國體護持總論
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著書紹介

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飽和絶滅

人類には、地球上に生を享けたことに對する感謝と愼みが必要である。「ケイザイバンザイ、ナンデモケイザイ」と經濟萬能の大合唱をして、經濟しか人生の關心がなく、生産と消費の量に比例して幸福が高まると信じ、利益の追求と欲望の滿足しか眼中にない。そして、經濟萬能を基礎づける通貨に最大の價値があるとする拜金主義を全世界の隅々にまで擴散して飽和状態に至つてゐる。

さらに、「少子化」は經濟を失速させるなどと喧傳し、「産めよ增やせよ」を肯定して人口問題を忘れ去つてゐる。しかし、人類による破壞の速度とその總量が、地球の再生能力による治癒の速度とその總量を超えたとき、地球は再生不能の状態に陷り、人類は「飽和絶滅」するのである。飽和絶滅とは、たとへば、ガン細胞は、生體に限りなく增殖し續けても、それが生體のすべての臓器と細胞にまで及んで飽和状態になれば、生體が死滅することになるが、それによつてガン細胞全體も死滅するといふやうに、寄生對象の生體全體に極限まで增殖して飽和状態になれば生體が死亡すると同時に、これに寄生したガン細胞も絶滅するに至るといふことである。これが、地球環境に負荷を與へる人類と地球との關係に似てゐる。

つまり、經濟的國際競爭力なるものは、決して世界平和に貢獻しないのに、これを持て囃し、ますます過激に拜金增殖させることによつて、大量生産と大量消費を可能にし人口爆發に至る。

しかし、盛者必衰、極盛必敗、生者必滅である。地球環境を再生不能なまで破壞しうるのは人類だけであり、そのことは、人類が飽和絶滅しうる可能性があるといふことでもある。そして、その最大の懸念要素は、人口增加問題、つまり、世界の人口が地球の負荷の限界點を越えつつあることにある。それゆゑ、人類がそのやうな事態に至らないために、保存本能を作用させるとすれば、自らの增殖能力を低下させ、少子化、劣子化、短命化による人口調整作用を働かすことになり、個體の免疫力の低下と生命力の減退などによる疫病等の大流行による人口の急激な減少もまた飽和絶滅を回避するための人類の保存本能の働きとして現れてくる。

『自殺論』を著したフランスの社會學者E・デュルケームは、戰爭時よりも平和時の方が自殺が多いことに着目し、もし、自殺の動機が生の過酷さにあるとすれば、戰爭のときに最も多くなるはずであるのに、平和時に多くなるのは、平和によつて社會が發展、混亂したときに、アノミー(anomie)の状態になるとした。「a」は否定、「nomie」は規則の意味であるから、「規範崩壞」といふことであり、いままで依據してきた社會的な基準、規則が役に立たないとき、人間は目標を失つて自殺しやすくなるといふのである。

しかし、どうして平和時にアノミー状態になるのかが全く解らない。社會學的な考察だけでは解明できないのである。ここでも、この解明はやはり本能論によることになる。まづ、神經系について考へてみると、これには中樞神經系(腦と延髄)と末梢神經系とがあり、末梢神經系は體性神經系と自律神經系に別れる。そして、體性神經系は感覺神經と運動神經とに、自律神經系(間腦)は交感神經と副交感神經に區別される。つまり、これは、擴大と縮小、擴張と收縮、促進と抑制の均衡のための重層構造であり、この神經系によつて築かれた本能についても、その行動意識にも促進と抑制の均衡によつて保たれてゐる。ある欲望を促進することに對して、それを抑制するのも他の欲望によるものである。欲望の均衡こそが本能原理である。

しかし、たとへば、イナゴが普通の状態で生存してゐる「孤獨相」の場合と、大群になつて一つの生き物となつたかのやうな「群生相」の場合とは、同じ種であるにもかかはらず、それぞれの本能行動を著しく異にするのはなぜなのか。決して種が變化したり本能が變化したのではなく、「孤獨相」も「群生相」もともに個體の本能として宿つてゐるものであり、それが情況の變化によつて本能の發現態樣が變化するのである。それは、人類についても同樣で、個人個人の場合の「孤獨相」での行動特徴と、群衆の場合の「群生相」での行動特徴とは異なるのであつて、いづれも人類に備はつた本能なのである。それゆゑ、孤獨相での自殺と群生相での自殺とは區別して考へる必要がある。

まづ、平和時における孤獨相の自殺は、腦の機能缺損や不全などの疾病や受傷による場合以外は、おそらくその殆どに共通した根底的な原因がある。それは、自殺するに至る表面上の辯明とは別に、その濳在的な根底に、人類の「飽和絶滅」の危機があり、それを通常人よりも強く感受した者の本能行動に他ならないと考へられる。「漠然とした不安」といふ言葉で自殺した芥川龍之介にもそれが見て取れる。「漠然とした不安」の源泉は、紛れもなく「飽和絶滅」の恐怖とそれを回避するための自發的解消としての「自裁」に他ならない。

そして、このやうなこれまでの孤獨相の自殺は、これから豫測されるであらう群生相の自殺を暗示するものであり、そして、現に一部では集團自殺といふ形態で起こり始めた群生相の集團自殺を警告し續けてきた現象であつたといふべきであらう。國連の推計によると、平成二十二年には、世界の人口は約六十九億人、そしてさらにその二十年後には約八十四億人とされてをり、人類の歴史は、かつてない人口增加とそれによる飽和絶滅への危機に直面してゐる。それゆゑ、これからは、人口急激な減少によつて一氣に危機を回避するため、それを實現しうる戰爭誘發と集團自殺の群生相が世界的に形成される危險度は益々高まつてゐるのである。

このやうな飽和絶滅の危機感に基づく自殺は、病氣や藥害による幻覺、極限的な苦惱、それに宗教的な洗腦による自殺との區別をすることが困難であり、それらが明確な自覺に基づくものか否かにかかはらず、すべては輪廻轉生(歸巣本能)を目的とするものや「捨身往生」によるものに收斂されることになる。たとへば、イジメによる子供の自殺報道に對して、メディアが自殺した子供に同情と理解を示し、その常套文句として、自殺した子供について「天國に行つた○○ちゃん」と表現することが多い。そして、この同情による美化が同じ境遇に置かれた子供への洗腦となつて自殺の連鎖を生む。まるで、コンピュータ・ゲームでゲーム・オーバーすればリセットできるといふやうな感覺である。このやうな自殺の連鎖を防ぐためには、「自殺すると地獄へ落ちる」と啓蒙すれば良いのに、自殺して天國へ行かうといふ自殺の美化と同情で報道し續けてゐる。世界宗教の多くは、自殺すれば地獄に落ちると説いてゐるのに、我が國の報道機關は、自殺禮贊宗教を信じてゐるかの如くである。しかし、どうしてこの程度の洗腦で子供は自殺をするのだらうかと翻つて考へてみると、メディアを含む社會全體の人々と子供自體の「本能の劣化」が進んでゐるためである。それもまた飽和絶滅の危機に向かつてゐることの證左と云へよう。

ただし、このやうな自殺とは全く無縁の自殺があることも事實である。それは、本能に基づいた覺悟の自殺である。たとへば、京都の「宇治」の語源となつた菟道稚郎子尊(うぢのわきいらつこのみこと)の自殺は、應神天皇の皇太子でありながら、後に仁德天皇となる兄の大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)の即位を促し、皇長子優先の皇位繼承秩序の確立を目的とした皇統護持の本能によるものであつた。このやうな自殺のことを「自決」と云ひ、自己の生命を投げ捨てて守るべきものがあるときに起こる。戰國時代における婦女子の集團自害や近代戰爭における非戰員の集團自決のやうに、單なる歸巣本能を超えた「留魂」の自殺もある。これは、自陣の戰闘員が十全に働くことができるやうに、足手纏ひとなる非戰闘員の行ふ「戰闘行爲」としての「自決」である。そして、現代においては、生命保險金によつてしか家族の生計維持が實現できないと思ひ詰める家長の自殺(自決)は、家族維持本能による行動と云へる。

さて、再び人口問題に話を戻すことにする。

マルサスは、『人口論』において、人口は幾何級數的(等比數列的)に增加するが、食料生産量は算術級數的(等差數列的)にしか增加しないといふ人口法則を明らかにした。人口と食料の不均衡は不可避的なものであり、このことは、現在では人口問題を考へるについて公理として認められてゐる。そして、マルサスは、飢饉、貧困、惡政(戰爭、内亂)などは人口調節のための人口抑制要因としての自然的に生起する現象であり、資本主義經濟など社會制度の缺陷が原因ではないとした。そして、人口增加抑制政策としては、道德的抑制(家族扶養能力がつくまで結婚年齡の延期、その間の性的自制など)に求めた。しかし、道德的抑制では實效性に乏しいことから、マルサスの考へを引き繼いだ者(新マルサス主義)は、受胎調節、産兒制限の必要を説き、勞働者階級は社會主義ではなく産兒制限によつて貧困から脱却できるとした。

これと對極にあるのが、ダーウィンの進化論から發展した「優生思想」である。優生思想は差別思想の源泉であり、その誤りは進化論の誤りにある。優生思想と進化論は、いづれも唯物論であり、人々を理性論に洗腦させ、人間の思考能力、運動能力などの數値的能力を測定して生産性の大小で差別する。決して、德性の高低で人の價値を判斷するのではない。進化論は、類人猿を人類の直近の祖先とすることであり、敬神崇祖によつて培はれてきた人類の德性を否定する思想である。人は、猿を祖先と崇めて德性を高めることができないのである。人は、猿から進化したのではなく、神から退化したものと信じなければ、德性の高い理想世界に到達できない。

ともあれ、人類の生存が地球環境を變化させ、地球の再生能力の限界點(飽和點)に至る許容總量は未知數ながらも限界定數的に決まつてゐる。許容總量を地球上の人口總數で除した數値が一人あたりの許容量となる。その一人當たりの許容量は、人口が增加すれば、それに反比例して減少する。そして、一人當たりの許容量は、消費生活における一人當たりの消費量に比例するから、消費生活の工夫によつて一人あたりの消費量とその增加速度を調整することには自づと限界がある。しかも、總人口が增えれば、その一人當たり消費量の限界量も減少する可變數値なので、個人の自助努力で解消できる問題ではない。それゆゑ、殘る方法としては、總人口の調整といふことに歸結することは確かである。地球規模の問題として提起される環境問題、公害問題などの究極の到達點は、すべてこの人口問題に收斂されるのである。

そして、この人口問題こそが、温室效果ガスの排出量を制限して地球の負荷を輕減しようとする取り組みについては、最優先の課題であることが殆ど忘れ去られてゐる。否、認識してはゐるが、これが思想的にも餘りに大きな問題でありすぎることから言ひ出せないのである。「持續可能な」經濟發展のために温暖化對策を行ふといふやうな聞こえの良い言葉は、人類は永遠に發展し續けるといふ進歩史觀と成長信仰に根ざしたものであつて、人口增加は基本的には「進歩」ないしは「國富」との認識から拔け出せないで居る。成長信仰に毒されて、少子高齡化を「危機」と捉へることなどは、その典型例である。まさに「マッチ・ポンプ」の樣相である。

萬物の中で、無限に成長するものなどあり得ない。人類が無限に增殖すれば、飽和絶滅が待つてゐる。にもかかはらず、永久に「成長」するとの邪教が蔓延してゐる。資本主義も共産主義もこれに毒されたものである。成長に陰りが出てくると、「新たな成長モデル」を模索し、成長信仰を捨てることがない。

技術の進歩により社會生活が便利になればなるほど、人々はそれを共通して活用し、それがあることを前提として競爭することになるから、他人との「相對速度」は變はらない。むしろ、進歩した技術を活用して競爭社會を泳ぎ切る者と、その技術を使はずに競爭社會から取り殘される者との間の相對速度が大きくなるだけである。それが格差を生む。そして、社會全體の絶對速度が大きくなることは、それだけ生活が慌ただしく煩瑣になるだけである。人にとつて最適な、ゆつたりとした生活の速度と佇まひが壞され、人の思考が瑣末なものとなり、生命力を低下させ人類の退化と老化が促進される。まさに繁榮と頽廢との間には相關關係があるのである。

文明とは野蠻なものである(南洲遺訓、文獻77)。文明進歩史觀は必ず差別と殺戮を生む。進歩しない劣等人種(民族)と進歩する優等人種(民族)との區別からくる差別と殺戮がある。文明(civilization)の語源は、市民(civil)であり、都市化することが文明である。生産と消費の一體的生活であつた農業、畜産業、林業、漁業から消費生活だけを分離し、生産と消費の分離、さらに細分化した分業、工業化の促進などによつて農地と森林が破壞され、これによつて水源が枯渇し、ついに文明は飽和絶滅によつて崩壞する。

このことについて、アメリカの文化人類學者エドワード・T・ホールは、人類の都市と文化の問題を動物の集團との比較において次のやうに述べた(文獻61)。「動物の集團の場合は、解決はきわめて簡單であり、われわれの都市改造計畫や郊外の無秩序な擴大において見うけられるものに驚くほど似ている。ネズミの集團の密度を高めて、しかも健全な標本を維持するためには、ネズミを箱に入れて互ひに見えないようにし、かごを清潔にし、十分な食事を與えればよい。箱は望みのまま積み重ねることができる。殘念なことに、かごに入れた動物は愚鈍になりやすい。これは積み重ね方式の拂わなければならない高價な代償である。」と。

つまり、シカやネズミなどの場合は、過密によつて各個體の生活圈が確保できないことのストレスが起こり、これが原因となつて自殺的行爲や共食ひなどの異常な行動が見られるといふのである。これは、文明の過剰發展が飽和絶滅に至ることを防ぐ種族保存本能が事前に作動して、文明の發展を阻止して縮小させるための「自淨作用」の本能によるものであることを示してゐる。

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