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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第十八回 自由と平等

たひらかど そのなにたがふ ふそろひの いきほひえしが やすらかをえず (平門(平氏一門)その名に違ふ不揃ひの勢ひ(権勢)得しが安らか(自由)を得ず)


京都府宇治市の宇治川河畔に、藤原頼通が建立した「平等院」があります。これは、後一条、後朱雀、後冷泉の三朝に亘つて摂政、関白を務めた藤原氏全盛時代の藤原道長、頼通親子の時代のもので、道長の別荘を長男頼通が譲り受けて寺院としたものです。阿弥陀如来像のある鳳凰堂は現在では国宝になつてゐます。

宇治といふ名は、応神天皇の皇太子でありながら、長兄であるオホサザキノミコト(大鷦鷯尊、後の仁徳天皇)に皇位をお譲りするために自決されたウジノワキイラツコノミコト(菟道稚郎子尊)の御名に由来します。平等院の前に流れる宇治川には、古くから「宇治橋」があり、日本書紀や日本霊異記(にっぽんりょういき)などにも出てきます。壬申の乱のときでも、大友皇子は大海人皇子が宇治橋を経て兵粮を運ぶことを防がれたほど、後においても、平安京への枢要な出入口に位置してゐます。


ここに挙げた日本霊異記ですが、これは薬師寺の僧景戒が著した我が国最古の仏教説話集であり、頼通が生まれる約百八十年前のものですから、頼通もこの書物を読んでゐます。そこには、「不孝の衆生は必ず地獄に落ち、父母に孝養すれば浄土に往生す」といふことが書かれてゐます。浄土思想も、このころまでは、父母の孝養や祭祀を排斥するものではありませんでした。むしろ、それを行ふことが浄土に往生するために必要であるとされてゐました。そこで、父母の孝養のため追善供養をして浄土に往生したいとの願望が平等院建立の動機となつたことは否めません。栄華を極めた人であつても、寺院を建立することまでしなければ、心の安らぎが得られなかつたといふことです。しかし、さうしたからと云つて、本当に心の安らぎを得られたか否かは解りません。


ところが、平等院建立からさらに二百年ほど下つた親鸞の時代になると、「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念佛申したること、いまだ候はず」と「歎異抄」で親鸞が語つてゐるやうに、浄土門の教へは、このころになつて、ついに「父母の孝養」を否定し、祭祀を否定するまでに至りました。しかし、親鸞の娘の覚信尼は、父・親鸞とは異なり、祭祀の本能を失ひませんでした。そして、母である親鸞の妻の恵信尼に、果たして父(親鸞)は本当に極楽往生したのかの疑ひを投げかけて、その深刻な悩みを書いた手紙を母(恵信尼)に送つてゐたことが資料として残つてゐます。娘・覚信尼は、父・親鸞が極楽往生したとは思つてゐなかつたのです。このやうに、当時の人々の極楽往生への願望は強く根深いものがありました。


ともあれ、栄華を極めた藤原氏も、その後に同様の栄華をほしいままにした平氏も、皮肉なことに「平等」に縁があるやうです。一門が栄華を極め、要職の殆どを占めたのに、「たいら(平)」とか「平等」とか言ふのは、嫌みか戯れのやうに聞こえます。栄華を極め要職を一門で占めたことは「不平等」の極みであり、しかも、次から次へと起こり続ける没落への危機と恐怖感から、心の安静は最後まで得られなかつたのです。心が安らかなること(安静、安寧)とは、他からの強制、拘束、妨害を受けないことであり、それがまさに「自由」なのです。そして、極端な不平等が救ひ難い不自由を招いたとも言へるのです。


「自由」といふ言葉は、そもそもは煩悩から解脱して悟りを開き物事を正しく観る(見極める)意味の「観自在」といふ仏教用語と同じ意味として使はれてゐました。仏のことを自在人と呼び、思ひのまま、何の束縛も障害もない「自由自在」の仏や菩薩の力のことでした。ですから、悟りを開いてゐない人間が「自由」であるはずがありません。権勢を恣にして不平等を極めればさらに煩悩は深まり、自由からさらに遠のくのです。さういふことをするのは、「勝手」とか「身勝手」とか「勝手三昧」と呼ばれました。


かういふ自由と平等の意味は、近代日本において変化します。それはフランス革命の思想を我が国の軽佻浮薄の知識人たちが欧米の猿真似をして受け入れてからのことです。それは、フランス革命のスローガンである「自由、平等、博愛」に象徴されます。そもそも、自由と平等とは両立しません。自由な活動の結果は、当然に不平等をもたらすからです。この矛盾がフランス革命といふ集団ヒステリーによつて混乱と破壊を生みましたが、その余熱が我が国にまで及んできたのです。


「我日本古より今に至る迄哲学無し」「総ての病根此に在り」と述べるなど、ルソーの信奉者となつて「東洋のルソー」を自負した中江兆民や、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」と述べた福沢諭吉など、その他数へ切れない文化人と呼ばれる者たちは、それこそ表現の方法や程度の差こそあれ、天賦人権論と社会契約説及び個人主義を振りかざす完全な合理主義者、啓蒙思想家であり、これらの者たちの跳梁が近代日本の始まりを象徴したかと思ふと、余りにもおぞましい限りです。

特に、福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」といふ言葉は、天賦人権論と平等論を端的に表現したものでした。「天」とは何か、「人の上」、「人の下」、「人を造る」とは何か、この意味が正しく探求されないまま今日に至つてゐるのです。天とは、天主、つまり絶対神(God)のことであり、人を造るとは、天主がアダムとイヴを造つたことであつて、絶対神と人間とは絶対的上下の関係にあり、人間同士はすべて平等で横並びといふことです。親子の区別も長幼の序もなく、すべて平面的に平等といふことです。福沢諭吉は、天賦人権論といふキリスト教の異質な別派の教へに染まり、新たな布教を開始したのでした。そして、その他の明治の知識人たちも、こぞつて祭祀を捨てました。

福沢諭吉は、「人の上」が「祖先」であり、「人の下」が「子孫」であることを理解できなかつたのです。「人の上に人を造らず人の下に人を造らず」といふのは、祖先も子孫も否定し、すべて一律横並びの社会として祖国日本を解体することに尽力することを意味します。


この福沢諭吉と中江兆民は、いづれもロシア革命を見ることなく、仲良く同じ年に死にましたが、福沢諭吉と中江兆民が染まつた思想の源流は、革命国家アメリカの独立宣言がなされた同じ年(1776+660)にまで遡ります。この年の五月一日、南ドイツ・バヴァリア(現在のバイエルン)のインゴルシュタット大学の法学部教授であつたアダム・ヴァイスハウプトが秘密結社イルミナティを創設したのです。当時のバヴァリアはイエズス会の支配下にあり、ヴァイスハウプトもイエズス会員の家に生まれ育ちました。しかし、神の僕となる信仰に抵抗し、理性礼賛、合理主義、啓蒙主義哲学、世界主義(コスモポリタニズム)、キリスト教的信仰の否定、唯物論、自由平等思想、革命思想を唱へ、その実現の手段としてイルミナティを創設したのです。しかし、バヴァリア政府はイルミナティを数回に亘つて弾圧し、遂にヴァイスハウプトは国を追はれ、以後は地下活動を開始することになります。イルミナティ会員には、理神論者、無神論者も居ましたが、理性礼賛において共通し、自分たちこそこの世界を支配する神あり、神さへ自分たちの前に従ふべきものであると信じたのです。それをフォイエルバッハ、ルソー、マルクス、ニーチェなどが受け継ぎました。そのことは、昭和十三年のトロツキスト裁判で、クジミンの尋問を受けたラコフスキー(ウクライナ人民委員会議長、元駐仏ソ連大使、革命家)の語つた証言に示されてゐます。


「君は、歴史的には語られていないが、われわれだけに判っていること、つまり最初の共産インターナショナルの創立者がアダム・ヴァイスハウプトであったことを知っているかね。彼は革命家で、フランス革命を予見し、事前にその勝利を保証したユダヤ人で、元イエズス会士であった。彼は自分で、或いは誰かの命令によって、秘密結社をつくったのだ。」


といふラコフスキーの証言は、革命国家が「主(ヤハウェ、エホバ)の権利」、つまり「主権」を合理主義(理性論)によつて奪取してきたことの思想的系譜を端的に示してゐるのです。


このやうに、近代日本は、まんまと陥れられて、日本人によるオウンゴール的失態が続いて今日に至つてゐます。これまで、いろいろな機会において、天賦人権論や社会契約説などの欺瞞と矛盾を話してきましたので、ここでは本題となつてゐる自由と平等に絞つて話を続けます。


人は誰でも、一度は邪教に染まり邪念を抱いても、本能による復元力で回復することがあります。私も浄土真宗といふ邪教を棄教できたのも御先祖様のご加護の賜物と感謝して居ます。そして、中江兆民もまた、晩年になつて、帝政ロシアとの開戦を主張する近衛篤麿が主唱する「国民同盟会」に參加して、これまでの活動を懺悔して改心し、ルソー教から離脱しようとしましたが、それは時すでに遅しの感がありました。このやうに、晩年になつてから同じやうに改心した人も多く居ます。たとへば、マルクス主義や唯物論を受け入れた哲学者の立場からロシア革命を支持しましたが、ロシア正教会に入信して宗教的実存主義を唱へたことなどで革命政府が追放されたベルジャーエフといふロシア人が居ました。実存主義といふのは難解な哲学であり、この説明をすると長くなりますので省略しますが、これは一言で言ふと、合理主義(理性論)と唯物論を懐疑することから出発しましたが、所詮、個人主義から脱却できなかつた哲学なのです。つまり、ベルジャーエフの足取りは、ロシア革命が基軸とする合理主義と唯物論に一旦は染まつたものの、それから少し脱却して軌道修正する道を歩んだといふことです。そして、彼は、ロシア革命の目指した平等といふことに関して、


「不平等はすべての宇宙秩序の基礎であり、人間人格の存在そのものがこれにより正当化される。また世界におけるあらゆる創造的活動の源泉である。暗黒のなかにおいて光明は誕生はするが、すべてこれから不平等が発生するのである。あらゆる創造的活動は、不平等を生み出し、高揚し、質をもたぬ大衆が質をもつことである。」


と語つたのです。

宇宙にも温度のムラ(斑)があり、密度の濃淡があることが解つてゐます。しかし、あくまでもムラ(斑)であつて、偏りとか分離ではありません。人の社会も宇宙の雛形であるので、当然にムラ(斑)があります。人の社会だけでなく、どんなものにも不揃ひがあります。その不揃ひが家族、部族、社会、国家を壊すやうな偏りへと変化したときは、本能の復元力によつて修理固成が始まります。そして、自由とは、その許容された不揃ひの世界の中で、放任(お目こぼし)された状態(勝手たるべしの世界)をいふのであつて、自由と平等は「天賦の人権」ではないのです。むしろ、まづは家族の中で、自由と不自由、平等と不平等のムラ(斑)による調和を実現し、さらに部族、社会、民族、国家の雛形構造の順で本能に基づいてこれを実現することが私たちの義務なのであつて、それはすべての人が祭祀を実践することによつて果たされるのです。ですから、自信を持つて祭祀の実践に励んでください。




平成二十二年四月十六日記す 南出喜久治


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