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トップページ > 各種論文目次 > H18.08.14 いはゆる「保守論壇」に問ふ ‹其の一›東京裁判と講和条約第11条について1

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いはゆる「保守論壇」に問ふ ‹其の一›東京裁判と講和条約第11条について

何を重んじ何を守つて何を維持発展させるのか

ここに「いはゆる」保守論壇と表現したのは、広辞苑によれば、「保守」とは「旧来の風習・伝統を重んじ、それを保存しようとすること」とあり、また、保守主義とは「現状維持を目的とし、伝統・歴史・習慣・社会組織を固守する主義」とあるものの、我が国においては、この言葉の意味には一義性がないためである。

なぜならば、保守とか保守主義といふものは、一般には、「現状維持」が「伝統維持」と同等・同価値である伝統国家であれば「伝統保守」を意味することになるが、有史以来初めて、敗戦、他国による軍事占領、非独立を経験し、その占領統治理念に基づいて形成された価値観によつて統治され今日に至つてゐる我が国においては、その前後における統治原理と価値観とが明確に断絶してゐることから、一体、守るべきものがいづれの価値観であるかによつて、「保守」の概念は多義性を持つからである。つまり、敗戦前の伝統を重んじる主張は、決して「現状維持」ではなく、「伝統回帰」、「伝統復興」を目的とする革新運動を目指すことになり、敗戦後の理念を維持する主張は、「現状維持」を目的とする変革否定(守旧)運動を志向することになる。ここに、「保守」と「革新」とが交錯することとなり、保守の意義には、「伝統保守」と「戦後保守」との二種に区別される。

しかし、この区別は、一見すれば明確であるやうだが、この戦前における「伝統」の意義にも多面性があり、戦後の中にも戦前の伝統を受け継ぐ事柄もあることから、何を戦前の価値体系とし、何を戦後の価値体系とするのかの線引きが困難とも言へるが、戦後体制の根幹となる占領憲法と占領典範による敗戦後の国内体制、そして、これを対外的に固定化した東京裁判、講和条約、日米安保条約、国連憲章による戦勝国の国際体制の価値観を全て歓迎的に容認するものを「真正戦後保守」と定義し、その対極にあつてこれら全てを峻拒して否定するものを「真正伝統保守」と定義すると、その中間に位置する折衷的立場は、「不真正伝統保守」であると同時に「不真正戦後保守」といふことになり、ここにもまた保守概念の錯綜が生ずるに至る。

そして、現在の、いはゆる保守論壇の殆どは、「真正伝統保守」ではなく、占領憲法、占領典範、東京裁判、講和条約、日米安保条約、国際連合憲章の全部又は一部を全面的又は限定的に容認することにおいて共通してゐる。そこで、本稿の目的は、この「真正伝統保守」の立場に立ちつつ、いはゆる保守論壇の主張における論理性の欠如など、いはゆる保守論壇に問ひ糺さなければならない多くの事項について論述することにある。

東京裁判

そこで、初めに、東京裁判(極東国際軍事裁判)が有効か無効かについて述べてみたい。

まづ、東京裁判については、当時の国際法として確立してゐた罪刑法定主義、とりわけ事後法による処罰の禁止の「原則」に抵触するから当然に「無効」であるとする見解(無効説)と、国際法とは時代の変遷とともに流動的に変化するものであつて「例外」もまたその運用実施によつて容認されるので「有効」であるとする見解(有効説)とが対立してゐる。

はじめは違法でなかつた行為を後になつてから法律で違法とし遡つて過去の行為を処罰することを禁止するのは、国際法の大原則であることから、東京裁判はまさにこれに違反するとして、保守論壇の多くは、無効説を主張し、確かに、これが「無効」であるとすることの方が法論理的に正しいものであることから、徐々にこれが多方面において理解が浸透してきた傾向があるとしても、未だに有効説も根強く残つてゐる。原則には、例外は付きもので、重大な場合は遡及的処罰も許されるとするのである。

「無効」を主張する言論人は、その言説がメディアに乗れば、それによつて大衆を啓蒙できると錯覚してしまふが、その実は、売文によつて自己に利益をもたらすだけであつて、啓蒙できたとする大衆は、これにより僅かばかりの知的満足を得ただけで、これが選挙などの争点とはならないことからして、その知的満足は、その殆どが政治的には無力である。これが現実政治を変革するだけの影響力がない限り、また、東京裁判が「有効」であるとの公権的解釈(有権解釈)を覆すだけの説得力がない限り、自己満足の敗北主義であることを自覚しなければならないのである。  そして、この自責の念を抱きながら、さらに言論人として、その影響力と説得力を高めるために何をなすべきかを考へたとき、一つの結論に至る。

それは、まづ、論理学による補強である。

単に、東京裁判が「有効」か「無効」かといふ結論に導くための理由付けだけを列挙して論争するといふのは、実のところ、それは異なる宗教間の教義論争に等しく、絶対に結論は出ない。サッカーで喩へて言へば、相手チームの本拠地で行ふアウェー・ゲームにするか、自分の本拠地で行ふホーム・ゲームにするか、といふことは、サポーターの動員と会場の雰囲気などを考慮すると、どうしてもホーム・ゲームを希望するのは人情である。しかし、試合場をどこにするかの争ひだけをして、その結論がでないことの不利益は、シードされた(公権的解釈がなされてゐる)有効説チームの言ひ分(有効説)が認められ、無効説チームがアウェー・ゲームを拒否することを試合放棄とされて、戦はずして敗北する。つまり、公権的解釈(有権解釈)を覆そうとする立場(無効説)に不利益がもたらされることは明らかである。

それゆゑ、無効説としては、アウェー・ゲームで勝利する実力を身に付けなければならないことになる。つまり、具体的には、仮に、有効説の土俵に立つたとしても、有効説による論理展開に致命的な矛盾や破綻があることを指摘し、あるいは、有効説から何らかの工夫を加へて無効説へと転換しうる魔法のやうな方法を見出すことの努力をしなければならないのである。これを怖れて有効説の土俵に上つて論理展開を試みることをしないのは、知勇の欠如した敗北主義へと陥るのである。

しかし、残念ながら、東京裁判については、これを「有効」であるとする前提に立ちつつ、その論理矛盾や破綻を見出すことは今のところ考へつかない。むしろ、無効説は、東京裁判を一応は「裁判」であることを前提条件とした立論であるのに対して、有効説からは、逆に無効説の土俵に立ち、無効説の理由付けを借用して、こんな出鱈目なものは「裁判」の名に値するものではなく、これは、裁判といふ名称が付された公開処刑的な「戦闘行為」であり、それが「講和」に至るための「条件」であるから、却つて有効なのであると主張されることによつて、まさに無効説の理由付けを逆手にとつて返り討ちにされるのである。無効説の側からも、東京裁判の無効性が著しいことから「東京裁判は裁判ではない」と叫んでしまふ人もゐるが、これはホーム・ゲームでのオウン・ゴールによる完敗を意味する論理破綻である。

ところで、連合国が、罪刑法定主義に違反してまで東京裁判を断行し、さらに、後述するとほり、講和に際して、アムネスティー条項の原則に違反して講和条約第11条といふ重大な例外規定を定めたことは、これまでの「国家は国家を裁けない」とする国際慣習法を否定して、「国家が国家を裁く」ことを試みた連合国の強い意志があつたからに他ならない。

それは東京裁判において、主な政府首脳を訴追することは勿論のこと、天皇を訴追するか否かといふ問題が検討されたことでも明らかである。連合国からすれば、我が国は天皇国家であり、立憲君主制と絶対君主制とが混在した政体と理解してゐたことから、「朕は国家なり」として、天皇を裁くことは、すなはち我が国を裁くことと同じであるとの理解があつたからである。しかし、結果的には、天皇不訴追が決まつたが、それは、国家が国家を裁くといふ連合国の企てを放棄したためではなかつた。たまたま、米ソがそれぞれの事情と目的によつて不訴追を決定しただけである。

アメリカの場合は、我が国民を占領政策に服従させるためには、天皇を訴追することによつて国民の反発を生じさせて不服従に駆り立てさせるよりも、天皇を訴追しない状態に留めるといふ「人質」作戦により、もし、国民が不服従となれば、最後の切り札として天皇訴追に踏み切るといふ脅しにより国民を手懐けて占領政策を推進させることを是としたからである。

また、ソ連の場合は、早々と天皇不訴追方針を決めてをり、昭和21年4月3日には極東委員会は天皇の戦犯除外を決定してゐる。それは、敗戦前に既に決められたもので、昭和19年に延安にゐた野坂参三がアメリカ政府から延安に派遣された使節団(ディキシー・ミッション)と接触し、「われわれは天皇打倒のスローガンを回避する」と申し入れ、これがアメリカ本国に伝達されてゐた。野坂は、モスクワのコミンテルン勤務から延安に移動した後のことであり、この方針はソ連の方針であつて、野坂はそれを単に伝達したに過ぎない。なぜ、ソ連がその参戦前から、来るべき我が国の敗戦後に天皇不訴追方針を決めてゐたかといふと、それは野坂の意見が採用されたからである。野坂の意見は、根強い天皇崇拝意識下の我が国において、天皇の処罰(処刑)と天皇制の廃止を求める運動を展開することは大衆から完全に遊離してしまひ革命が遠のく結果となつてしまふとの現状分析と、天皇個人の退位と天皇制の廃止とを区別し、天皇制廃止への第一歩として天皇の退位を求めていくといふ運動を展開するものであつた。イタリアでは、昭和19年6月に、国王の退位、皇太子の即位、王制の廃止による共和制の樹立といふプロセスを経たことが野坂の主張のヒントとなつたのである。そして、野坂は、昭和21年1月12日に帰国して、既に釈放されてゐた徳田球一と志賀義雄らと日本共産党の路線をめぐる協議をしたが、徳田と志賀は、天皇個人と天皇制との区別は承認したものの、天皇退位論も運動論として時期尚早として日本共産党の方針としては退けられたといふ経緯があつた。

野坂が延安で接触したアメリカの使節団のメンバーの多くはいはゆる「中国派」で容共勢力であり、ルーズベルトとトルーマンが率ゐる民主党政権が容共的体質であつたことの証左でもある。ちなみに、昭和20年7月23日付でOWI(戦時情報局)日本部長のジョン・フィールズが野坂に感謝状を送つてゐることが公開文書から明らかになつた。このことは、日本共産党が主張するやうに、野坂が二重スパイであつたとする根拠にもなり得るのだが、むしろ、東西冷戦構造の始まりにおいて、米ソが天皇不訴追といふ共通した結論を同床異夢として抱いてゐたと言へるのであり、「ヤルタ密約」に野坂が関与してゐたのではないかと推測させる事実である。さうであればこそ、日本共産党がマッカーサー率ゐるGHQを「解放軍万歳」して占領を受け入れたことの説明がつく。謀略の限りを尽くす日本共産党が軽率に「解放軍万歳」と叫んだとは考へられないからである。

いづれにせよ、東京裁判は、これまでの戦犯軍事裁判とは異なり、敗戦国である我が国の「国家行為」を裁く目的があつたため、国家元首である天皇にもその共同謀議があつたか否かを問題としたのである。当時の政治的判断からたまたま訴追されなかつたといふべきであつて、やはり、東京裁判は、国家が国家を裁いたものと評価される側面があることを否定できない。

確かに、世界の国際法学の世界では、無効説が定説となつてゐるとしても、それは国際政治において通用した見解ではない。むしろ、有効説は、戦後体制の基本となつた国連憲章に、我が国などの敗戦国を敵国であると規定し、事後のおいても制裁できるとする条項(敵国条項)が依然として存在することや、アムネスティー条項の原則の重大な例外としてわざわざ定められた講和条約第11条を根拠として有効であると主張することに対し、無効説は、単に、講和条約第11条の解釈論だけの反論に留まり、国連憲章に敵国条項が未だに存在することなどの問題について充分に反論することができないでゐる。

そして、このまま保守論壇といふ狭い言論界が、それ以外の広い世界を相手にして、「無効」か「有効」かといふ学理解釈の対立をしてゐるだけでは、現実政治とメディアを支配してゐる見解が公権的解釈(有権解釈)として拘束力を持つのであるから、これはいつまでも「有効」なものとして決着が着いてしまふのである。

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