各種論文

トップページ > 自立再生論目次 > H23.10.30 青少年のための連載講座【祭祀の道】編 「第三十二回 臣民と国民」

各種論文

前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ

青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第三十二回 臣民と国民

ちちははと とほつおやから すめみおや やほよろづへの くにからのみち
  (自父母及先祖以至皇祖皇宗及八百萬之神而國體之道也)

我々は、帝国憲法を含む規範國體下の「臣民」であるのか、それとも、占領憲法下の「国民」であるのか。そのいづれを自覚するかによつて、人の生き様と国家観、世界観が根本的に異なつてきます。

臣民か、国民か、を分ける指標は、「国民主権」です。「国民」といふ言葉は、広い意味では「臣民」を含みますが、ここでは、もつと狭い意味で、国民主権を支持しそのことを自覚する人々のことを「国民」と呼んで、以下の話をすすめます。


国民主権を認めるのが「国民」であるのに対し、「臣民」といふのは、国民主権や天皇主権など、そもそも主権といふ概念それ自体を全否定する臣民家族のことです。臣民は、祭祀の世界にあつては、天皇家が臣民家族の祖先の宗家と認識し、すめらみこと(総命)である祭主を崇め、天皇祭祀の雛形である祖先祭祀を守ります。そして、統治の世界にあつては、「天皇と雖も國體の下にある」とし、ましてや臣民においては尚更のことであるとして、暴力的な概念である主権を排し、国家は規範國體に従ふものと自覚するのです。


国民の立場からすると、国民主権を肯定し国民が主人となりますから、天皇が家来になります。天皇は、ご主人である国民が定めた占領典範(皇室弾圧法)に家来として従はざるをえない立場です。この論理は誰も否定できません。そして、国民主権を認めてゐるのが占領憲法ですから、国民主権を認めるといふことは、占領憲法を憲法として有効であると認めることです。これも単純な論理であり、決して感情論ではありません。しかし、天皇を家来とするやうな不敬不忠の者は「非国民」といふのであつて、その非国民をここでは「国民」と呼んで「臣民」と区別して論述するのは、定義の仕方自体が理不尽だと思はれるでせうが、あくまでもここでの仮の呼称だと割り切つて我慢して読み進めてください。


ところで、国民の立場に立つ人の中にも、天皇を尊ぶ人が居ます。それが単なるポーズなのかどこまでが本心なのかかは不明ですが、いづれにしても胡散臭い人達です。その人達は、天皇は占領憲法においても「元首」だから、天皇やご皇室を蔑ろにすることはあり得ないなどと戯言を吐き、天皇が家来であるとする論理的帰結に感情的に反発するそぶりを見せるのです。しかし、このやうな人の思考回路と精神は完全に狂つてゐます。統合失調症よりも重度の患者ですから、一日も早く完治されることを願ふばかりです。


国民主権の占領憲法によると、天皇が「元首」であるはずがありません。国民が主人で天皇が家来なのに、どうして家来の天皇が国家の首長であり統治者である「元首」になるのですか?

天皇は「象徴」だから「元首」なのだ、といふのは、まさに重篤な病による論理破綻の結果です。象徴といふものは、元首とは全く無縁のものです。


物言はぬ存在を他の概念に例へるために用ゐるのが「象徴」です。物言はぬ存在とは、普通は、無機物とか動物などが多いのですが、天皇を象徴にするといふことは、物を言はせない存在として天皇を押し込めるといふ意味です。そして、天皇の地位は「主権の存する国民の総意に基づく」ことによつて国民の家来となるのですから、当然に国政に関する権能もなく、すべては内閣の助言と承認に基づく傀儡になるのです。元首とは全く程遠い存在です。


『入江相政日記』によると、昭和四十八年、当時の防衛庁長官増原恵吉は、内奏に関して、昭和天皇が「防衛の問題は難しいが、国を守ることは大切だ。旧軍の悪いところは見習わないで、いいところを取り入れてしっかりやってほしい。」とのお言葉を賜つたとマスメディアに漏らしたことから、「天皇の言葉を引き合ひに、防衛力増強を合理化しようとしてゐる。」との批判を浴びて更迭されたことがありました。昭和天皇は、この事件を受けて「もうハリボテにでもならなければ」とご嘆息されたとのことです。この事件は、「ハリボテ天皇」、「傀儡天皇」とするのが占領憲法が命ずるものであることを示してゐます。


このやうな存在は、いふならば「ペット(愛玩動物)」と同じです。家族で犬を飼つて、その犬を家族同然に可愛がつてゐる姿をよく見かけます。犬の野生的本能からして、決して喜んではゐないのに、ご主人様の自己満足で、犬に服を着せたり靴を履かせたり、美容院に連れて行つたりして、可愛い、綺麗だ、と言つて無邪気に喜んで居ます。犬に分不相応な名前を付け、家族全員と生活を共にして家族のマスコットとなり、その仕草に癒されるといふのです。

このやうな現象を人と動物との共生などと美辞麗句でもてはやし、微笑ましい姿だといふ人も居ますが、結局はペット産業に躍らさせ、その微笑ましいとされる現象の裏面には、動物の大量遺棄、虐待、疫病なとの蔓延、野生化による被害拡大など様々な多くの問題が起こつてゐます。ですから、このやうな過度なペットの家族一体化現象はおぞましいものがあります。どうしておぞましいのかといふと、それは、この延長線上に象徴天皇制、傀儡天皇制の本質が見えてくるからです。


ご皇室をペットと同列に論ずるのは、国民主権を信奉する者の考へを論理的に展開した必然的な結果であつて、私の本意とするところではありません。まことに心苦しい限りですが、国民主権を支持し、占領憲法を憲法であると認める「国民」の立場を貫けば、こんな結果になつてしまふことを知つてもらふために、あへてこの話を続けます。


国民主権を支持する人、つまり、占領憲法を憲法として有効であるとする国民の立場に立つ人にとつて、天皇を象徴とするといふのは、いはば「趣味」の問題であり、本質論ではありません。天皇といふ家来を持ち続けるか、あるいは、そんな家来はもう飽きたので要らないとするかは、国民主権によつて自由に決められることであり、国民主権の憲法では、象徴天皇制を廃止しても何ら問題はないからです。そもそも占領憲法は、天皇といふアクセサリーを付けた「共和制憲法」だからです。

象徴天皇制(傀儡天皇制、ハリボテ天皇制)といふのは、いはば、家族でペットを飼ふか否かは、家族のあり方の本質とは関係がないし、家族で自由に決めることと同じ構造なのです。


ペットの嫌いな人、ペットのアレルギーを持つてゐる人、ペットが好きで好きでたまらない人、ペットは好きでも世話するのが苦手な人など様々な人が居ます。屋内で飼ふことを好む人も居ますし、それを嫌ふ人も居ます。屋内で飼ふのを嫌ふならば、自宅の庭に犬小屋を作つて、そこに鎖でつなぎ止めて餌を与へ人の住まいから隔離することもあります。そして、鎖やヒモを付けたまま散歩します。


国民の立場であれば、国民と天皇の関係は、家族とペットの関係と同じですから、家族で犬を庭の犬小屋で飼ふのと同じやうに、皇居や東宮御所、赤坂御用地内の秋篠宮邸などは、さながら「犬小屋」と同じ意味になります。行幸や行啓は、犬の散歩と同じです。  「皇居を犬小屋と同じとは何事か!」、「行幸を犬の散歩と同じといふのは不敬の極みである!」と怒つてみたところで、それは天に唾する憤りに過ぎません。国民の立場であれば、さうなるのです。

犬小屋ではなく、それは、せめて豪華な犬屋敷(犬御殿)と訂正する程度のことはできますし、散歩を「お散歩」と丁寧に言ふことはできます。しかし、犬を「お犬様」と言ひ直しても犬は所詮犬です。徳川綱吉の時代における生類憐れみ令のやうに、占領典範を「天皇憐れみの令」と読み替へて運用する程度のことです。

つまり、占領憲法を憲法として国民主権を支持する「国民」とは、これほどまでに不敬不遜な「非国民」に堕落することを意味することを肝に銘じなければなりません。


このやうなおぞましい話は、「国民主権」を謳ふ「占領憲法」から導き出されることではありますが、その根源には、「主権」といふ猛毒を含んだ思想があります。「主」とは「神(God)」のことで、主権とは、人間が神(God)の地位に上りつめる傲慢な思想を示してゐます。その主権を君主が持てば君主主権、国民(人民)が持てば国民(人民)主権です。このやうな傲慢な主権といふ概念は、これまで我が国とは全く無縁でした。帝国憲法のどこを見ても君主主権(天皇主権)を肯定するものはありません。統治権の総攬者である天皇は、国家機関の一つであることを意味するのであり、オールマイティ(全知全能)の主権者であることを意味しません。もし、天皇が主権者ならば、どうして天皇の行為に対して帝国議会の協賛などが必要になる事項があるのですか?

過去には、こんな簡単なことも解らない素人同然の学者もどきの人たちが世の中を扇動して天皇主権を唱へて大騒ぎしたこともありましたが、当時の憲法学者の殆どは天皇は主権者ではないことを前提とした天皇機関説でした。ところが、憲法学者は敗戦後に一斉に変節し、帝国憲法は天皇主権の憲法ではなかつたにもかかはらず、これを天皇主権の憲法だとして、その主権が天皇から国民に委譲されて国民主権の占領憲法が生まれたとか、あるいは、天皇主権でなかつたとしても、いきなり「革命」によつて国民主権になつた、などと主張し出したのです。

ありもしない主権が天皇から国民へと委譲されたとか、無から有を生じるが如く、主権が突然生まれて国民に宿つたするフィクションを主張して臣民を騙したのです。


しかし、何度も言ひますが、帝国憲法は天皇主権の憲法ではありません。天皇に主権がないのに、それを国民に委譲できるはずがありません。

先帝陛下(昭和天皇)もまた「天皇主権」を否定してをられました。当時の侍従武官長であつた本庄繁陸軍大将の日記によると、先帝陛下は、天皇機関説を否定することになれば憲法を改正しなければならなくなり、このやうな議論をすることこそが皇室の尊厳を冒涜するものとあると仰せられたとあります。天皇主権説は、帝国憲法を否定する学説であり、皇室の尊厳を冒涜するものであつたとのご認識だつたのです。天皇ご自身が天皇主権を否定されてゐたのですから、帝国憲法が天皇主権であつたとする学者は、びつくりするやうな大嘘を言つてゐるのです。今でもそのことを主張してゐる似非学者が殆どです。


また、これまで帝国憲法において主権概念がなかつたのに、いきなり占領下の非独立時代に、主権概念が生まれて、占領憲法が生まれたとするのも不思議な話です。これは、占領下で革命が起こつたとするのですが、誰かが武装蜂起して革命を起こして占領憲法を制定したのではありません。「武装蜂起」するどころか、占領軍によつて「武装放棄(武装解除)」されたままの状態でした。

そこで、この「革命」とは何かと尋ねると、実力(武装蜂起)による革命ではなく、「憲法的な革命」であるとします。では、「憲法的な革命」とは何か、と尋ねると、「占領憲法の制定」と答へるのです。さらに、「占領憲法の制定」がどうして憲法的な革命なのかと聞くと、憲法的な革命といふのはさういふものだ、と答へます。これは答へにはなつてゐません。明かな循環論法であり、根拠がないことを暴露してゐるのです。


よく分析してみると、この革命の詭弁は「立憲的革命」といふものを肯定することになりますが、これは噴飯ものと言ふべき矛盾の極みです。立憲主義を否定したところに革命があるので、立憲主義と革命とは絶対に両立しません。立憲的に革命が行はれることはあり得ないのです。こんな論理学の初歩ですら理解できない法匪が現在の憲法学者(憲法業者)なのです。


ところで、主権の存する「国民」は、この国のご主人となり、その総意に基づいて生殺与奪の権利を持つてゐるのですから、「天皇」を家来にして占領典範を定めてご皇室をさらに弾圧することも、皇室それ自体を廃止することもできるのです。

巷には、象徴天皇制のあり方、占領典範改正の要否などご皇室のことについて述べた著作が多くあります。その殆どがご主人様である国民の立場(国民主権の立場)から、家来である天皇家について述べたものです。家臣の家族のことをご主人様が親切?に干渉するものです。そして、その論述の体裁や内容において、殆どが尊皇風味の味付けがしてあります。ご皇室は大切であるとしてゐます。それは、ペットが我が家で大切だとしてゐるのと同じ発想です。


ところが、そんな人の中には、私がこんなことを云つて批判すると、必死になつて、尊皇の精神を冒涜する失礼千万な発言だと反論するかも知れません。しかし、この人達は、私の指摘が図星であることから、その本心を隠さなければならないので、虚勢を張つて見せかけの反論をするだけです。尤も、今まで私に直接反論してきた人は居ません。


所詮、これらの著作は天皇をダシして金儲けする売文業者が書いたものですから、その著作が売れないと金儲けできないとこれらの売文業者は困るのです。天皇をマンガにして金儲けすることもご主人様の思ひのままですし、その主張の中身がけしからん、根拠が間違つてゐるなどとして、テレビなどのメディアに電波芸者を登場させて喧伝させ、さらには、それを批判した著作を販売して金儲けをするなどの様々な便乗商法で荒稼ぎすることも「国民」には許されるのです。家来の天皇を商売のネタにして金儲けすることは、ご主人様の甲斐性であり家来の天皇に遠慮する必要はないのです。


ですから、天皇をマンガにしたり、これに批判したして便乗商法で儲ける人は、本当は敵対してゐるのではなく、示し合はせてマッチポンプの天皇商売をしてゐることになるのです。オウム犯罪とオウム批判の評論、その他凶悪事件とその批判評論、政治問題のバラエティー番組化など、電波芸者たちによるワイドショー構造と全く同じなのです。


そもそも、男系男子の皇統はご皇室の家法である正統典範(明治典範その他の宮務法体系)によつて定められたものであり、その適否に関して臣民の分際が容喙することは断じてあつてはならないことです。ところが、ご皇室の家法について論ふ不埒な者共は、国民主権の信奉者であるために、ご主人様の国民が家来の家族を拘束する法律を制定する権限があるとして、占領典範の内容に容喙し、占領典範を改正するか否かについて、口角泡を飛ばして議論してゐます。こんなことができるのは、天皇のご主人様である「国民」だから当然のことであるとの意識によるものです。これは「天皇褒め殺し」といふ不敬不遜の極みとも言ふへぎ国賊の行為です。


続きを読む

前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ