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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第二十八回 夫婦と祭祀

よこしまな おしへすつりて めをとみち いのちにかへて おやをまつらむ
  (邪まな 教へ捨つりて 夫婦道 命に代へて 祖を齋つらむ)


教育勅語に、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ」といふ対人関係の徳目が示されてゐます。父母に「孝」といふのは、孝経にも説かれてゐるとほり、孝が百行の基(もとゐ)、つまり、孝行は諸々の善行の基礎であり、あらゆる徳行の初めとなるものだからです。「孝」の漢字は、「老」(老人、親)を「子」が背負つた姿です。

その父母に孝の次が、前回説明した「兄弟ニ友ニ」で、さらにその次が「夫婦相和シ」で、最後が「朋友相信シ」です。ですから、この順番に説明すると、今回は「夫婦」です。


ところで、父母に「孝」が徳目の初めであることは直ぐに理解できても、その次がどうして兄弟(姉妹)なのか、父母の次には夫婦が出てきてもよいのではないか、といふ考へもあります。年老ひたら、子どもも兄弟(姉妹)も頼りにならず、自分たち夫婦がお互ひに助け合はないとだめだといふ現代社会の荒んだ生活実感から、悲しいことに、さういふ考へになることは理解できない訳ではありません。しかし、そのことと徳目を説くための順位とは異なります。やはり、徳目の順としては、父母の次が兄弟で、その次が夫婦なのです。


父母に孝といふのは、父と子、母と子といふ直系血族の関係です。兄弟も血族でありますが、直系血族ではなく傍系血族です。そして、夫婦になることによつてそれぞれの血族が姻族の関係となつて同族が広がつて行きます。夫婦になることは、個人と個人の関係だけではなく、お互ひの血族が姻族として結ばれることです。それぞれの兄弟姉妹とその配偶者とが義理の兄弟姉妹となるので、直系血族から傍系血族へ、そして、直系姻族から傍系姻族への順序で、社会秩序が形成されていくことを認識すると、やはりその徳目の順序は、教育勅語で示された、父母(親子)、兄弟、夫婦、朋友の順序になるのは当然です。


慶応四年(1868+660)三月十四日(四月六日)に五箇條の御誓文が布告されますが、その翌日には「五榜の掲示」(ごぼうのけいじ)が出されます。これは、明治政府が出した民衆に対する五つの高札のことで、その第一榜には、「人タルモノ五倫ノ道ヲ正フスヘキ事」とありました。ここに謂ふ「五倫」とは、孟子の「父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序、朋友有信」のことで、父子は親しみ、君臣は義を重んじ、夫婦は分け合ひ、長幼は序を守り、朋友は信じ合ふといふ、人の縁(人間関係)からくるそれぞれの道の教へです。儒教では、「仁・義・礼・智・信」といふ人が守るべき徳目(五常)に基づいて、この五倫の道を説きます。さらに、これと同趣旨のものとして、父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝といふ「五典」の道も説きます。

このやうな、五常、五倫、五典といふやうな倫理観は、何も儒教に限つたものではありません。すべては、人間社会の秩序維持本能によつて、社会秩序の動的平衡を実現するために組み立てられた規範なのです。これは本能適合性のあるもので、人類共通のものです。それが教育勅語にあつては、そこに示された多くの具体的な徳目の中に、すべてみごとに凝縮されゐるのです。


余談ですが、二宮尊徳は、「五常講」といふ金融の仕組みを作りました。五常の徳を実践する者であれば、その「心」を担保に金を貸すといふものです。無尽(頼母子講)といふ庶民共済の金融組織は、鎌倉時代からあつて現在に至るまで存続してをり、これが信用組合といふ金融組織制度の原型なのですが、この五常講は、経済金融制度としてはその一種ではあつても、単に経済的利害だけで運営される組織ではなかつたのです。二宮尊德は、経済や金融は心(人倫)を失つては制度的に破綻することを見抜いてゐた先見的な実践者だつたのです。


ともあれ、教育勅語に示された「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」といふ徳目は、「以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」といふ目的のためのものです。「家運」の隆盛と済美が「皇運」を扶翼することになるからです。つまり、ここにも「家」が「国家」の雛形であることが示されてゐます。

そして、「済美」といふのは、「克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス」とあるやうに、「世々厥ノ美ヲ濟セル」ことです。美を濟すといふのは、祭祀の実践のことです。すべての徳目は、祭祀の実践によつて、「美」となります。これらの徳目の実践は、すべて祭祀の実践となります。祖先への感謝の気持ちなどを心に思つてゐるだけでは、単なる観念に過ぎません。観念だけでは秩序は維持できません。その美徳を作法の形にして日々実践することが「濟美」なのです。ですから、祭祀の実践である濟美は、「國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源」となるのです。

この度の大震災直後に、繰り返し執拗に垂れ流されたACジャパンのテレビ広告で有名になりましたが、「『こころ』はだれにも見えないけれど『こころづかい』は見える。『思い』は見えないけれど『思いやり』はだれにでも見える。」といふ、宮澤章二といふ詩人の著作『行為の意味』の一節がありますが、これは、「濟美」の必要性を詩的に表現した名言と言へます。


では、夫婦になることは、祭祀の実践においてどのやうな意味があるのでせうか。夫婦になる縁(えにし)には様々なものがあります。恋愛したり、お見合ひしたりして結ばれるのが大半ですが、その中には、政治家、学者、起業家などが連結して社会的地位を鞏固にするための政略結婚のやうなものも大なり小なりあつて、千差万別です。

そして、どのやうな縁で夫婦になるとしても、夫婦になるといふことは、一般には、子孫を残して一族を繁栄させ、文化伝統を継承させるためだとされます。しかし、それ以上に、夫婦になるといふことには、別の大きな使命があります。前にも触れましたが、夫婦とは、個人と個人の関係だけではなく、お互ひの血族が姻族として結ばれることです。夫婦になる前は、夫は夫の血族の祖先祭祀、妻は妻の血族の祖先祭祀をそれぞれしてゐたのですが、夫婦となれば、夫婦一体となつて協同し、双方の血族の祖先祭祀をすることになります。もちろん、それを別々にするのではなく、原則として夫が祭主となり、一つの統合した祭祀を日々実践することになります。夫婦になるといふことは、雄と雌が野合することとは全く異なり、それぞれの血族が姻族関係となる契りを結ぶ神事としての「祭祀」であり、祭祀の対象となる御先祖様が二倍に増えるといふ驚異的な現象なのです。その二倍に増えた御先祖様の祭祀を夫婦一体となつて実践することが夫婦の「濟美」であり、それを夫婦の間に出来た幼い子どもに従はせて「濟美」の習慣を身に付けさせ、祖先祭祀の実践を伝へて行く使命が夫婦にはあるのです。夫婦が共に祭祀を実践すれば、子どもはその親の背中を見て育ちます。子どもを作つて子孫を増やして一族を繁栄させることだけが夫婦の務めといふのであれば、それはサルにでもできます。人間とサルとの違ひは、「祭祀の実践」(濟美)ができるか否かです。ですから、祭祀を疎んじ、観念論に満足して他のことだけにかまけて生活してゐる人は、いかに立派なことを言ふ人でも、すばらしい研究をした学者であつても、また、大きな事業をして成功した人であつても、本質的にはサルと同じ霊格しかないのです。


ところで、夫婦一体協同して祖先祭祀をするについては、夫婦それぞれが信じてゐる宗教が妨げになることがあります。これまで繰り返し述べてきましたが、祖先祭祀を否定してゐる宗教が多いからです。祖先祭祀を認める宗教でも、それはその宗教における信仰の中心である神仏よりも絶対に優先させてはならないのです。あくまでも祖先祭祀は「付け足し」に過ぎません。

宗教は本質的に個人本位の信仰です。これに対し、祭祀は家族本位、祖先本位の信仰であり実践です。宗教は同じ家族であつても個人個人が別々の宗教を持つことを許しますが、祭祀は、そんなことでは維持できない性質のものです。ですから、もし、宗教の教義において、祭祀を宗教よりも優先させるとすれば、そんな宗教は矛盾を来たして成り立たなくなります。宗教教団を維持するためには、その宗教の絶対性を説かなければ宗教利権と宗教組織は崩壊してしまふので、そんな教へを説くことは到底できないからです。この宗教の壁を乗り越えなければ夫婦一体協同の祖先祭祀はできないことになります。


ですから、夫婦になるには、家族一丸となつて祭祀を共にする誓ひが必要になります。夫婦が別々の方向を向いてゐれば、真の夫婦にはなれません。そして、祭祀を共にする誓ひをして夫婦になれば、原則として、夫が祭主となり、妻は夫を支へ、妻の実家の祭祀よりも嫁ぎ先の夫の祭祀を優先しなければなりません。祭主は、夫の血族の祖先祭祀を初めに行ひ、次いで妻の実家(姻族)の祖先祭祀を行ひます。妻が例外的に祭主となる場合でも同じです。祭祀の実践をするについても、祭祀の秩序を守ることが肝要です。

そして、このやうに夫婦一体となり信頼し合つて祖先祭祀、そして自然祭祀を実践するやうになると、夫婦に共通した一つの心安らかな境地が生まれます。夫婦が、祖先祭祀、自然祭祀といふ同じ方向を向いて一体協同して実践してゐるといふ強い連帯感です。比喩的に言へば、「夫の仕合はせは妻の膝枕で寝ること、妻の仕合はせは夫の腕枕で寝ること。」といふ心境になれることです。自らの身を相手に委ねても危険や恐怖を感じない安心感がお互ひに生まれれば、それが教育勅語の「夫婦相和シ」を達成したことになるのです。

平成二十三年七月一日記す 南出喜久治


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