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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第五十九回 家産と貨幣経済(その五)

かぶかはせ かかはりのない くらしにも おほひかぶさる だきつきおばけ
  (株(株式、債券)為替(国際為替)関はりのない暮らし(社会生活)にも覆ひかぶさる抱き付きお化け)

占領憲法の原案であるマッカーサー草案は、わが民族の自決権を奪つた諸悪の根源ですが、その中で、一だけ評価できるものがありました。それは、第七十六条の「租税ヲ徴シ金銭ヲ借入レ資金ヲ使用シ並に硬貨及通貨ヲ発行シ及其ノ価格ヲ規整スル権限ハ国会ヲ通シテ行使セラルヘシ」といふ規定です。これは、租税徴収権と通貨発行権を一体として国会の権限にしようとしたものです。


当時も現在も、アメリカ合衆国連邦憲法の第一章第八条第五項には「合衆国議会は貨幣発行権、貨幣価値決定権ならびに外貨貨幣の価値決定権を有する。」といふ規定がありますが、このすべて権限は、合衆国議会にはなく、FRBに奪はれたままであり、違憲行為がいまも継続してゐるのです。戦前の日本も、日本版FRBとも云ふべき「日本銀行」が設置され、帝国議会は勿論のこと、国家にも天皇にも実質的には通貨発行権がありませんでした。連邦憲法に則してこれを国家が取り戻す方向で、マッカーサー草案第七十六条ができたのですが、FRB支持勢力によつて政府の帝国憲法改正案からは削除され、勿論、占領憲法にもその規定はありません。

ただし、通貨発行権が日銀に専属するとはなつてゐないために、過去において「政府紙幣」の発行が提唱されたことがありましたが、国内のみならず国際的な視点での通貨発行権の根本問題に迫らうとしないその場限りの軽い思ひ付きの提案であつたこともあつて、FRBの走狗に成り果てた政府によつて、この案は完全に潰されました。


国家に租税徴収権がなければ、税収入を確保できず国家予算を組むことができませんので「財政」政策を決定することができません。これと同じやうに、国家に通貨発行権がなければ、通貨価値や通貨量を決定して経済の循環血液の役割を担ふ通貨による「金融」政策を決定することができません。この「財政」と「金融」とは、車の両輪のやうに、国家の経済的独立性(言葉は適正ではありませんが、「経済主権」と表現することがあります)を保つためのものです。国家が、他国や他の組織や団体の影響と干渉を受けることなく、自らがその財政と金融を決定することができなければ、独立国家ではないからです。


国家の独立とは、政治的独立と経済的独立の双方が満たされることです。その意味では、マーストリヒト条約によつて成立した欧州連合(EU)の欧州中央銀行(ECB)に、EU加盟各国は単一通貨(ユーロ)の通貨発行権を与へたことから、ユーロ圏では、各国には国債発行権はあつても、通貨発行権は各国にはありません。つまり、各国は経済的には「半独立国」となつたわけです。

マーストリヒト条約やEU憲法条約によつて、EU加盟各国は、EU全体が一つの独立国に近づかうとするのです。


EU統合の構想といふのは、ローマ帝国や神聖ローマ帝国に続く、「第三次ローマ帝国」を建設する構想ですが、これまでの歴史に学べば、いづれ崩壊します。ローマ帝国や神聖ローマ帝国は、その版図が拡大しつ続けることによつて、平和と繁栄をもたらしたもので、その版図の拡大が止まつた段階で崩壊が始まつたからです。永久に膨張し続け、国外の周辺から富を収奪しそれを人民に「パンとサーカス」としてそれなりに公平に配分してきたからこそ、異文化と異民族の複雑な対立といふ内部矛盾の目を逸らすことができました。ところが、ローマ帝国では、版図の拡大が止まると、内部矛盾が吹き出し、さらには、国外からの異民族の侵入が起こりました。版図が拡大することによる軍事費の増大が、「パンとサーカス」の配給の減少と不公正配分を生んだからです。それをなんとか維持しようとして必然的に悪質な通貨をジャブジャブ発行したために、貨幣経済に対する信用が崩壊して行つたのです。そこで、起死回生を狙つてキリスト教を国教としたのです。「パンとサーカス」に代はる統治原理としてこれを採用したのです。「パンとサーカス」の公平分配といふ物質的公平が実現されなくなつたので、キリスト教による精神的公平(平等思想)によつて統治しようとしたのです。その意味では、マルクスが「宗教はアヘンである」といふ言葉は、宗教の統治効用を指摘したものとして評価できます。「パンとサーカス」が人民に公平に分配されなくなつても、人民をアヘン患者にすれば、富める者も貧しい者も、健康な者も病弱な者も、等しくキリスト教によつて救済されることにおいては平等であるとの教へによつて、貧富の格差や富の再配分の不公正さの矛盾から目を逸らすことができるからです。しかし、キリスト教を国教としても、その程度ではローマ帝国の崩壊は止まりませんでした。そして、東ローマ帝国と西ローマ帝国に分裂しました。分裂してそれぞれ版図が縮小すれば、それに比例して矛盾の規模も縮小するからですが、結局は内部矛盾と外部圧力によつて滅んだのです。西ローマ帝国もまた三分割された後に滅亡しましたが、その形式的復興を果たしたのが神聖ローマ帝国ですから、EUは、「三度目の正直」となることを期待したものです。しかし、これは「三度目の正直」になるのではなく「二度あることは三度ある」といふべきです。

しかも、EUには、過去の歴史で明らかなやうに、物質的にも精神的にも人民の公平感を満足させる統合原理がありません。国教を打ち立てることは時代を逆行させることで不可能です。「パンとサーカス」や「キリスト教」に代はりうる何らかの統合原理すら存在しないEUでは、各国間の格差矛盾などによつて早晩崩壊することは必至です。


さて、話を元に戻しますが、これまで述べたとほり、国家の経済的自立を実現するためには、財政と金融とが一体(財金一体)として運営されることが必要です。経済的自立は、財政の自己決定権である「財政権」と金融の自己決定権である「金融権」が確保されてゐることです。

ところが、アメリカでは、FRBによつて、国家の金融権が奪はれ、財政権のみとなつて、そのアメリカ方式に日本その他多くの国で採用され、この金融制度こそが世界基準であるかのごとく喧伝され、「財政と金融の分離(財金分離)原則」が当たり前のやうになり、これに疑問を挟むことができなくなるほど、世界的な思考停止状態となりました。財政権だけしかなく、金融権のないのは偏頗な片肺呼吸です。財政権と金融権の双方が飛行機の両翼となつてゐるからこそ、国家は統治飛行を続けられるのです。この異常さに気付かずに、むしろ、片肺呼吸、片翼飛行の方がよいのだといふことを信じ込まされてゐます。洗脳とは本当に恐ろしいものです。金融権を国家から何らの対価を支払はずに奪ひ取ること、これこそが、祭祀の道第五十七回『家産と貨幣経済(その三)』で述べたとほり、シニョリッジ(通貨発行益)を独占できる通貨発行権を国家から簒奪したことは、FRBとその走狗たちが得た世界最大のレントシーキング(rent-seeking)なのです。

本来独立国であつたEU加盟各国から通貨発行権を無償にて剥奪し、欧州中央銀行(ECB)これを附与したことも、近年では最大規模のレントシーキングだつたのです。


やはり、財金一体が原則でなければ、独立国家における政治を全うすることができません。「財金分離」が正しいものであるとする呪文から解き放たれて、財政と金融を一体とした「責任政治」を行ふ必要があります。政府と日本銀行(日銀)とは別であり、日銀の自治と独立性が大事であるといふことは、無責任にもほどがあります。財金分離であれば、日銀がジャブジャブと日本銀行券を発行して政府から引き受けた国債の債権を全部放棄して政府の債務をすべて帳消しにし、その結果、日銀が債務超過になつたことを理由に、日銀だけを破産させて、借金まみれになつた政府の財政をリセットして涼しい顔ができるといふ、超ウルトラCといふか、スーパーEの芸当が、少しばかり法律を改正するだけで可能になります。そんな無責任なことができる可能性があること自体が政治不信を増大させ権力の正当性を否定することになるのです。政府の借金は国家の借金であるといふ厳粛な認識が必要ですし、日銀を国家の100%子会社にして日銀を政府が吸収合併し、政治家や官僚も政策の誤りによつて被つた国家の損害に対して連帯責任を負ふ覚悟がなければ、国家の財政と金融は再生できません。


前回(『家産と貨幣経済(その四)』)でも述べましたが、通貨発行権の源泉は、個人にあり、それを政府に寄託したものにすぎません。ところが、その趣旨に反して、政府に寄託した通貨発行権が政府とは別の機関である「中央銀行」に委ねられました。私企業である金融資本がレントシーキングによつて簒奪したものです。ですから、多くの国の中央銀行といふのは「国立銀行(国家機関)」ではありません。

殆どの国は、FRBの手下となつて国家機関ではない「中央銀行」を作らせて、私企業の金貸し屋の経営になりました。このやうな中央銀行制度がない国は、世界には殆どなく、北朝鮮、イラン、スーダン、キューバ、リビアだけになりました。以前は、アフガニスタンとイラクも中央銀行制度がなかつたのですが、アメリカの圧力によつて中央銀行制度を導入することになりました。アメリカとその手先は、これらの国を「ならず者国家」と云ひますが、仮に、この言葉が政治的には通用しても、金融権を維持して国家の経済的独立性を図る観点からすれば、金融権を奪はれながら金融権を奪はれてゐない他国を「ならず者国家」呼ばはりして罵つたきたアメリカとその手先になつた国家こそが、ならず者の金融資本集団に隷属し続けてきた「意気地なし国家」なのです。


そして、金融資本集団の餌食となつて、財金分離を行ひ、株式、社債、債券などやこれから派生した金融商品(デリバティブ)は勿論、通貨それ自体まで、実体経済である貿易決済とは全く関係のない形で「博奕」の手段にし、「取引所」と称する「博奕場」で博奕をし続けてゐます。その結果、このやうな賭博経済とは何の関係もなく、汗水たらして真面目な生活する人々に悪い影響を与へて迷惑をかけ続けてゐるのです。博奕は御法度とされてゐるはずなのに、金融資本集団に隷属した政府は、この最大の博奕を全面的に奨励し、マスメディアも天気予報と同じやうな調子で、博奕の相場価格を毎日毎日報道し、博奕を奨励してゐるのです。


株価(かぶか)が上がつたり下がつたりするよりも、蕪(かぶら)の値段である蕪価(かぶか)が上がつたり下がつたりする方が、実体経済や人々の暮らしにとつて重要なはずです。博奕打ちが大きな顔をして「ケーザイ、ケーザイ」と叫ぶやうな賭博経済に支配された世界が行き着くところは「破綻」しかないのです。

ですから、我々は貨幣経済や通貨制度なとの根本から糺した経世済民の原点に立ち戻る必要があります。その基軸となるのが、やはり「祭祀」なのです。

(つづく)

平成二十六年二月一日記す 南出喜久治


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