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トップページ > 各種論文目次 > H22.08.09 自決と蹶起(岡崎功先生のこと)

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自決と蹶起(岡崎功先生のこと)

ある高等学校の歴史教科書の最後に、こんな記述がある。


 見よ、人類に幸福を齎らし、世界を平和に導く理念は、いみじくも三千年の昔、神武天皇が詔勅に仰せられた『八紘為宇』の精神である。


 我らの祖先はなんという壮大雄渾な理念を、我ら子孫に残してくれたことであろう。古典は民族の魂のふる里であり、精神革命の拠点である。民族が新しき飛躍を決意した時、必ず古典の精神に回顧する。かくて、古語は眞実の言葉となり、古典は眞理の泉となる。


 昨日創られた国家はあつても、昨日生まれた民族はない。民族の血は永遠である。日本民族の永い歴史に育まれた床しい伝統と、限りなき未来への前進の接点に、いま、日本の青少年は起こつているのだ。


 征け、若人よ、


 歩み来つた民族三千年の大行進は、今こそ君たちの手によつて受け継がれ、さらにさらに、永遠の彼方にまで、遙かなる前進を続けて行くことであろう。


   祝福あれ、日本。

   栄光あれ、日本。

   萬歳、  日本。



これは決して戦前のものではない。島根県松江市にある学校法人淞南学園(松江日本大学高等学校、現・学校法人淞南学園 立正大学淞南高等学校)の平成元年版の日本歴史教科書「國史」上中下三巻のむすびの部分である。

この学校は、私が敬愛して止まない岡崎功先生が昭和三十六年に創設された学校で、昨年(平成二十一年)の第九十一回全国高等学校野球選手権大会でベスト八に進出し、また、サッカーでは、「野人」のニックネームで親しまれ、平成十年のフランスW杯アジア代表決定戦で決勝ゴールを決めて、日本をワールドカップ初出場に導いた岡野雅行選手など多くのサッカー選手を輩出してゐる。

ここでの教育は、毎朝の朝会において、全教職員と全生徒が集まつて東方遥拝、祝詞奏上、教育勅語の合唱、君が代・校歌斉唱を行ふなどの「正統教育」がなされてゐる折り目正しい学校である。

日本史の授業を「國史」と呼称し、独自に編集した教科書が使用されてをり、先に引用した平成元年度版の「國史」も岡崎功先生から直々に頂戴したものである。


岡崎功先生は、ポツダム宣言受諾後間もない昭和二十年八月二十四日に起こつた、いはゆる「松江騒擾事件」の中心人物として無期懲役(求刑・死刑)となり、恩赦後に釈放されてからこの学校を創設された方である。


この松江騒擾事件についてはインターネットでも紹介されてはゐるが、正確な真相を伝へた上でなされた論評は少ない。しかし、この「國史」には、この事件の概要が、昭和二十年八月十四日未明から翌朝にかけて一部の陸軍将校などによるポツダム宣言受諾阻止、玉音放送阻止、聖戦完遂のためのクーデター未遂事件(宮城事件)や、「(八月)二十六日正午までに厚木飛行場を整備せよ」との勝者であるマッカーサーの絶対命令に抗して徹底抗戦を企てた、いはゆる「厚木航空隊騒擾事件」などの経緯の脈絡から、その概要が述べられてゐるので、少し長くなるが以下に引用する。


 厚木の航空隊に呼応して蹶起せんとしたのに鳥取県弓ヶ浜の美保航空隊があつた。十五日以降美保航空隊は連日民間有志と連絡をとり、伝単を配布して国民に呼びかけた。

 

 「神州ハ不滅。敵ノ軍門ニ降リテ何ノ國體ノ護持、皇室ノ護持ゾ。國民ヨ、米英ノ走狗ノ甘言ヲ信ズルナカレ。降リテ千年ノ汚名ト、永遠ノ暴圧ニ生キルヲ思ハバ、原子爆弾恐ルルニ足ラズ。我ニ眞ノ大和魂ト特攻アリ。陸海航空兵力未ダ健在ナリ。我等最后ノ一兵マデ戰ヒテ神州ヲ護持セン。國民ヨ、幾多玉砕セル将兵、最后迄頑張リ抜イタ沖縄縣民ニ恥ズル事ナカレ。仇敵米英ニ降ルハ眞ノ帝國臣民ニ非ズ。

                          大日本帝國海軍航空隊


 かかる海軍航空隊の蹶起と軌を一にして、島根県松江市において決死の青年を率いて蹶起したのは尊攘同志会の岡崎功であつた。岡崎は早くより憂国の志を抱き、東条内閣打倒を策して憲兵隊に拘われたが、拷問に屈せず同志を守り通した。敗戦の詔勅を拝するや、護国神社の社前において自決し、悠久の大義に生きんと秘かに決意した。

          三千年侵されざりし國むなし

               吾が身もともに往きて死なばや

 

 この決死行に同調した彼の教え子四十数名が、共に自決せんという。女性も十数名いる。かかるうちに中央の情報も伝えられ、尊攘同志会も蹶起するという。航空隊も起つ。ここにおいて岡崎は同じ死ぬなら、断乎決戦を呼号し、一億抗戦の魁たらんとして、皇國義勇軍を組織した。しかしもはや航空隊は解散し、松江の陸軍部隊も呼応しない。

 

 八月二十四日午前二時護国神社に集合し、武装した男女青年四十六名と共に、島根県庁を焼討ちし、変電所を襲つて市内を暗黒化し、不正役人を斬つて抗戦の決意を示さんとした。しかし、事志と違い、県庁を焼討ちしたのみで放送局を占拠し、ラジオを通じて国民に訴えんとした。やがて警官隊と軍隊に包囲され、事件の責任を負うた岡崎は自決を図つたが、意識不明のまゝ病院に運びこまれ、九死に一生を得た。世にこれを松江騒擾事件という。

 

 混乱と絶望と虚脱が日本の全土を覆うている時、心ある少数憂国の士はあるいは自決して邦家の敗北に殉じ、あるいは蹶起して狂瀾を既倒に回(かえ)さんとした。何れも国を思い、民族の前途を憂うる至情の迸(ほとばし)りであつた。

 


私は、昨日もこの教科書の記述を読んで、また今年も巡つてきた慰霊と顕彰の季節に、神州生気を再生させ祖国復興への誓ひを新たにする。

この誓ひもできない者が、靖国神社や護国神社に一体何のために参拝するのか。岡崎先生は、平成十八年三月二十日(亡母の誕生日)に逝去されたが、私は、今も岡崎先生から学んだ、憂国の至情に生きることの矜持を守り続けてゐる。屁理屈をこね回し、改正論などを唱へて占領憲法を根本から打破する勇気も志もない腰抜け、腰砕けの者共では、英霊の「顕彰」どころか「奉慰」もできないもので、御英霊に対する冒涜であることも、岡崎先生は私に語つてをられた。そして、他にも、正統な伝統を守るためには季節感の回復が必要であるとして、立春を元旦として季節感を取り戻すといふ運動も提唱されてきたことから、私もこれに呼応して今もその運動を続けてゐる。


民族の生気を回復させるためには、歴史においては正統な皇国史観の復興が必要となる。そのためには、その正統な歴史観で貫かれたこの「國史」を読む必要がある。そして、これと他の歴史教科書を読み比べれば、今あるどの歴史教科書も正しい歴史を伝えへてゐないことが解る。つまり、「検定制度」といふ思想統制制度が正史を歪め続けてきたのであり、これに依拠しながら、これまでよりも少しマシな教科書をいくら作つたとしても、外国に居て不慣れな日本料理もどきを食べるにも等しいもどかしさを感じる。全国の中学・高校の歴史教育については、せめてこの「國史」を補助教材としてでも活用すべきことこそが眞の教科書運動、歴史教育運動でなければならないと確信してゐる。


ともあれ、この慰霊と顕彰の季節には、多くを語らず静かに過ごしたいのであるが、最後に一つだけ、この「國史」が、占領憲法をどのやうに描いてゐるのかについて紹介して終はりにしたい。


 当時の日本政府内部においても、かゝる押しつけ憲法の採用、占領下に自由意志を奪われた国家として、革命的憲法を受諾することは、将来の禍根にならんと憂いた者もあつた。しかし大多数の意向が当時の情勢下において新憲法の草案に応じ、一日も早く民主国家、平和国家たるの実を示し、連合国より信頼をかち得るのが先決である。なるべく早く講和条約を締結し、独立と主権の回復を図る方が有利なりと判断した結果であつた。

 

 首相吉田茂が議会の答辯において、

「日本がこの悲運に処して、國體を護持し、國民の幸福を維持するがためには、日本従来の国家組織が、再び世界の平和を脅かすものであるとの諸国の誤解をとくことが第一に考えられねばならぬ。そのためには基本法たる憲法を、平和主義、民主主義に徹するものとして、世界に表明しなければならない」


と説き、あくまで外に向つての擬態としての憲法であることを述べている。憲法は国民の民族的伝統が土台となり、国民の総意に発したものでなければならない。占領憲法はあくまでも便宜主義的な、当面を糊塗する方便の一つであつた。

 


このやうに、「外に向つての擬態としての憲法」、「占領憲法はあくまでも便宜主義的な、当面を糊塗する方便の一つ」とされてゐることからして、占領憲法は憲法として無効であり、講和条約として有効であるとの私見と同様の見解と言へよう。講和条約が憲法といふ形の「擬態」であるといふのである。この卓見こそ、岡崎先生が先覚者であることの所以と、崇敬の念を禁じえない理由でもある。



平成二十二年八月九日(長崎原爆の日)記す 南出喜久治

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