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 崇德上皇と「山吹憲法」

昭和二十一年六月二十六日、帝國議會の帝國憲法改正案第一讀會で、衆議院議員北浦圭太郎は、「八重、花ハ咲イテ居リマスルケレドモ、山吹ノ花、実ハ一ツモナイ悲シキ憲法デアリマス」と発言し、占領憲法は「山吹憲法」であると嘆いた。八重咲きの山吹(やへやまぶき)は、花は咲いても實がならない。それと同じやうに、第一條から第八條までの八箇條の天皇條項には、元首たる天皇としての「實」がない憲法であるといふのである。

占領憲法は、象徴天皇制とされてゐるが、その實質は立憲君主制ではなく「共和制」である。天皇の地位は「主權の存する日本國民の總意に基く」(占領憲法第一條)とする國民主權といふものは、國民が主人で、天皇が國民の家來といふことであつて、いつでも廢位させることができるし、天皇條項を全面削除することもできるのである。天皇といふアクセサリーを政治利用の手段とする共和制の憲法が占領憲法であり、まさしく「傀儡天皇制」である。これを象徴天皇制などと浮かれて賞賛する者は、GHQの洗腦が未だに解かれない付和雷同のお調子者に過ぎない。

「天皇は國家のために存し給ふものに非ず」と軍神杉本五郎中佐はその遺著「大義」の中で述べた。これを理解しうるか否かが日本人であるか否かの分かれ道となる。

ところで、その昔、崇德上皇は、保元の亂において、後白河天皇と戰つて敗れ、仁和寺で髪を下ろして恭順を示されたが許されず、讃岐に流刑となられた。保元物語によれば、讃岐では佛教に深く傾倒され、恭順の證として、後世の安寧と戰死者の供養のために專心に完成された五部大乘經の寫本に和歌を添へて朝廷に獻上し、都のあたりの寺に奉納されることを願はれた。しかし、すでに治天の君となられた後白河法皇は、寫本に呪詛が込められてゐるのではないかとの疑ひからこれを拒否され、これに從つた朝廷はその寫本を崇德上皇(崇德院)に送り返された。これに激怒された崇德上皇は、舌先を噛み切り、そのしたたり落ちる血を以てその寫本の全てに「日本國の大魔縁となり、皇を取つて民とし民を皇となさん」「この經を魔道に回向す」と誓状を書きしたためて海に沈められ、その後は爪や髪を伸ばし續け、夜叉のやうな風貌となつて失意のうちに讃岐で崩御された。

この「皇を取つて民とし民を皇となさん」といふ、天皇と臣民との逆轉は、それから約四百五十年後に、徳川幕府が禁裏を拘束する「禁中竝公家諸法度」となつて顕れる。その後の「禁裏御所御定八箇條」も同じである。明治天皇も崇德上皇の鎭魂にこころを碎かれた。ところが、さらに、天皇を家來とし國民を主人とする占領憲法が出現することによつて崇德上皇の怨念は成就したと云へる。

それゆゑ、祖國再生のためには、崇德上皇の御靈の鎮魂と修拔を第一歩とし、その上で占領憲法の無效宣言をなして國民主權といふ傲慢不遜な政治思想から解放される道を歩むことしか殘されてないのである。靖國神社や各地の護國神社に祭られてゐる英靈は、「山吹憲法」といふ弑逆憲法を後世の者に作つてほしいために散華されたのではない。占領憲法を無效とする志も勇氣もなく、占領憲法を有效であるとして「改正」しか主張できない者は、この忌まはしい占領體制を改正してまでも永遠に守ろうとする國體破壞の「國賊」である。

そのやうな者には大東亞聖戰の大義を語る資格も、大東亞聖戰大碑を護持する能力もなく、そのやうな性根を持ちながらも靖國神社と各地の護國神社を參拝することは、英靈に對する冒涜となることを深く自覺せよ。

平成21年9月15日記す 南出喜久治

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