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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第五十三回 オキテとノリ

ふさがれし うみくがのりを はなつちは たみのいさみと こころのおきて
  (塞がれし(占領されし)海陸(皇土)法(法体系)を放つ(解放する)道は
    民(臣民)の勇み(勇気)と心の掟(心構へ))

これは、『國體護持總論』第五章「復元改正と統治原理」の冒頭歌です。

敗戦により皇土が外国に占領され、生活や法体系まで干渉されて変更を余儀なくされたまま現在まで継続してゐる状態にありますが、真の独立と解放が実現し、祖国を再生するためには、臣民の叡智を結集し勇気を奮ひ立たせる必要があります。

我が国には、根本規範、最高規範である規範國體が存在してゐるとの潜在的な規範意識を顕在的に回復することがその第一歩となるのです。

この歌は、そのことを詠んだものですが、ここには、「ノリ」と「オキテ」といふ二つの言葉が出てきます。ここでの「ノリ」とは、法令、法体系のことであり、「オキテ」とは、これを超えた上位の最高規範である規範國體のことです。「こころのおきて」といふのは、規範國體の規範意識こそが臣民の心構へであることを意味します。


一般には、「ノリ」と「オキテ」とは同義語として用ゐられて厳密な区別はされてゐませんが、今回は、この両者の区別について詳しく述べてみたいと思ひます。


まづ、「ノリ」は、日本書紀では、法律、法則、法式、典、制の漢字をノリと訓じてゐます。それ以外にも、ノリは、規、憲、範で表はされます。ノリは、「宣る」、「告る」であり、コトバとして発せられるものです。


これに対し、オキテは、掟といふ漢字が当てられてゐます。この語源は「置き」であるとする説が有力ですが、それによると「置き」+「つ」(完了の助動詞)の名詞形とされるのですが、これには余り説得力がありません。

おそらく「オキ」(沖)+「テ」(手)だと思ひます。オキは、「沖」を意味する大和言葉であり、「奧」(オク)の漢音と類似することから、奧の漢字の意味と重なつて意味が深まつたものでせう。

つまり、陸地から遠い海や湖沼の方向をオキといひますが、奧の意味と重なつて、高貴な意味を持つことになりました。隠岐の島、沖の島といふのも、このオキの意味があります。これは、前回(第五十二回)の「アマとアメ」で述べたとほり、アマテラスオホミカミの「アマ」の思想と重なるものです。


オクノテ(奥手)といふのは、左手のことです。左手は心臓に近い尊い手であり、官職でも左が上位です。古事記では、アマテラスオホミカミは、イザナギノミコトが阿波岐原で禊祓ひをして左眼を洗はれたときに成り生せるカミです。

ところが、外国ではこの逆です。古代の支那では、右が尊いもので、左道とは不正なことを意味します。英語でも、右(right)は正しい意味があります。


ところで、ノリとオキテに共通する意味は「規範」のことですが、オキテの場合は、初めから決まつてゐる運命的なものを意味するのに対し、ノリの場合は、新たに作られたものをも意味することになります。


よはいかに ひらけゆくとも いにしへの くにのおきては たがへざらなむ


これは、明治天皇御製ですが、ここで示されてゐる「くにのおきて」の意味は、初めから存在するもので、「規範國體」のことです。作られた法ではなく、発見された法(初めからある法)であるとする所以はここにあります。ノリとオキテを対比させる場合は、ノリは作られた法、オキテは発見された法(初めからある法)として区別されます。


ノリは、言葉に由来するので、発せられる言葉によつて作られるのに対し、オキテは、初めからあるものです。オキ(沖)やオク(奧)は、人が存在する前からあるものであり、コトバ以前の存在だからです。人の思考や生死とも関係なく初めから存在するものだからです。


オキテは始源的、根源的なものですから、オキテとノリとは、主従の関係にあります。ノリは、オキテ(規範國體)を根拠として発せられるもので、オキテに背くノリといふものは存在根拠がありません。「天皇と雖も國體の下にあり」ですから、「ノリと雖もオキテの下にあり」といふことなのです。


このやうな、オキテとノリの関係に類似したものは他にもあります。たとへば、「キヅナ」(絆)と「チギリ」(契り)との関係です。


キヅナとは、「キ」(キリ、限)+「ツナ」(綱)であり、繋ぎ止められた断ちがたい運命的な繋がりのことです。これに対し、チギリとは、テ(手)+ニギリ(握り)が音韻変化した言葉で、約束を意味する言葉です。


東日本大震災による復興支援において、キヅナ(絆)といふ言葉は広く使はれるやうになりました。このキヅナは、震災前にあつた全国的な連帯意識を意味してゐます。初めからあつたものなのです。被災地と被災地外との間で新たに結ばれるチギリ(契り)ではないのです。


夫婦になる初めはチギリによるものですが、そのチギリを結んだ後ではキヅナになります。夫婦のチギリを深めることによつて夫婦のキヅナが生まれるのです。これはチギリによつて築かれる関係ですが、チギリを運命的に捉へれば、チギリ前のキヅナがあつと受け止められるのです。夫婦の出会ひを運命論で語らうとする心情は、人と人との関係を人類に共通した本能といふキヅナを意識することから生まれます。


また、親子や兄弟などの関係はチギリによつて生まれるのではなく、初めからキヅナなのです。だからこそ、被災地の人々と全国の人々とが、親子や兄弟のやうに日本人全体を家族総体としてのキヅナがあると自覚するのです。


そして、本能が強化されると、このキヅナを深く意識します。キヅナは、親子、兄弟、夫婦、朋友といふやうに身近なところから、近所、地域、同郷、国家、世界へと広がつて行きます。


しかし、たとへば、東日本大震災による復興支援において、「キヅナ」といふ言葉を囃し立てる人にありがちなことは、自分の親や子供、配偶者とのキヅナ意識と行動の弱さに対する負ひ目から、他人に奉仕することで責任逃れする傾向があることです。


うまれあふ よそひとたちと むつむよに ひとしほおやと こころかよはせ
   (生まれ会ふ余所人たちと睦む世に一入親と心通はせ)

 いたましき あまたのひとを たすけける さかしらひとの おやはいかにか
   (痛ましき数多の人を助けゝる賢しら人の祖は如何にか)

の二首は、身内へのキヅナを疎かにして、他人とのキヅナを深めようとすることの愚かさを自覚して欲しい思ひで詠つたものです。人間関係において、最も中心に位置する身内のキヅナが空洞化して弱くなれば、他人とのキヅナは深まるはずがありません。「博愛」、「汎愛」の精神といふものは、本質的に偽善が忍び込んでゐるのです


身内のキヅナが何よりも強いものにならなければ、部族全体、民族全体のキヅナは弱まり、民族自体が本能的に劣化し、将来における生存が危ぶまれるのです。強い身内へのキヅナがあつてこそ、地域や国家のキヅナを強くすることができるのです。


このやうに、社会の規範や関係性については、始源的なものと後発的なものがありますが、この違ひを観念的に理屈では判りえても、これらの中心部分と周辺部分とが連続的かつ一体性のあるものであることを本能的に感得できる方法は、やはり祭祀の実践しかないといふことです。

天皇だ、保守だ、伝統だ、憲法だ、典範だ、祭祀だ、などと理念だけで騒ぎ立て、家族も持たず子育てもせず、親子や家族のキヅナや生活を守る力もなく、モノもウタも作れず、祭祀を日常的に実践できない人には、喧しく能書きを並べ立てる言動をするやうな資格はありません。これすら自覚できず実践もできないことについて恥を知るべきです。

平成二十五年八月一日記す 南出喜久治


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