲法の無効性に関する議論については殆ど議論されていない。東京裁判の断行と現行憲法の制定がGHQの占領政策における二大方針であったにもかかわらず、一方のみを議論して他方を議論しないというこの不均衡は、未だに我が国が占領政策から完全に脱却できていない証左であり、それが「清水澄神社」の不存在に象徴されていると自覚すべきである。

東京裁判の無効性はもとより、現行憲法の無効性を主張しない者は、いかなる弁解をしようとも、反日思想に毒されていることは明らかである。

今こそ我々日本国民は、我が国の真の独立のために現行憲法無効宣言運動を一丸となって展開すべき時が来たのではないだろうか。

平成9年9月25日記す 南出喜久治

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