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トップページ > 自立再生論目次 > H23.05.02 青少年のための連載講座【祭祀の道】編 「第二十六回 家産と自給自足」

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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第二十六回 家産と自給自足

みづからが かてのすべてを うみだせば まほらまとてふ かたきかまへに
  (自らが 物資の全てを 生み出せば 眞秀玉てふ(といふ)堅き構へに)


我が国は、聖徳太子による改革(603+660)に始まり、聖徳太子が薨去(622+660)された後に、その王子の山背大兄王が蘇我入鹿に襲はれて自決され(643+660)、その蘇我入鹿が誅殺されるといふ乙巳の変(いっしのへん、645+660)以後は、いはゆる大化の改新と呼ばれる律令制導入の改革が、白村江の戦ひ(663+660)と壬申の乱(672+660)を経て大宝律令の制定(701+660)までの長期に亘つてなされたとされてゐます。

この百年間の紆余曲折を経てなされた、いはゆる律令制の導入は、支那大陸に成立した隋や唐の大国と韓半島の高句麗、百済、新羅の興亡を目の当たりにして、我が国の独立を保つために、支那の制度を導入して中央集権制の統一国家を目指したものであると一般的には説明されてゐます。


しかし、我が国の古代史には、まだまだ解明できてゐない様々な謎があり、単純一律に語ることはできないのですが、歴史といふものを国の内外の情勢を踏まへて俯瞰的な視座から巨視的に見ることも必要であることは今更言ふまでもありません。

古代史を何のために学ぶのかといふと、それは、祭祀の道と自立再生(まほらまと)の道の源流を探索して、将来に向けてそれを実践するためであり、そのことが我が国と全世界を救ふものであることを深く自覚することにあります。

「井を掘るは水を得るが為なり。学を講ずるは道を得るが為なり。水を得ざれば、掘ること深しと云ども、井とするに足らず。道を得ざれば、講ずること勤むと云ども、学とするに足らず。因て知る、井は水の多少に在て、掘るの浅深に在らず。学は道の得否に在て、勤むるの厚薄に在らざることを。」と吉田松陰も「講孟余話」で語つてゐます。水の出ない井戸の深さを競ふが如き物知り自慢の「歴史オタク」たちは、愚かな人々だと言つてゐるのです。ですから、このやうな観点に立つて、あくまでも祭祀の道と自立再生への道を求めるために古代史を少し眺めてみたいと思ひます。


まづ、祭祀についてですが、日本書紀によれば、聖徳太子が推古天皇十二年四月(604+660)の憲法十七条に、「二に曰はく、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。則ち四生の終帰、万の国の極宗なり。・・・」とあります。このことから、仏教を受容して國體の変更があつたとする見解もありますが、この考へは間違つてゐます。なぜならは、その三年後の推古天皇十五年二月(607+660)には、推古天皇の御詔勅があり、「・・・今當朕世、祭祀神祇、豈有怠乎。故群臣共爲竭心、宜拜神祇。甲午、皇太子及大臣、率百寮以祭拜神祇。(いまわがよにあたりて、あまつかみくにつかみをいはひまつること、あにおこたることあらむや。かれ、まへつきみたち、ともにためにこころをつくして、あまつかみくにつかみをゐやびまつるべしとのたまふ。きのえうまのひ(十五日)に、ひつぎのみことおほおみと、つかさつかさをゐて、あまつかみくにつかみをいはひゐやぶ。)」として、憲法十七条を作り賜ふた皇太子(聖德太子)にも「祭祀神祇、豈有怠乎」とされたのです。このことからすれば、祭祀は連綿として実践され、決して國體の変更などはあり得なかつたことが解ります。


次に、我が国でいふところのいはゆる「律令制」についてですが、これは支那の律令制とは根本的に異なるものです。にもかかはらず、これを「律令制」といふ同じ言葉で説明することに、無理と嘘があることに気づかなければなりません。そのことを自覚せずして、「律令制の導入」といふ中身の空虚な言葉だけで解つたやうな気になつて納得してしまふと、思考停止を生じてしまひます。

この支那の律令制は、法治主義の一種であるとする見解もありますが、さうではありません。その実質は「人の支配する国」の制度です。いかなる内容のどんな法律でも人がすべて決められるからです。これは君主(皇帝)主権ですから人治主義なのです。今の支那の政治と全く同じです。これに対して、我が国は「國體の支配する国」です。人(天皇、臣民)が、國體に反するやうな法律を作ることは許されないのです。


我が国が律令制を導入したものでないことは、官職制を見ても明らかです。政治を統括する太政官とは別に、神祇官といふ朝廷の祭祀を司る官職を設けました。この神祇官は、支那の律令制には存在しない官職であり、これを太政官よりも上位の官制としたのです。これは、我が国古来の法(正義、國體)の支配の理念ともいふべき「神政政治」及び「王覇の弁へ」の実践でありました。神祇官を設けたことによつて、我が国は、支那の律令制の本質である「人の支配する政治」を行はず、「國體の支配する政治」を守つたのです。

中央集権国家の建設といふ目的においては支那の律令制と共通しても、支那の律令制の場合は、科挙制度によつて支へられる官吏登用の政治組織を本質としてゐます。ところが、我が国はその官職制は模倣しても、制度の本質である科挙制度を導入しませんでした。ですから、律令制の本質である人治主義と科挙制度のいづれも採用しない、律令制を換骨奪胎した異質な制度(擬似律令制)を導入したので、我が国が律令制を導入したといふのは誤りなのです。


また、この擬似律令制には、官職制の制度改革といふ側面以外に、もう一つ別の側面があります。それは社会制度改革の側面です。それは「公地制」と「公民制」の制度改革がなされたことです。「公地制」とは、班田収授法に基づく口分田の均等班給による土地制度改革であり、「公民制」とは、租庸調の税制改革です。この不可分一体の二本立てが公地公民制です。国が土地を直接に民に与へるから直接に税を取り立てるといふ理屈ですから、わかりやすい制度です。公地制は、私有財産制の否定と世襲制の否定といふ規範國體の重要な部分を否定的に修正しようと試みたものですが、結局は規範國體の復元力によつて不成功に終はります。それは、三世一身法(723+660)、墾田永年私財法(743+660)を契機に荘園が発達し、遂に班田収授法の廃止(902+660)に至つて世襲が完全に復活したのです。実質的には数十年で世襲が復活し、形式的にも大宝律令の制定(701+660)から数へて約二百年で規範國體は完全に復元しました。ですから、この公地公民制といふのは当初から殆ど実効性のない形骸化した制度ではなかつたのかといふ大きな疑問があるのです。


その根拠として挙げられるのは、日本書紀の天智三年(664+660)春二月に、「天皇、大皇弟に命して、冠位の階名を増し換ふること、及び氏上、民部、家部等の事を宣ふ」(すめらみこと、ひつぎのみこにみことのりして、かうぶりくらゐのしななをましかふること、およびうじのかみ、かきべ、やかべのことをのたまふ)といふ「甲子の宣(かっしのせん)」です。ここで天皇(すめらみこと)とは天智天皇、大皇弟(ひつぎのみこ)とは大海人皇子(後の天武天皇)のことです。その前年に白村江の戦ひに敗退したことから、疲弊した国力を回復するために、自立再生社会の復興をめざし、氏上(うじのかみ)、民部(かきべ)、家部(やかべ)を復活させたのです。ここで、氏上とは、氏(血縁的同族集団)の祖先神(氏神)の祭祀を司る首長のことで、民部、家部といふのは、氏に属する専門的な職能集団のことです。支那や韓半島では、職能人(陶芸家、工芸家など)は賤しい身分とされ蔑まれてきましたが、我が国では、職能人は昔から尊敬される存在なのです。ですから、民部や家部は家内奴隷ではなく、支那の奴婢とも異なります。つまり、氏族に身を寄せた客分としての職能集団であり、氏族(大家族)は、このやうな職能集団をも取り込んで、氏族全体として自給自足生活をしてゐたといふことです。


そして、当然にその前提として、氏族全体は勿論、民部や家部は、自給自足を支へるために、氏族所有、民部所有、家部所有といふ、血族集団の所有、つまり「家産」を維持してゐたのです。ですから、個人所有となる口分田の制度が長続きしなかつたのは当然のことと言へます。「祭祀」は、祭祀に必要な物品をその氏族だけの自助努力で生産・製造し、自主、自立して行はれるものですから、他の氏族との交易によつて得られる物品に依存することができないのです。ですから、「家産」は、自主、自立の「祭祀」を支へる前提となり、必然的に「自給自足」となるのです。人々は、血族集団に帰属する祖先から受け継いだ家産(遺産)と、祖先から受け継いだ命と体(遺体)を車の両輪として祭祀を護り子孫を繁栄させるのです。


このやうなことは、我が国だけに限つたことではありません。ケルト人社会やゲルマン人社会に、祭祀を否定するキリスト教が入り込んで、その圧力によつて改宗してしまつた過程で、ケルト人やゲルマン人は祭祀の心も形も忘れてしまひましたが、それ以前は、ケト人やゲルマン人も祭祀を重んじてゐたのです。カエサルの『ガリア戦記』のガリアとは、このケルト人のことで、フランスのパリにあるセーヌ川の中洲(シテ島)には、ケルト人の部族であるパリジーの中心集落がありました。これがパリの名前の語源です。ローマ人がここを侵略し、ケルト人を皆殺しにしましたので、今ではケルト文化の欠片もない所となり、侵略者の象徴ともいふべきノートルダム大聖堂などが聳え立つてゐるのは誠に皮肉なことです。


ともあれ、ケルト人の社会は、霊魂不滅、生死輪廻を信じ、祖先崇拝、英雄崇拝の祭祀を行ひ、土地所有権は血族単位とされ「家産制」だつたのです。また、ゲルマン人も、ケルト人と同様に、土地は共有制(家産制)であり、自給自足的村落を形成し、自然崇拝と森の信仰(神は森の中に居る)を持つてゐました。しかし、森には悪魔が住むとして森を潰し続けたキリスト教に征服されてしまつたケルト人やゲルマン人は、その後ローマ化が進み、一神教を受け入れて祭祀を失ひ、個人所有を受け入れて家産を失ひ、そして自由経済・自由貿易を受け入れて自給自足を失つたのです。これは、ケルト人やゲルマン人だけではなく、我が国や世界全体に共通するものです。ですから、私たちは、このことを歴史の教訓として、我が国と世界が再生するためには、祭祀への道の実践が不可欠であり、その実践が家産の復活と自給自足社会へと原点回帰する第一歩であることを深く自覚することができるのです。

平成二十三年五月二日記す 南出喜久治


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