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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第四十五回 無尽と賭博

かけごとは とがめられるも ふださしは おかみをあげて そやすはなどて (賭け事は 咎められるも 札差し(證券取引)は お上(政府)を上げて煽すは何どて)

将軍徳川綱吉の時代には、旗本、御家人、藩士などの武士の給料は、扶持米(ふちまい)支給の制度として定着しました。武士は、主君から与へられる俸禄の米(俸米、扶持米)を受けると、自家消費用の米は別にして、それ以外の扶持米でその他の生活資材の購入や入用の物資などを調達しなければなりません。物々交換によつてそれを調達することは限界がありますので、当時流通してゐた貨幣と交換(換金)することになります。武士の君主である将軍や大名も、年貢を集めて家臣に扶持米を与へ、残つた米で幕府や藩の財政を切り盛りするわけですから、換金しなければならない事情は同じです。


上方では銀貨、江戸では金貨といふ国内二重通貨制で、東西の換金レートや両替手続は両替商が取り仕切つてゐるなど、武士が自分で換金したりすることは、その知識もなく、ましてや武士の面目もあつてできないために、どうしてもそれを商人に委ねます。ときには、その扶持米を担保にして高利でお金を借りたり、米問屋に売りさばいてもらつて仲介手数料を支払ひます。その商人のことを札差(ふださし)と言ひました。いまで言ふ、高利貸しやブローカーの仕事です。


そして、その全国各藩から集まる米の売買取引が幕府公認を受け、大阪の堂島米会所で全国の米が集められて取引されることになります。大名の禄高や武士の扶持米などは、豊作や飢饉などの変動はあるとしても一応は予測できるものですから、ここでの売り買ひによる米相場は、現物の米を一々出し入れして行ふ現物取引が繁雑なため、見込みと予測による信用取引となり、将来の予測を踏まへた先物取引が始まります。

凶作などで米価が値上がりすると予想すれば先物を買ひ、豊作などで米価が値下がりすると予想すれば先物を売ることによつて膨大な利益を得ます。それの予測が外れれば損が出ます。その見込みの当たり外れによつて、得をする者と損をする者とができます。つまり、堂島では、世界に先駆けて大掛かりな先物取引が始まつたのです。これは、読みの当たり外れで損得が左右される現在の商品取引や証券取引と全く同様の「賭博経済」のシステムだつたのです。


賭博は、胴元が確実に儲かるものの、賭博に参加する者の間では、ゼロ・サム(zero-sum)の関係(参加者の損得の合計がゼロになる関係)です。そして、その賭博が継続して繰り返されて開催される場合には、最も資金量の多い者が必ず勝つ(儲ける)ことになります。そして、この賭博経済によつて生活物資が高騰することによつて受ける不利益は、この賭博に参加してゐない一般の人々なのです。


生活に必要な全ての基幹物資が「商品取引市場」といふ「賭博場」で取引され、胴元と賭博の勝者が吸ひ取つて高騰した原材料等で生産者が製造した半製品や製品は、初めから価格が決められて消費者に提供されます。

自ら販売ルートや流通・販売を確保することのできない生産者は、消費者に大量に生産物(商品)を提供する大規模小売店などの流通販売関連業者によつて、その生産物(商品)の販売価格が決められてしまひます。需要と供給のバランスで価格が決まるといふ経済学者たちの話は大嘘なのは小学生でも知つてゐます。スーパーマーケットなどのチラシは既に確定金額として価格が決められてをり、ここに買ひ物をしに行つてから、購買者が店員と交渉して価格が決まるものではないからです。消費者は、他のスーパーのチラシの品目と価格とを比較して、どこで何を買ふかを決める選択しかできないのです。


そして、労働もまた商品化され、「労働市場」などいふ言葉に振り回されることになります。これによつて労働といふ生活の基軸となるべきものを商品化することは、労働を軽視し冒涜することなのです。

労働が商品化、自由化、流動化されたことによつて何が起こつたか。それは、これまでの家族的な終身雇用的な雇用制度が崩壊し、景気が悪い、利益がでないといふ理由で簡単に従業員をリストラするといふ事態が恒常化します。リストラといふ言葉を使ふため、解雇、首切りといふ言葉の悲惨さ残酷さを誤魔化してしまふ。そして、いまでも多くの失業者が次々と生まれてゐるのです。


このやうな賭博経済を容認する経済制度の歪みは、政治制度や法制度をも機能不全に陥れてゐます。労働を商品化するといふことは、企業に労働を買はない自由(不雇用)、買つても返品する自由(解雇、首切り)を与へることとなつて、法制度による保護も徐々に骨抜きにされ、政治や行政は何も対応できずに翻弄されてしまふのです。


ジャスミン革命を目の当たりにしたノーベル経済学賞受賞者のジョセフ・E・スティグリッツは、「1%の1%による1%のための政治」と叫びましたが、それがアメリカでは、最上層の1%に対して「我々は99%だ」「ウォール街を占拠せよ」といふ運動へと発展しました。これは、形骸化した政治運動の虚しさを感じて、その元凶である経済制度に向けられた初めての運動でした。

しかし、「ウォール街を占拠せよ」といふのは、それ自体に運動の限界があります。占拠しても賭博経済は根絶できません。「賭博経済を根絶せよ」ではなかつたからです。これは、幕藩体制の打倒ではなく幕藩体制内の改革を目指した大塩平八郎の乱の掲げた目的の限界とよく似てゐます。


このやうに、貧富の差が大きくなること、生活格差が大きくなることこそが社会の大問題なのに、法律制度や政治制度の争点と言へば、形骸化した選挙制度における「一票の格差」の是正しか言へないのです。そんなことを是正したところで根本矛盾は解消されません。もつと重要なことは、賭博経済によつて1%が99%を翻弄する格差社会が固定化されることによつて生まれる富裕層の人と貧困層の人との間の「一生の格差」を是正することです。ところが、いまの司法制度を含む法律制度や政治制度では、根本矛盾があることを隠蔽するために、枝葉末節なことに終始して、根本問題である経済制度の歪みを正すことができないのです。


そもそも、賭博は、古今東西において御法度とされてきました。それは、それにのめり込めば本人も家族もその生活を破綻させるからです。賭博の勝者も敗者も、勝ち負けによつて人生の質を高め教訓を得て精神生活を向上させることはありません。賭博に関与したものは、すべて精神を退廃させた敗者であり、そのやうな者によつて社会秩序が破壊されて行くのです。

ところが、その賭博が、公然と認められる公営ギャンブルやパチンコ、スロットなどの賭博営業のみならず、世界全体の経済活動自体が賭博を基本とするものであり、これらが益々拡大することはまことに由々しいことなのです。


ところで、この賭博のやうなゼロ・サム(zero-sum)の関係ではないものに、「無尽」(むじん)があります。無尽講、頼母子(たのもし)、頼母子講などと呼ばれ、沖縄では模合(もあひ、むえー)と言ひます。

文献では、無尽は鎌倉時代から始まるとされてゐますが、これは一言で言ふと、相互扶助の仕組みです。尽きることが無い効用のある頼もしい仕組みです。誰も損をしない点に賭博と異なる最大の特徴があります。得をする程度と順序が抽選で決まるといふ点において賭博的要素があるだけです。

これは、庶民の相互扶助として始まり、江戸時代では、士農工商全般において広がり、伊勢詣での目的でなされる伊勢講など大衆的な金融手段としても活用され、これが共同体の絆を深める役割を果たしてゐました。それが明治時代以降では、営業として大規模化し、様々な問題に対処して法制度を整へ、大東亜戦争に至るまで続きます。このやうに、多くの無尽は日本経済を下支へしてきたのです。


ところが、GHQは、これを賭博的でギャンブルの一つであると見て、制限ないしは禁止の方向に向かつたため、現在では非営業的な庶民の無尽はほとんど見かけられなくなりました。つまり、人の心を荒ませる「賭博」だけが蔓延し、相互扶助の「無尽」が少なくなつてしまつたのです。

無尽は、「金銭」の相互扶助ですが、それ以外のものもあります。いはば「労働」の相互扶助も我が国では農村に多くありました。それを「結」(ゆひ)と呼びます。合掌造りで知られてゐる白川郷では、屋根の茅葺替へを今でも「結」で行つてゐるのです。


ですから、無尽を復活させることは、相互扶助の復活であり、社会の復活です。相互の信頼がなければ無尽は成立しません。一日も早く、これと似て非なる賭博と決別すべきです。前回は、「宗教を捨てて祭祀に回帰せよ」の言葉で結びましたが、今回は「賭博を捨てて無尽に回帰せよ」といふことになります。


そして、祖先から子孫に至る縦軸の祭祀と、相互扶助による横軸の無尽を結び合はせれば、「縦横無尽」に光り輝く社会を取り戻すことができるのです。その光り輝く社会とは、「まほらまと」の自立再生社会のことです。

平成二十四年十二月一日記す 南出喜久治


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