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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第三十回 親子と祭祀

をのこゆゑ あまゆことなく いくとせを へだちてちちを せおふしあはせ
  (男の子ゆゑ 甘ゆことなく 幾歳を 隔ちて父を 背負ふ仕合はせ)

ゑみたたへ いつくしかりし ははのかほ いまもおもひて なみだこぼるる
  (笑み湛へ 慈しきかりし 母の顏 今も思ひて 涙零るる)

いつのひか おやとまみゆる ときあらば ちかごとはなる ゆるしこはまし
  (何時の日か 親と見ゆる ときあらば 誓言離る 許し請はまし)


教育勅語には、「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ」と「父母ニ孝ニ」と、「孝」の文字が二度出てきます。初めは、國體の精華である忠孝一如の道理として、次は徳目の第一として出てきます。教育勅語の徳目の中で、兄弟、夫婦、朋友の徳目の前に、一番初めに出てくるのが「孝」であり、この孝が百行の基(もとゐ)であることは、これまで説明してきました。

「兄弟ニ友ニ」、「夫婦相和シ」「朋友相信シ」とあるやうに、「友」、「和」、「信」が、いはば人間関係の徳目において双方向のものであるのに対し、親子についての徳目では、「孝」といふ、子が親(父母)に対する一方向だけの徳目になつてゐます。これがどうしてなのかについては、いろいろなことが言はれてゐます。

親は子を慈しみ、子は親を慕ふものです。これは、人が持つて生まれた本能であり、家族の絆となる本能の現れです。ですから、親が子を教へ育むことは、自覚的に徳目とする必要はなかつたからだと思ひます。そのことは、ご皇室が臣民を慈しまれて安寧を祈られ、臣民もまたご皇室を深く慕ふことも、民族の本能としての紐帯であつて、家族の本能の雛形ですから、これも徳目として明記する必要がなかつたのでせう。教育勅語には、教育や祭祀(濟美)において、特別な徳目のみが書かれてゐると理解してください。


そもそも「孝」には理屈は要りません。我が国や世界には、人間世界の話だけでなく、動物譚と言つて、動物の物語として擬人的に語られた物語が数限りなくあり、その中には、親孝行の話や親不孝の話が多くあります。しかし、どれを取つても、不思議と共通してゐるのは、どうして親孝行をするやうになつたのか、その理由や原因については触れられてゐない点です。つまり、親孝行といふのは、本来、躾を身につけ教育を施されれば自然と身につくもので、祭祀を実践することによりそれが本物になる性質のものなのです。


ところが、今の戦後教育が理性中心の啓蒙思想による教育であるために、どんどんと本能が劣化して、孝の実践が身につかないのです。それどころか、そのことによつて、親が子を慈しみ、子が親を慕ふといふ基本的な本能すら劣化してきてゐることは由々しいことです。これを克服して教育の再生をするのは、祭祀の実践しかありません。理性教育の中で修正しようとしても不可能です。ですから、本能を強化するための教育の一環として、日々の祭祀を確実に実践する教育が必要になつてゐるのです。


しかし、親孝行とは何か、といふことを理性的に語る必要は全くありません。そのやうなことをすることは理性教育だからです。本能を強化する教育をして祭祀を実践すれば自づと習慣として感性として身に付くものです。受けた親の恩を返すことが孝であり、これが人の本能だからです。ただ、少しだけ注意しなければならないことがあります。それは、孝行といふのは、父の日とか、母の日とか、敬老の日とか、その日だけ思ひ出したやうに、あるいは商業宣伝や広告に載せられて、これみよがしに親に品物をプレゼントするやうな唯物的なことではないのです。孝行は日々欠かさずにするものです。それは、これまで親から気に掛けてもらつてきた以上に、今度は親の安否と体調に気を掛けることから始まります。


教育勅語に、「恭儉己レヲ持シ」とありますが、これは決してへりくだることではありません。これはだれに対してでも同じです。それは自分自身を磨いて進歩向上させるためにすることなのです。誰かのためにすることではありません。そして、子としての分を弁へて節度を持つていつも親と接すれば、おのづと孝の意味が体で解ります。もし、親と離れて暮らして居るのであれば、手紙を書いたり、毎日電話したり、時には訪問して安否を尋ねることから始まるのです。親が子に見返りを欲しない一方的な慈しみを掛けてきたことと同様に、それ以上に親に慈しみを持つて接することができれば、自分自身が磨かれて社会における大成の道にまた一歩踏み出すことになります。


また、孝行をするのは、親の存命中だけではありません。「親孝行したいときには親はなし。」と言はれることがありますが、それは間違ひです。むしろ、孝行は親が身罷つてからその真価が問はれます。存命中に同居できなかつた人も、亡くなつてからは誰でも親と同居することになります。さういふ意識が大切です。そして、祖霊となつて霊格を高めてもらふためにも、祭祀は絶対に欠かせません。毎日、祭祀を実践して親と語り、祖霊の「うけひ」をするのです。


このごろ特に思ふことがあります。私は、これまでは、「生まれ遅れ、死に遅れた」と思つてきましたが、今ではこの遅れを受け入れる気持ちになりました。もし、父が支那に出征する前に生まれてゐたのなら、敗戦のときに自覚的に行動できたと思つたからです。父が復員してから、占領憲法のできた占領下の自堕落な戦後空間で生まれたことに納得できなかつたからです。よりによつて独立を奪はれた被占領時代の祖国(0ccupied Japan)に生まれた身の上を受け入れることができなかつたのです。これがこれまで憲法のこと、國體のことを考へ続けてきた原点となりました。

ところが、その考へが少し変はつたのは、少し前に湊川神社と四条畷神社を同じ日に参拝したときからでした。そこで、被占領時代に生まれた者だからこそやれること、やらねばならないことの使命を感じたからです。


ご承知のやうに、楠木正成(まさしげ)公の没所にある湊川神社は、正成公(大楠公)が主神で、長男の正行(まさつら)公ら一族将兵が配祀されてをり、また、正行公の没所にある四条畷神社は、正行公(小楠公)が主神で、弟の正時公以下の将兵が配祀されてゐます。


父楠木正成公が長男正行公に後を託して湊川の戦ひに破れて自害されてから三年後、後醍醐天皇は崩御されました。そして、さらにその八年後、正行公は一族と弟正時公ら将兵百四十三名をひきつれて、吉野の後醍醐天皇の御廟に参拝し、この度の合戦で討ち死にすべき覚悟であることを奏上して、如意輪堂の壁板を過去帳として各自の名字を書き連ね、その奧に、後世広く知られることとなる梓弓の歌、「かへらじと かねておもへば あづさゆみ なきかづにゐる なをぞとゞむる」の歌を書きとどめ、生還を期せぬ決意をかためて、鬢の髪を切つて仏殿に投げ入れ、四条畷の戦ひの戦場に臨み、足利尊氏配下の高師直(かうのもろなほ)軍と戦ひ、敗れて最期は弟正時公と差し違へて討ち死にされたと『太平記』は伝へてゐます。正成公が湊川の戦ひで敗れ、七生滅敵(七生報国)を誓つて弟正季公と差し違へて自害されたのと同じ道を歩まれたのでした。


高師直(かうのもろなほ)は、この勝ちに乗じて吉野を陥れ、そのために後醍醐天皇の皇子として南朝第二代として即位された後村上天皇は西吉野村の賀名生(あなふ)に移られました。天皇は生きた人間よりも物言はぬ木像でよいのだと豪語した高師直の天皇観は、占領憲法の象徴天皇制、傀儡天皇制のさきがけとなつたものです。この高師直は、後に仮名手本忠臣蔵において、吉良上野介に模した仇役の人物となつたことは歴史の皮肉といふべきでせう。


いづれにせよ、正成公は忠を実践し、正行公はこれを受け継いで忠孝一如を実践されたのです。これは世界に誇れる忠孝の姿です。一族そのものが尽忠報国の鑑です。そして、このことによつて、私も、両親が守り通した精神を自己の精神と共鳴させて亡き両親と共に人生を生きること、祖先祭祀、英霊祭祀、自然祭祀を日々実践をすること、それこそが真の孝の姿であると受け止めることができたのです。教育勅語を復活させよと遺言した亡き父と、それを最期まで優しく見守つてくれた亡き母のことを思ひ、忠孝一如の大義を貫いた楠木正行公を心の師を仰ぎながら祭祀に励む今日この頃です。


平成二十三年九月一日記す 南出喜久治


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