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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第四十二回 道義と正義

ゆひのみち われすすみける ひとのよの あはあはしきを をさむことはり (結ひ(收束)の道 割れ(拡散)進みける人の世の 淡々しきを治む理)

言語学上の見解ですが、言語相対説といふものがあります。これは、使用言語の性質によつて人の思考や行動が規律されるとする「サピア・ウォーフの仮説」と呼ばれるものです。これは、「やまとことのは」の持つ言靈を理解する意味で大いに参考になります。

「やまとことのは」の性質として、五十音の一字一字の音とそれによつて組み合はされた言葉にはすべて言霊が備はつてゐますので、他の言語でこれを翻訳したとしても、もともとこれに対応する言葉が相手の言語にないときは、それに似た言葉を翻訳語とすることになりますが、それでは意味が通じないどころか、言霊の本意を失つてしまふといふことが起こります。


これとの関連で、興味深い考察があります。それは、オーストリア生まれのウィトゲンシュタインといふ哲学者が提唱した「論理実証主義」といふ見解です。これも実証主義の一種であり、形而上的な考察を避けて、専ら観察と実験によつて検証した事実だけで認識しようとする立場です。

彼は、哲学を言語批判の学と捉へ、ラッセルの影響を受けて、論理的原子論を唱へます。一義的に明確な定義ができる言葉と、これに対応する原子的に分解された単位事実との関係を、認識論から独立して成り立たせようとします。一つの事実に対して一義的な言葉を「記号」として対応させるのです。そして、認識とは、経験による検証によつてなされるものであるとして、哲学における命題は、その検証をすることにあるので、検証不可能な形而上学的な命題は全く無意味であると主張したのです。これが論理実証主義です。


平たく言ふと、かういふことです。含蓄のある言葉、難解な言葉、さらには、いろんな意味を数多く持つてゐる言葉は、場面場面によつて使ひ分けられ、その意味するところに対応する事実とは、一対一の関係になりません。ある言葉に複数の意味があり、人がその意味をそれぞれの場面で使ひ分けて議論したとき、その相手方もその言葉をいろいろな意味に受け止めて自由に反論することになると、議論が咬み合ひはないのです。文学論争としては成り立つても、哲学論争としては成り立ちません。一義的な定義ができてゐないと、議論がすれ違ひなることは、我々がよく経験することです。ですから、難解な言葉を用ゐたり、言葉の使ひ分けしてなされる哲学は意味がないといふのです。

このやうにして、ウィトゲンシュタインは、特に、スコラ哲学を槍玉に挙げ、ニーチェの「神は死んだ」といふ言葉を捩つて言へば、「哲学は死んだ」と言つたのです。


しかし、ウィトゲンシュタインは、後になつてこの見解を修正することになりますが、たとへ修正したとしても、この論理実証主義の見解は示唆に富んたものであり、この問題は、現実的には、通訳や翻訳の場面で今も直面してゐるからです。


それは、具体的に実例を挙げて言ふと、「正義」と「道義」の違ひについてです。和英辞典などによると、英語では、「正義」を「justice」、「道義」を「morality」と翻訳してゐます。しかし、「道義」の本来の意味は、「morality」ではありません。もともと、道義といふ言葉に該当する英語はありません。ですから、無理に「morality」といふ言葉を当てはめてゐるだけです。


また、「正義」を意味するとされる「justice」とは、「just」、すなはち聖書の説く神(God)の教へ適つたことが正義であり、「just」は、叙述用法では概ね「just with(before) God」(神に対して(の前で)の正義)と表現されるやうに、神「God」を抜きにして意味をなさない言葉です。


我々のやうな多神教(総神教)の世界に住む者は、「正義」と聞けば、人の数だけ正義があると感じます。しかし、英語圏の世界に住む者は、その訳語の「justice」を聞けば、正義は神(God)が指し示す一つだけのものと感じるのです。この指(Godの指)に留まれ、と命令しても、留まらない者は正義ではないのです。

ですから、逆に、このやうな「justice」に相当する言葉は、我々の世界にはないことになります。このやうなことは、意味やニュアンスにおいて、翻訳には致命的な違ひがあることの一例です。


どちらかかと言ふと、「正義」の訳語としては、類似語の「right」の方が近いものです。「right」の原義は、真つ直ぐ行くことであり、それが正しいことであつて、多くの人が右利きであることから、正しい道が「右」の方だといふことになり、「右」を意味することにもなつたのです。ちなみに、左の「left」の原義は、弱いとか価値がないといふ意味です。これも右利きの人からすればさうなるのです。


ところで、「justice」にしても「right」にしても、世界的には宗教的観念が希薄になつて使はれるやうになりました。法の世界では、「法の支配」(rule of law)の観念が発達し、実質的正義と形式的正義を区別することが意識されるやうになつたのも、その一例です。

実質的正義について、正義の実質が何であるのかを探求して行くと、どうしても宗教観に左右されてしまひます。そこで、登場したのが形式的正義です。

この形式的正義といふのは、「自己の権利は主張しながら、他者の権利を尊重しない者」を「悪」(不正義)とする法理です。他者を差別的に扱ふ「エゴイスト(二重基準の者)」を悪とする考へです。

「等しきものは等しく扱へ」、「各人に各人の権利を分配せよ(Ius suum unicuique tribuit)」といふローマ時代から言ひ伝へられてきた人類の知恵が生かされてきたといふことです。現代において、この形式的正義は「クリーンハンズの原則」(汚れた手で法廷に入ることは出來ない、自ら法を守る者だけが法の尊重を求めることができる)や「禁反言(エストッペル)の原則」(自己の行為に矛盾した態度をとることは許されない)などとして、英米法のデュー・プロセス・オブ・ロー(due process of law 適正手続の保障)の理念となりました。

そして、これを受けて、占領憲法第十三条や第三十一条にもこれを示す条項が入つてゐます。ところが、占領憲法自体が、自らが掲げたデュー・プロセス・オブ・ロー(due process of law 適正手続の保障)といふ形式的正義を完全に踏みにじつて制定されたものです。「人の物は自分の物、自分の物は自分の物」といふことを占領憲法は言ひ張つてゐるのであり、自己矛盾の極みです。ですから、これも占領憲法が無効であることの理由の一つとなつてゐることはご承知のとほりです。


ともあれ、このやうな「法の正義」は、昔から世界的に共通した法理であつて、我が国においても、「手前味噌」、「我田引水」、「身贔屓」及び「二足の草鞋」を不正義とする歴史と伝統がありました。喧嘩両成敗として、公私、自他、彼此でそれぞれ判断基準を異にするとの典型的な二重基準(ダブルスタンダード double standard)の主張を排除してきたのは、形式的正義の理念によるものです。


さうすると、正義は人の数だけあつて、道義は共通した一つのものであるとする我々の感性からすると、欧米にはないこの「道義」の概念は、この形式的正義の概念に近いものと理解することができます。

ところが、国語辞典などで調べてみても、「道義」の意味が正しく書かれてゐません。すべて道徳的な意味であると説明されてゐます。まるで、「morality」が逆輸入されて、その意味を「道義」としてゐるやうです。

我々は、潜在的に道義と正義の区別を感性で捉へてゐるので、口角泡を飛ばして「正義」といふ言葉を強調してゐる人の言葉を聞くと、何かしら眉唾ものではないかと感じたり、いかがわしさが漂ひ、高くて軽い金属音のやうな響きしか感じません。これに対し、一般的には、道義といふ言葉を聞くと、重厚で安定した響きを感じることが多いのです。

ですから、多くの人々が理想の国家像を語るとき、誰も「正義国家」をめざすとは言はず、「道義国家」をめざすと言ふのですが、どうして正義国家ではなく道義国家なのかと尋ねても、多くの人はその理由を答へることができません。


しかし、この区別は簡単です。「本能」に導かれた直観の道が「道義」であり、「理性」で判断して正しいとしたものが「正義」なのです。

道義に反する正義があること、不正義なものでも道義に反しないものがあること、道義は正義に優先することなどは、我々の御祖先の教へです。


これまで御先祖は、この本能原理に基づき、祭祀の道と家産制度による自給自足生活を営んできましたが、合理主義と個人主義といふ理性の産物によつて、宗教を作つてだんだんと祭祀の道から遠のきました。また、家族が財産を所有する家産制度を壊して、個人が財産を所有する私有制度となり、分業体制によつて自給生活を捨ててしまふことになりました。


しかし、人類は、再び本能原理を回復させ、これまで理性によつて低下させてきた生命力を取り戻さなければなりません。そのためには、ばらばらになつた家族、分業体制で工程が細分化された物作り、生産と消費の二極分化によつて低下した各家庭の食料自給力などを少しずつ元に回復させ、この拡散する世界に歯止めをかける必要があります。

その目指す方向は、家族の統合と生産工程の収束にあります。

仮想水(バーチャルウォーター)、食料の重量と輸送距離の積(フードマイレージ)、地産地消といふ言葉は、生産、流通、消費、再生といふ水と物資の循環の輪を極小化して効率化を図り、自立再生社会の実現に向かふための指標なのです。


その実現までに時間がかかつても、大きな国家目標を立てて前進せねばなりません。

この方向は、全世界が競つて同時に行つても争ひの原因にはなりません。拡散から収束への方向は、それぞれの民族がその本能原理に基づいて、個性的に歩む必要がありますが、その手法の違ひは、全体としての方向を妨げることにはなりません。山の頂上に至る道はいくらでもあります。しかし、目指す方向は一つです。本能原理は、フラクタル構造になつてゐますから、「合成の誤謬」(fallacy f composition)は起こりません。だからこそ本能原理による「道理」なのです。決して一人勝ちする「正義」ではなく、すべての人々が共生、共存、協調できるのが「道義」なのです。


これによつて、全世界に平和と安定が實現するもので、全ての民族のそれぞれの本能原理に最も適した「道」、それが自立再生論といふ人類の「道義」なのです。

平成二十四年九月一日記す 南出喜久治


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