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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第三十四回 祭祀とまほらまと

あめのした つちみづすまる まほらまと おのころしまの たまさきくませ
(八紘 土水統まる 眞秀玉 自轉島(地球)の 玉(靈)幸く增せ)

正月の生活習俗として「おせち料理」があります。「おせち料理」とは、漢字表記だと「御節料理」です。「節」といふのは、節句のことで、節句に作られる料理といふことです。人日(じんじつ)、上巳(じやうし)、端午(たんご)、七夕(しちせき)、重陽(ちょうやう)の五節句の日(節日)に天皇が召し上がる供御(くご)や朝廷の節会(せちゑ)の席で振舞はれる御馳走のことを御節供(おせちく)と言ひ、これが江戸時代に広く民俗化し、いつしか正月料理を指すやうになりました。


五節句などの習俗は支那から伝来したものですが、その根底にある祭祀は我が国固有のものです。といふよりは、祭祀は世界共通のものです。縄文時代とか弥生時代と呼ばれる太古の昔より、特別の日を「まつり」、「かむごと」、「いはひ」などと呼んで、御祖先様、神々様(上々様)の霊を祀つて食物を供へ、人々もこれを分け合つて神霊・祖霊と一体となる祭祀を行ひ、神人共食で「いはひ」をしてきたのです。

このやうにして、いつも人々は御先祖様と神々様と向かい合つてきました。それが純化され集約されたものが宮中祭祀なのです。ですから、祖先祭祀や自然祭祀は、宮中祭祀の雛形として、営々と今日まで続いてゐるのです。


いはば、祭祀は生活そのものでありました。ところが、だんだんと生活が豊かになり、社会が複雑になつてくると、祭祀は形だけの儀礼となり習俗化が進みました。祭祀の形骸化です。そして、その形骸化はどこに端的に現れるかと言ふと、それは、御先祖様や神々様への「感謝」の心が欠落するといふ現象です。祭祀における神々様といふのは、かみ(上)であり、それは皆さんの御先祖様の宗家である皇祖皇宗の始祖霊としてこの地球を守護していただいてゐる神々様のことです。この皇恩を忘れてしまふと、自分たちの生活に必要なものは自分たちの力だけで作つたものだといふ傲慢さに支配されて感謝の心を失はせて行くのです。


祭祀の形骸化は、おせち料理の歴史からも解ります。現代では、御先祖様か神々様への感謝が欠落して、単に今生きてゐる者だけが味はひ楽しむことだけしか関心がありません。本来であれば、料理の素材は自らが作り育てたものを使ひ、それを自家で料理したものを御先祖様や神々様に御節供(おせちく)して祭祀を勤めるはずなのに、料理が豪華で多様になることで御先祖様が喜ばれるといふ唯物的、即物的な錯覚が生まれました。その即物的発想から、いつのまにか御先祖様や神々様をすつかり忘れ去り、おせち料理とは、生きてゐる者だけが正月を楽しむことになつてしまひました。御先祖様や神々様にお供へすることもしなくなりました。誕生日を迎へても、唯我独尊で自分だけをみんなが祝つてくれる日と錯覚して、生み育ててくれた両親や御先祖様への感謝を忘れてゐることと同じことです。

ですから、自家で作らずに、デパートや料理店で作られた豪華で高価な「おせち」を買ひ求めることになります。品数の多さや品質の高さ、値段の高さで自慢するだけです。自家で作らないことを自慢する人も出てきます。これによつて、自家の食料自給率が低下し、食料生産の自給力も低下します。さらには、自家で料理しませんので、家庭での調理率も低下し、調理能力も低下します。これは民度が低下してきたことを意味します。


 このやうな傾向は、江戸時代に始まります。分業体制による商品経済が発展すると、家族の自給力が低下し、自給率を下げます。飽食を追求すると祭祀は廃ります。飽食であることを目的とするために、素材と料理が自家製であることを放棄し、同時に祭祀の心を失ふのです。これは、まさに合理主義であり、富永仲基や山片蟠桃などの合理主義者が江戸時代に登場したのは当然のことで、決して西洋思想の影響があつたためではありません。


それだけではありません。祭祀とは、感謝の実践であり、それは言霊によつて思ひを運ぶのです。和歌や祝詞などです。ところが、感謝の心が欠落して、言霊の意味もまた習俗化します。世間で、コトタマのことを熱く説いてゐる人が多く居ますが、その人たちの殆どは、祭祀と言霊の関係を知らないため、習俗化した言霊の意味しか語つてゐないのです。

祭祀の要である言霊が習俗化して行くと、験(げん)担ぎ、縁起担ぎ、語呂合はせ、駄洒落などが生まれます。目出度さを重ねる「重箱」、日焼けして黒くなつてもマメに働くことができる「黒豆」、喜ぶに掛けた「昆布」、目出度いに掛けた「鯛」などなどと多種多様化したおせち料理に登場するのです。祭祀そつち除けの言霊ごっこです。


このやうに、おせち料理の歴史は、祭祀の歴史の変遷を示す雛形のやうです。

太古の昔は、各家族や血縁関係にある一族は集落をつくり、そこで自給自足をしてきました。御先祖様と多くの恵みを育んでいただく神々様は、その子孫と一体のもので、生活は御先祖様と神々様とともにありました。特別の日(ハレの日)には、特別の祭祀があります。新年では、子孫の人々が祭祀三昧で普段の仕事を休みますので、歳神(としがみ)様、火の神様、竈の神様なども一緒にお休みされます。正月の三が日は、特別な神人共食の日ですから、火を使ひません。火を使ふことは、自分たちが休んでゐるのに、火の神様、竈の神様だけに働いていただくことになりますので、それを避けるために火を使はないといふことすらありました。

このやうに、これらの祭祀がだんだんと習俗化し、祭祀が形骸化して感謝の心を薄らいできたことが、おせち料理の歴史からも読み取れるのです。


人は、生活が豊かになり、その豊かさを限りなく求めて行くと、その豊かさが奪はれることを恐れます。豊かになればなるほどその「恐怖」は大きくなります。勿論、その恐怖は、太古の昔からありました。御先祖様と神々様のおかげによつて築かれ、それを子孫に残されてきた豊かさが、天変地変で奪はれる恐怖は今も昔も変はりません。しかし、その天変地変もまた神々様の営みであり、その「恐怖」も含めて「感謝」があつたのです。それが畏敬の念です。大和言葉で言へば、ありがたし、かたじけなし、の心です。ですから、大きな恐怖は、それ以上の感謝の心で包み込んできたのです。東日本大震災の多くの被災者の心にそれが甦つたことは、かたじけないことです。


ところで、これまでの長い歴史の中で、祭祀が形骸化し感謝の心が薄らいて行きました。すると、どうなつたでせうか。恐怖だけが取り残されたのです。祭祀による感謝が強ければ恐怖は取り除いてくれますが、祭祀をしないためにこれが取り除かれないのです。そこで、その心の隙間に宗教が生まれてきたのです。宗教の基本は、すべて「恐怖」による支配です。その恐怖を「理性」によつて解消できるといふ思想です。天国や極楽と地獄を対比して、教へに逆らへは天罰、神罰、仏罰が当たるとの恐怖、地獄に落ちるといふ恐怖によつて、理性的に人間が創造した神仏に帰依しろと脅かすのです。恐怖を抱いてゐる人をさらに脅かして、これを信じたら救はれると言へば、大抵の人は靡きます。飴と鞭の使ひ分けです。ニーチェがこれを奴隷道徳と言つたのはこのことです。ですから、理性的な編み出された神仏の数だけ宗教は生まれます。「この指止まれ」といふ人がいくらでも出てくるのです。不安と恐怖を掻き立て、いろんな神様や仏様を作り出せば、いくらでも宗教は生まれます。

しかし、これに対し、祭祀は一つです。それぞれの御先祖様は、後で勝手に作られるものではありません。すでにあるものなのです。そして、これらの御先祖様を辿つて行けば、すべての人々の御先祖様と一体となり、統合されるといふ感動があります。

ところが、宗教では、御先祖様よりも作られた神仏の方を上位とし、あるいは御先祖様への崇拝を否定しますので、人の数だけ宗教は生まれるのです。「イワシの頭も信心から」です。


私は、皆さんに、問答無用で宗教を捨てなさいと言つてゐるのではありません。宗教には、祭祀の道とは矛盾しない徳目が述べられてゐますし、その素養は大事にしなければなりません。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」としてはなりません。カルヴァンやルターのやうに異常なまでの潔癖さと偏執を望んではゐないのです。そして、大事なことは、宗教を捨てても決して信仰を捨ててはならないことです。宗教を捨てて無神論者となつても、それは未だに合理主義者のままで留まることに過ぎません。多くの宗教の中から特定の宗教を信ずるのも、これらすべての宗教を信じないのも、いづれも理性による判断です。宗教者になるのも無神論者になるのも、それはコインの裏表であり、合理主義者の域を出ないのです。ですから、宗教を捨てて後は、人間の本能に回帰して、信仰としての祭祀を回復せねばならないのです。


信仰の形態には、祭祀と宗教がありますが、この二つは全く逆方向なのです。一言で言へば、祭祀は、感謝、収束、本能、直観が基軸となつてゐるのに対し、宗教は、恐怖、拡散、理性、論理が基軸となつてゐるからです。


そして、これが「まほらまと」社会の実現にとつて重要な意味を持つてゐるのです。まほらまと社会は、自給力を強くして自給率を高め、自給自足しうる生活単位を家族にまで極小化した社会です。世界化、国際化と称して、自由貿易を促進させて各国の自給率を低下させ、また、証券取引などの賭博経済で格差社会を助長拡大させてゐる現在の世界のしくみとは正反対の方法である。分業体制による「無限大方向への発展」は、もうすでに世界の隅々まで進行して限界に達してゐます。経済活動を地球から外に出て行ふことはできないのです。しかし、「無限小方向への発展」は可能です。世界全体が、家族が生活できる食料を自ら生産して消費する自給自足の家族によつて埋め尽くされれば、戦争も飢餓も貧困もなくなります。人殺しをする宗教戦争も経済戦争もなくなります。


土と水で、どこでも食料とエネルギーが作れる技術革新ができれば、富の偏在がなくなり、争ひの原因はなくなります。

そうすると、自づと、大規模経済は終息し、家族単位で自給自足できる道が開かれ、祭祀が世界的に復活するのです。老子の説く「小国寡民」の思想も同じ方向ですが、老子の思想には祭祀の思想がないので、やはり唯物的な域を出ません。やはり、祭祀を基軸としなければ、画竜点睛を欠きます。「小国寡民」に祭祀の基軸がなければ、すぐに大国に飲み込まれて崩壊します。

ですから、国家の規模の問題ではなく、国家の構造の問題です。国家を構成する社会構造がどうかといふことが問題なのです。祭祀を基軸とするまほらまと社会へと向かへば、恐怖の宗教から感謝の祭祀へと転換することが世界平和を実現するのです。分業から総業へ、拡散から収束へ、理性から本能へ、個人から家族へ、無限大(極大化)から無限小(極小化)へと進みます。そして、まほらまと社会を世界全体が実現することができるのです。世界の雛形である我が国には、その使命があります。

皆さんも、おせち料理をまづは御先祖様にお供へして祭祀を執り行つてから神人共食の祝ひ箸でおせち料理を味はつて、まほらまとへの思ひを新たにしてください。


平成二十四年元旦記す 南出喜久治


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